読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

花見。料理をする男たちを眺める愉悦+それはそうとウイルスに蝕まれている/言葉(常態)と物

料理をする男たちを眺めること/紅茶

先日掲載したエセーの〆で宣言したとおり期間をあけずに記事を更新する。ここまでの短期間で次の記事を載せるのはエセーにしても小説にしても私にとっては珍しく、私の文章を逐次追っている、という大変な好事家の方にとっても驚くべきことだろう。その原因は非常に明確で、私がなかなかエセーを書けない理由は先日掲載したエセーに書いたとおりテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからなのだから、エセーをすぐに書ける、ということはその裏であり、つまりいまはテナーサキソフォンの練習をしていないからだ。その理由は後述するがまずは先日参加した花見の話をしよう。

4月になれば例年開催されるとある趣味人の集い(から時をへていまは友人たちの集い、なのだが)の花見に私は毎年参加している(開催される、と私は書いた。つまりこの花見の主催は私ではない。また私はできる限りこの花見に参加している。つまりこの花見は良い集いなのだ。だから私は主催者の某氏に感謝を重ねている。今年も1つ感謝を重ねた)。参加者皆が持ち寄る酒は東西南北の銘酒ばかりであり、私のあまり知らない人々や他人がtwitterInstagramに上げる花見に持ち込まれたアルコールのラインナップ(の写真)と比べると、この花見に並ぶ酒のほうが10倍から100倍くらい凄く(ただし日本酒に種類は寄っている。さらにはわざわざ名前を出さないが、プレミア価格がつく日本酒は飲み飽きている人々が多く、故にあえてそこを外した酒が並び、つまり彼/彼女らはその点は好事家なのだが、自身が酒に関しては好事家であることに無自覚な人が多いのも好ましい(念のために書くが、酒に関して好事家であることは悪いことではない。いや、悪癖ではあるが・笑))更には参加者の一部の料理の腕が高い人々が自宅で作ったシャルキュトリーや煮物などの和食も振舞われ、更に生ハムの原木がまるごと1本持ち込まれるのだが、この花見の主役はそれではない、雰囲気である。良い雰囲気はそこに集う人々が作り出すものである、ということは言うまでもないが、それでもあの花見でもっとも良いものはあの雰囲気であろう。あそこならば、酒を1滴も飲まずに始めからその終わりまで眠っていたとしても良いものになるだろう。それが雰囲気、という場の力が持つ人々への効力である。雰囲気とは(言を繰り返すが)そこに居る人間が作るものであり会話や行動の結果ではあろうが、雰囲気とはそれらの総和以上のものである。そんなことは愛する者同士が見つめあい言葉が不必要になりその途端なぜか眠くなることや(興奮する場合が多いだろうが)、セックスの最中、それこそ挿入のなかで互いに眠りについてしまう経験から誰でも知っていることだが、つまり良い雰囲気の効力とは安心や満足へも波及するものであり、あの場にさえ居ればそれだけで良いということだ(先の例えならば、2人一緒に居られるのならばそれだけで良い/互いの身体が1つになっているのならばそれだけで良いということだ。もちろんここに友情の例えや、母と子の例えなどを並ばせることもできるのだが、文章の簡略化のためにそれは避ける)。念のために書くがあの花見に存在した良い雰囲気とは性的なものではない、それは言うならば愛だろう。

例年は代々木公園の桜の下で開催されるこの花見だが、今年は雨雲のせいで室内での開催となった。とはいえ、そこは「せい」などと書かずに「おかげ」と書くべきだろう。新年度の始まりから悲観的な言葉を使うのは良くないという判断もあるのだが(なんせ花見とはただの飲み会ではなく、その年の前途に訪れる幸運や健やかな健康状態を互いに祈り合うものであるから、なのだが)、なによりも雨雲のおかげで室内開催となった今年は、そのことで面白いことを多く味わえたのだから。という理由からである。

室内と言えどもそこは飲み屋やビストロやトラットリアやバルの類いではなく、四ッ谷に構える貸しスタジオ、であり端的に言えばテレビ番組『テラスハウス』のリビングルームのようなもの、であり黒のフローリングに白を基調としたインテリア/システムキッチンに長テーブルと椅子/グレイのソファーである。この描写は決して洒落たこと、に関するものではない(そもそも貸しスタジオや飲食店や小売店の内装は洒落た空間の模倣である、故にそこに本当に洒落たものなどはないのだが(ではどこにあるのか?といえば個人の家やその自室、あるは個人経営の店やアトリエに、である)、それは悪いことではなく、それとは別に居心地の良さ/悪さはあり、あの場所にはその良さがあった)。このエセーで重要なのはそんななかで私がなにを観ていたのか、ということだ。

題名のとおりである。そこにシステムキッチンがあることはすでに書いた。そして花見に参加する多くの者が無自覚/自覚的なアルコールにおける好事家であることも書いた。シャルキュトリーや和食などの料理、そして生ハムの原木が1本持ち込まれることも書いた。然すればそこで(酒にあう)料理が作られることになるのである。生ハムを薄く薄く切り分ける者がいる、それをレシピに取入れた料理を作る者もいる、ペーストやパテを切り分けパンに盛りつけアミューズブーシュを作る者がいる、それとは別にガレットや和食を作る者もいる。

こういった場において(私が知っている限りでは)それをするのは男子の役割である。また私が知る限りにおいて、料理は女子の役割である、という古い価値観で性別を観るならば、既に日常的に男子/女子の役割は転倒している(だから料理をする/しないごときでは個人の人となりは言えても社会全般の男女のことなどはなにも語れない)。花見でもそうなのだ。というか、男子ならば、女子がいる場所で料理の腕を振るうのは自身の魅力を振るうことにもなるだろう。というのは今/現代の共通認識だろう。

もちろんあの花見でも料理をする女性(シャルキュトリーを質/数的に一番多くのものを持ち込んだのはとある女性であった)は居たのだが、多くは男性であった。私も男ではあるし、毎日料理を作る人間だが、私がこの花見の中でしたことといえば宴もたけなわという時で、紅茶(しかも友人が茶葉を持ってきたもの)を入れて配ったくらいで、それ以外の時間は別のことをしていた、それはなにか?といえば題名のとおりである。

料理を作る男たちを眺めるのは愉悦である。あの花見でもそうであった。勘違いして欲しくないので書くが、花見の参加者の男女比は3:2くらいで女性は皆可愛く、と言っては芸が無いというかただの世辞にもなりかねないのでもう少し詳細に書くが、参加された女性の彩りも美しく、(こう書けば皆さんが魅力的でまた色々な方がいた、ということが短的にわかるはずだが)カチューシャで品よく飾ったボブヘアーが似合う方から、普段は会社務めの制服を休日は春の身軽なシャツと細身のジーンズに着替えた凛々しさと軽やかさと親しみが似合う方、和装をお召しになりシックな着物と羽織りと帯に合わせた半衿がモダンな色の市松模様という粋で鯔背で艶っぽいと評しても偽りのない方、まだ赤ん坊と言ってよい子を育てている真っ最中の子連れの女性の色気、とこのあとにまだまだ十数人の女性への魅力への言及が続くわけだが、一部を描くだけでもこの様子であり、故にその可愛さ満開の桜にも優る華やかなることが伝わると確信している。なのでこちらも分かっては貰えるだろうが、彼女たちの魅力が料理をする男たちよりも劣るとかそういったものではないのだ。

だが、あの花見で私が一番楽しんだことは、題名のとおりである。

料理をする男たちを眺めることは愉悦である。大手チェーンの回転寿し屋が寿司屋からその値段の差し引きの代わりに置いて来たものはなにか?それは素材の質などではない、それもあるのだがもっともなものは客の目の前から寿司を握る職人を排除したことだ(回転寿し屋でも1皿の価格が上がると、再び彼らが客の眼前に表れるのはその上がった分の価格の価値である)。寿司屋のあの値段の大部分が、ネタの質ではなく目の前で寿司を握る職人を眺めることへの対価である。屋台から始まったとされる寿司の起原は既に過去の話、食品の衛生と調理の効率を考えれば職人の仕事はすべて裏でさせたほうが良い(それが回転寿司である)。だが多くの寿司屋がそうしていないのがその証拠である。これを商売の始めから大々的に調理過程と値段に組み込んでいるのがいわゆる鉄板焼き屋である。グリルやダイナーといわれるアメリカンタイプのレストランで、客席の奧にあるガラスの向こう側のキッチンで料理人が、網の上でロブスターやハンバーガーのパティを焼いている姿を見せるのもそれである。バーテンダーが轟音を響かせてでもカウンターの向こう側の静謐を旨とする客席に向けてシェイカーを振るうのもそれである。ラーメン屋も、クレープ屋もそうである。これらは皆、料理をする男たちを眺めることの愉悦を商売に取入れている。

あれはオープンキッチンと言って客の視線を調理者に意識させることで彼らの職務に対する怠慢や質の低下を防ぎ、また調理過程を客に公開することで衛生面における安心感を与えるのだ、と仰る方もいるだろうが、(厨房で調理をしたことがある者、特にオープンキッチンでしたことがある者ならば良く知っていることだが)調理をする姿を人から見られていても手抜きも不正も簡単に行える。料理の和洋問わず、鉄拳制裁が飛び交う厨房のシェフたち(が客の目線を避けるため)に足技を覚えさせたというこのシステム(もはや国民的にアニメとなって久しいアニメ/マンガの『ONE PIECE』に船舶料理士兼陸戦員のサンジがレギュラーで登場し、彼の持ち技は足技であるというのはこういった事情を汲んでいる。と書くのは狂人の戯れ言だが・笑)のその意味を徹底するならば、衛生の面でも厨房はホールと切り離し完全別室にして、その厨房に監視カメラを置いそれと連動するモニターをホールに置き彼らの仕事を客に監視させておけば良いのだ。そうしないのは、明らかに、このシステムには料理をする男たちを眺める愉悦を客に味合わせる意味もあるからだ。とここまで書けばどなたにでも分かるとおり、ここでは調理をするものが男でも女でも関係がない、料理をすることを商いとしている者の真剣な目線と剣呑さとシャイさと朗らかさがあればなんでも良いのだ。

だがしかし、これは明確な男女差別なのだが、あの花見では料理をする男たちを眺めることが愉悦だった、それが女性では愉悦にはならなかっただろう。数人の男たち(年齢の幅は下は20代中盤から上は40代までだ)がシステムキッチンに向かい包丁で肉を切りフライパンを振るい鍋の中の熱湯を注視している。私は立ったままでカウンターに背を預け彼らを眺めていた、気分が良かったのだ、だからついうっかりと誰かが持って来たジャック・ダニエルのボトルをいっぺんに半分ほどグラスに開けてしまい、チェイサーとしてビールを飲み、それを開けたら赤ワインをチェイサーにし、ミードを/日本酒をチェイサーにし、その次はまた別の赤ワインや日本酒をチェイサーにし、とキッチンで蠢く彼らを眺める、という愉悦に淫しているうちに酒は進み気がついたら花見が終わっていた、という次第だった。

料理をする男たちを眺めることは愉悦である。

その後は友人2人を誘い、日本橋三越に向かい、フォートナム&メイソンで紅茶を飲んだ。私の数少ない趣味のうちの1つが紅茶を飲みことである。私には金が無い。が金がない、ということを文章にすることほどつまらないことはない。これは食う食べ物がない、ということを文章にすることと同じである。だからつまらない。それに対する恨み辛みや苦しみや、それに対する(極左/極右を含む)政治的または宗教的な意見や思想があれば十分面白いのだが、それがなくただただ金が無いと言うだけの文章は、恨み辛みも政治も宗教も無い故に貧しさ(この貧しさとはその個人や自治体や国の経済状況の貧しさことではない(金持ちでさえ、なんらかの偶然で冷蔵庫の中に食べ物が無く、思わず「腹が減った」とだけつぶやくことはあるのだから)、文章が表す意味の貧しさのことだ)が際立つのでまずしくてつまらない(だから良い)。のだがいまそのつまらなさ(だから良い)を書く気の無い私は、金がないなどとはこれ以上は書かないのだが、端的に言って紅茶にならばすこしばかりの金を使っても良いとしている。それが趣味というものだろう。とはいえ、インドやスリランカに出向いて……という話でもないし、ホテルのアフタヌーンティーでもないので、その程度の話ではある(念のために書くが、F&Mの紅茶は美味い)。

これもまた明確な男女差別だが、紅茶はいま現在、男たちと飲むのが良い。私は紅茶が女性的な飲み物とされている由来(らしきもの)も知っているし、大昔のコーヒーハウスのように男たちによって喫茶の場を独占せよ、と言っているのでもない(現に私は、コーヒーは少しでも飲み過ぎれば女性から注意されるのに、紅茶はいくら飲み過ぎても女性からは注意されない、というその恩恵にあずかっている)。だがしかしやはり紅茶は男たちと飲むと良い、F&Mは満席で私たちの周りの客席はすべて女性同士のカップルまたはトリオだけであったのだが、もちろん、だから、である。

ちなみに私がこれを趣味として始めたのは、車にはねとばされる、という交通事故にあってからだ。事故で身体を痛めたことでしばらくのあいだは杖をついての生活になり、このことが色々な影響を私に与えたが、そのなかでも目に見えて変ったのが紅茶を飲み始めたことだった。それまでの私はコーヒー派だったのだから。

 

ウイルスに侵されている

私の身体はウイルスに侵されている。これがテナーサキソフォンの練習を行えない(つまりエセーを書くことが出来る)理由だ。微熱は出たが問題は喉の激しい痛みでこれでは管楽器が吹けない。(練習とは関係ないが)さらに問題なのは寝汗で、少し寝ると滝のような汗をかいて目を覚ます、皮膚に大きな水たまりが出来ており、頭を上げると汗の雨が私の身体に降る。起きているときは悪寒もあるし、少し動けば汗がしたたる(という状況であった。現在の私の体調は、こうして1本のエセーを書き上げた、という事実から推し量って欲しい)。

風邪も発熱も、頭痛や吐き気や腹痛や咽喉の痛みや寝汗が無ければこれほど楽しいものはないのだが、これがないただただ熱に浮かされているだけのような状態はそうそうやってはこない。今回も例に漏れずそんな楽しみはなかったのだが別の楽しみならばあった。それは咽喉の痛みを慰めるために色々なのど飴を舐め過ぎたことでちょっとしたのど飴ソムリエーのようになったことであり、それは新鮮なことだった。アルコールのマリアージュが料理との、ものよりもまずは体調とのもの、であるようにのど飴も体調により味が/美味しく感じるものが変るが、今回は龍角散入りののど飴が一番美味しかった。

この風邪の原因が、そのウイルスがなにかは分かっている。蓮實重彦だ。正確には蓮實重彦が1979年に書いた『表層批評宣言』という書物に書かれている文章だ。この些か古い書物を私は人文系界隈で脈々と読まれ続けている名著だと思っていたのだが絶版になって久しいことを知った。これを私が読んだのは偶然ではない。『表層批評宣言』を読む前に私は氏の別の本(蓮實が専門とするフーコーに関するものだ)を読んでいる。それに氏の前に、私には、菊地成孔が居り町山智浩が居り宇多丸が居たのだ、彼らが蓮實の息子にせよ(親殺しの)反逆の息子にせよ遠い孫にせよ、だから私がいつかは氏の著書を辿ることになるのは当り前のことだった。

そしてこの本を読むべく古本屋から取り寄せてそこに書かれているものを読み進めた私は、その文章によって咽喉の激しい痛みと悪寒と大量の寝汗をもたらす風邪にかかった。念のために書くが、私は風邪が実際にどういうものであるのか?ということは一般常識程度には知っているし、今回の風邪は私の身体が耐性を持っていなかったウイルスに身体が侵されたことが原因であることも分かっている。だからこのエセーのこの文章は、今回の風邪のそのウイルスと同じ位置に私が蓮實重彦の/『表層批評宣言』という書物に書かれている文章を置いている、ということなのだ。

『表層批評宣言』の内容を……詳説するつもりはないが、ここに書かれている批評やなんらかの物事を語る、ということを語る/その目線を語る文章(乱暴に書けばこの本は、批評本ではなくて、批評を批評する本なのだ)は始めは厳しく冷たいものなのだが、読み進めればこんなにも明るい文章はあるのかと驚かせられるものだ。端的言えばこの本は知/批評に関するスパイ養成学校であるのだが、しかしそれは敵組織の機密情報を盗み出す者としてのスパイの育成ではなく、敵組織に深く潜って(浸透しきって)しかしその日常をなんだがぎくしゃくしたものに/あのいつかあったスムースな日常を過去にし、そして敵組織がいざ大規模な作戦行動を起す時にはそれが失敗するように暗躍する者としてのスパイの育成である。ここで敵組織と呼んでいるものの正体とはなにか? それは。人々がすぐになにかを物語化したり、物語を特別視ししたり、すぐになにかを知と呼んだり、すぐになにかを分かった/理解したつもりになったり、作家(の人となりや歩んで来た人生)と(その作家が作った)作品を当たり前のように躊躇も無く一緒くたにして語ろうとする際の精神の動きや、それによる行動やそれにより書かれた文章のことだ。表層批評とはそういった(知の批評の)スパイ活動であり、表層批評とはなにか?という疑問に対しての回答として現在提出されがちな「作品から作者の存在を徹底的に無きものにして、映画ならば画面に映っているもののみを批評の対象にする、小説ならばそこに書かれている文字のみを批評の対象とする」という説明は見当違いなものだ。

言葉はなにも語れない、とか言葉は常になにかを取りこぼしている、とか言葉は死そのものを産み現すことである、とか言葉は語ることでなにかを殺してしまう、とか言葉は心の可能性を狭めてしまう、とか現実と象徴と想像の食い違い、とかそういった苦悩を抱いている(ことのある)言葉に対して非常にセンシティブで才能のある者(言葉に対して鈍感な者ほど、自分はいっぱしの論者であるかのように臆面も無くさまざまな物事を語るが、彼ら/彼女らの口から出るもので面白いものなどなに1つ無い(つまらない言葉自体の価値や、つまらないことを言う、という価値はもちろんこれとは別のことだ)、のだが故に彼らのつまらない言葉こそが世界を覆ってしまう。才能に対する責務、などというものがあるとすれば、言葉の場合はそれを(対立とか弾圧とか統制とかとは別の仕方で、つまりそれと踊るようにして)どうにかすることだろう)にとってはこの本に蓮實重彦が書いた文章は意味のあるものになっている(それ以外の者には、そこに書いてあることの意味が1つも分からないだろう)。

私はこの本を読み始めて体調を久しく崩し、症状が比較的穏やかなまにまに文章を読み進め、読み終わったところで回復の兆しが見えてきた。そして自宅のなかを少し歩いてもふらつき、身体から汗が噴き出す中でも私は毎日紅茶を自分でいれて飲んでいた。趣味とはそういうものだろう。


次のエセーをここに載せるまでにはあまり時間がかからないだろう(きっと・笑)。girshommeは敬体と常体という2つの文体を使い分けることを促進剤の1つとしてエセーを書いている。次のエセーではそのどちらを使うかを考えながら文章と戯れるための技を磨いていく。新年度の始まり、という1年のなかでもっとも荒波が(質、数ともに)押し寄せている季節だが好事家の皆様はご健康にはどうかお気をつけて、皆々様の健康を祈りながら今回は筆をおく。

広告を非表示にする

正月。一流の詐欺師の手腕+散布する悪魔/夜戦(敬体)と永遠

もっとしろ/してはいけない、本質/罠
親愛なる好事家の皆さま、あけましておめでとうございます。2017年最初に書くこのエセーを新年のご挨拶として皆さまにお送りいたします。というのはもはや時期外れ、元旦は過ぎ去り三ヶ日も遥かな過去、七草粥も鏡開きの雑煮も食べ終え、気がついたら1月を超え、2月の旧正月、世界各国のチャイナタウンで超大量の爆竹が消費され、いまは3月、立春啓蟄、節気という古人の知恵、雅やかな歌に詠まれたものによれば季節はいまや春であります。

本来はこの新年に相応しいエセーを、1月中にお送りするつもりでした。しかし繰り返しになりますが季節は春であります。それなのに2017年に入ってからというもの私はエセーを1つも書いていません、それもこれも偏に私の筆無精がいたす所存であります。などとは申しません。なぜかというとその理由は私が自称ジャズメンとしてテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからに他ならないからです(ジャズの演奏で金を得た経験も、教えたことで金を得た経験がある私が「自称」を自称するのにも理由があります。ジャズメンはやはり毎晩のようにステージの上で演奏しなくてはなりません。それはいわゆるセッションであっても良いし、生業つまり仕事でも路上でも良いのですが、演奏の腕前や作品の良し悪しは別として、それこそがジャズメンであることの最低限のラインでありましょう。これは実際に集計や調査したものではありせんが、プロアマ問わず平均的なロックバンドやクラシック奏者などの1年間の演奏回数と比較して平均的なジャズメンの演奏回数はそれらを上回っていることでしょう。それに及んでいない私はそれが故に自称を自称するのです。それでも私がジャズメンを自称しているのは、毎日テナーサキソフォンを練習しているからです。偉大なるジャズテナーサキソフォニストたち、ジョン・コルトレーンは毎日教会(キリスト教の黒人系の教会です)に籠って練習をしていた、ソニー・ロリズンは活動中に失踪しハドソン川に掛かる巨大な橋の上で毎日練習をしていた(のちに発見されて雑誌にスクープとして掲載されました)、オーネット・コールマンはデパートでのエレベーター操作員のバイトの途中で意図的にそれを停止させてその中でサキソフォンの練習をしていた(もちろんすぐにクビになりました)とジャズメンは毎晩ステージに立つのと同様に毎日(アメリカでさえその場所に困難しながらも)練習をしているのです。それをする私にとってもこの事実は妄言ギリギリの矜持を私に与えています)。

練習というのは特殊な事柄です。練習や努力や成長に関連する言説で散見するのは、練習は手段であり目的になってはいけない、練習の量を誇ってはいけない、成果こそが重要であるのだから努力したのなんだのと言ってはならない、というものですがこれだけでは練習という行為への言及としては画竜点睛を欠く、というか半分も解説していないというか、至極恐悦ですが言葉を荒くして言えばそんなことは馬鹿にでも分かる、であります。

伽藍、修道院、片眉を剃り落して山ごもり、象牙の塔、と練習に関連する言葉(これらの言葉は修業や研究に関連するものですが、それらは物事を極めんとする行為であり、練習と意味が近いかあるいはその精神の熱量的に練習の上位に位置する行為です)はなにかと一カ所に籠る、それも世俗を絶って籠るという印象がついて回ります。もちろんそれは事実でもあるわけですが、それは人は世俗を絶ってどこかに籠らなければ練習が出来ないからだ、だからその場所が必要なのだ、と言うのではこれもやはり画竜点睛を欠く言説であります。しかしこの言説も1つの事実ではあります、世俗を絶ち籠る場所がなくては練習出来ない怠け者にとっては、という意味ではありますが(そして自身がそんな怠け者であることを知っていてそれに対処する者にとってもこれは事実であります。ですがこの後者を賢人と言います。怠け者はただの怠け者ですが(トートロジー)自分がそれであると知る者は賢人です)。

画竜点睛を欠くという言葉を2回繰り返して来ましたが、ではその目玉はどこにあるのか?といえばそれは、人は本気で練習をし続けるとそれ以外のことがどうでも良くなってしまう、という事実にあります。伽藍も修道院も山ごもりも修業する場所として人が建設した建物(行為)ですが、その始まりは本気で練習をしていた人(たち)が生活を営んでいた場所であり、そこがのちに修業をする専門的な場になっていったのです(なんでもない場所が後に聖地化した、とも言えます)。のです、などと言いつつここには正確な根拠はありません、諸宗教の始まりの根源が各宗派ごとの聖典がありつつも実はぼやけているの同様に、その一番初めの場所に関する正確な記述はありません。ですが私にはそうとしか想像出来ません、本気で練習に打ち込んだことがある者の実感としてそれが真実なのだと確信しているわけです。とはいえ諸宗教の聖地の多くが、ただの木の下や川や山であるという事実を鑑みればこれが只の妄想ではないことも一目瞭然です。篭って練習する施設というものは後人が作り出したものです。

ともかく、人は本気で練習をし続けるとそれ以外のことがどうでも良くなってしまう。その結果としてどこかに籠り気味になりやがては世俗も絶ってしまう。籠り世俗を絶つから修業するのではないです。もちろんこれにも註釈として、本気で練習に励む者ならば、という言葉がつきますが。これこそが(練習や修業についての言説に)あまり書かれることがない龍の目玉であります。それ以外のことがどうでも良くなってしまう、のそれ以外とは練習に費やした時間や量そしてなにが手段でなにが目的なのかということも含まれます。つまり練習という行為には、練習をすればするほど練習だけをしたくなるというスパイラルが始めから含まれているのです。上記したように、量を誇ってはならない、手段が目的になってはいけない、という言説はよくあるのですがそこには、練習という行為はそれをすればするほどにそれだけをしたくなるという性質がある、という指摘も必要なのです。これが練習という行為の本質でもあり、練習という行為が持つ罠でもあります。本質が罠であり、罠こそが本質である。本質故にこれは回避出来ませんが、コントロールならばできるかもしれません(できる、と断定しないのは私がいまその真っただ中にいるからです)。それには相当なクレバーさが必要になってきます。ちなみに、なぜそれ以外のことがどうでも良くなってしまうのか?という疑問に関しては複数の回答があります、それは端的に成長が楽しいとか精神の先端化などですが、それらはたったの一言で表すことが出来ますし、正確でそれこそがもっとも真っ当で実直な答えです。人は練習をすることでオブセッション(憑依/取り憑かれる)されていくのです。オブセッションという英語は時には固定観念や強迫観念と和訳されます。

本質/罠→もっとしろ(したい)/(罠だから)してはいけない、という二律背反の命令めいたものを、練習という行為は常に人に投げかけています。

なぜ罠なのか?ということは書くまでもなく、それ以外のことがどうでも良くなってしまう(本質)からであり、世俗と切り離されて行く(これも本質)からなのですが、その結果として産まれるのはストイックの化け物、それがスポーツ選手ならばオーバーワークを繰り返す悪循環であり、芸ごとならば(世俗と切り離されているのだから)流行も社会状況も知らない、技術はあるがセンスは無い(アウトサイダーアーティストと言ってもやぶさかではない)アーティストです。たまにピアノのお化け(化身)のようなピアニストや、漫画のお化け(化身)のような漫画家が出現しますがああいう人々のことです’(もちろん彼/彼女らの作品が(人々を圧倒しながらも/時として圧迫しながらも)輝かしい(むしろ眩し過ぎる)ものになることはあるので、一概にそれが悪いことではないのは明白です)。例えばこれは寓話として、美しくスーツを纏うためのボディメイクとして筋力トレーニングをして肥大を目指したのに、気が付いたら美しくスーツを着ることが可能な体型を超えて筋肉のお化け(化身)のようになりスーツを着れなくなってしまった、というものを想像すればより分かりやすくなります。いわゆる筋トレというのも練習や修業の一環であり、当初目指していた体型を超えた筋肉量を追い求めてしまいやすいものであります。端的に言うとそれは鍛えても鍛えてもまだ自分の身体が小さく見える(完璧には見えない)からなのですが、私は毎日のテナーサキソフォンの練習のほかに日々筋トレをする者でもありまして、故にこのことを寓話ではなく実感として知っているわけです(いまは冷静さを保つことで、筋肉量を追い求めることには歯止めが利いていますが)。

ではこの本質と罠を生むものはなにか?といえば練習そのものです(本質なのだからそのものであるのは当り前ですが)、具体的に言うならば練習を人が行う際にその根本にあるものです。それは自分は練習をすれば上手くなる(はず)成長する(はず)という欲望です。もしこれ以上自分は上達しないのだという諦めがあるならば人は練習をしません。とはいえそれをする人もいます。能力が劣れていくことを知りながらそれを遅らせようとする者たちです。この者たちも自分が怠け者であることを知る賢人たちと同様の賢人であり、それ以外のことがどうでも良くなってしまう、ということから距離を置いています。しかし賢人といえでも、そこに成長の欲望がないのか?といえばそれは疑問です(疑問に止めておいているのは、私はこの段階を1度も経験していないからです)。こういった賢人はいわゆるベテラン、老境に居ると言ってもよい方々ですが、老人さえ成長を求めることを私はサキソフォンの演奏をお爺さま/お婆さま方にお教えするという仕事を通して知っています。

自分は練習をすれば上手くなる(はず)成長する(はず)というのは言い替えれば万能感です。万能感とは若者が持つ武器にしてこれも罠ですが、これを生むのは若者が未だになに者ではないという真実、これからどのようにも成長する可能性がある(だろう)という事実に根源があることは、かつて若者であった者ならばどなたでも体感として知っていることです。練習する者にもそこまでの万能感があるなどとは言いませんが、練習はそれをすれば上手くなる(はず)成長する(はず)から行うものであり、僅かな成長の可能性に賭けていると場合でさえも、そこには若者が持つ万能感と同じ、いま現在の自分(の能力/技術)とは違う未来の自分がある(だろう)ことへの欲動があります。この欲動を持った者は、これを根本的な動機として練習という行為をします。

私は先程、人は練習をすることでオブセッション(憑依/取り憑かれる)、と書きましたが、なにに取り憑かれるのか?といえばこれであります。人は未来の自分に賭けるから練習をするのであり、また練習をしていれば(そのうち)来るであろうと思う自分にオブセッションされるのです。この欲動が練習の本質であり、罠でもあるわけです。では罠に掛かった者に待ち受けているものはなんなのでしょうか?

それらは大雑把に言えば、(それ以外のことがどうでも良くなってしまう)練習するごとに世に疎くなり、(それ以外のことがどうでも良くなってしまうのだから)センスも無くなって行くということであります。これは私を含む、過去なんらかの形で誰かに楽器演奏の師事をしたり、練習に打ち込む同僚を観たことのある多くの演奏者ならば実感として知っていることです。技術は余るほどあるのになにもかもダサイという人々を我々は見聞きし、自分がそれになっていないか?という問いを常に自身にし、時にはそれになってしまうこともあるということを経験しているのです(これは私が(自称)ジャズメン/批評家/小説家として自分のアイデンティティーをそれらに置いているからこのように語っているまでで、きっと多種多様な趣味や仕事のなかで散見されるものだろうと想像します)。それは始めからセンスがないからそうなるのだろう、といえばそれまでですが、その通りであり、その言葉こそがセンスというものが重要であるということの証左でもあります。

故に著名な演奏者がその名を冠する各種楽器の入門書や教科書で、そして音楽大学や専門学校の講義やワークショップでの実際の発言として、練習のみをしてはいけない、休日を作りなさい、そして本を読み映画を観て絵を観賞して料理を作り散歩をし遊び恋をしなさいと書き言って来たのです。さらには暴言ギリギリのしかしある種の真実でもある、楽器を上手くなりたければ楽器を弾くな、という言葉まで産み出しました。これらの言葉はしたり顔で、練習が目的になってはいけない、などと言うよりも前もって練習という行為が持つ、もっとしろ/してはいけない、という二律背反の本質/罠を鑑みた遥かに蘊蓄のある言葉であります。

彼/彼女らは、技術とセンスという大地の上に張られた綱の上をどちらにも落ちずに現在も渡り続ける軽業師であります(もちろんこれは私が(自称)ジャズメン/批評家/小説家として……以下省略しますがしかし、軽業師という言葉の意味を辞書で引けばお判りの通り、やはり彼/彼女らこそがその綱を渡り続ける代表的な職業人であることに違いありません)。

この綱を渡り続けるためには、不安定な足場や吹き付ける風にも揺らぐことのない/揺らいでも落ちることのない冷静さと知性が必要になります、いわばクレバー、それが練習という行為に対当する際に必要なわけです。繰り返しになりますが練習という行為は我々に常に本質/罠→もっとしろ/してはいけない、という二律背反の命令をしてくるのです。実のところその無理難題に挑むことこそが、もっとしろ/してはいけない、というものを超えた練習の本当の本質であり、練習によって真に鍛えれているのは自身のクレバーさなのかもしれません。

例えば、成長をすることが動機となり人は練習を行うが、一方で練習することでいま現在の自分(の能力/技術)とは違う未来の自分(の能力/技術)がある(だろう)ことにオブセッションされる、と私は書きましたが、もしその万能感じみたものを失い、しかしそれでも行動をするとき人は練習とは違う(諦観の果てにある)ゲームじみたものを始めるでしょう(つまりこれはいま以上増えないし交換も出来ない手持ちのカードで勝負をするカードゲームのようなものです。これはレヴィ=ストロースが唱えたブリコラージュの……と書けば言い過ぎですが、つまり人は有り合わせのものでなにかを作ろうとするときにこそ知恵を働かせるものであり、それは未だに来ない未来の完成した自分を求める練習への没頭さとは違う、ある種、醒めてさえいる知恵を働かせているのですから、まさにクレバーです)。それに賢人ならば自身が持つ万能感を認めつつも練習をし、一方で(諦観の果てにある)そのゲームじみたものの中で行動をするでしょう(断定しないのは私がいまだに賢人ではなく……)。これは綱渡りをする者を別の言葉で言い替えたものでもありますし、そのような人にはクレバーという言葉を捧げるのが最適です。

練習という行為は悪い行いである、と捉える方はいらっしゃらないとは思いますが念のために書きますが練習は必要です。チャーリー・パーカー(通称バード)というアルトサキソフォン奏者、という範疇を超えジャズミュージシャン、またその範囲すら超えミュージシャンとして、それすらも超えてアーティストとして天才、神、アイドル(偶像/崇拝)という言葉を使うことに遜色のない人物がいましたが、彼でさえ多くの練習をしていました。それは生業としての夜中/明け方までの仕事(ビッグバンドでの下っ端としての演奏)を終えて、雪が降る中であっても2、3時間寝たあとでニューヨークの川に面する公園に演奏の練習をしに行く(なんせここならば騒音の苦情も来ませんから)というものでした。このように天才でさえ練習は必要なのです。しかしパーカーでさえこのように練習をすることで(未来の自分に/成長に)取り憑かれていたわけです。練習の本質は罠である、と私は何度も書いてきました(パーカーに関しては練習のし過ぎが遠巻きの原因になって若死にした、という論もあるほどです)。

とここまでお読みの好事家の皆さまならば既にお判りのとおり、これは皆さまに対する、テナーサキソフォンの演奏の練習のみに打ち込みがちな私の、girshomme に新しいエセーをなかなか掲載しないことの、長い言い訳でありました(笑)。では、そろそろエセーの本題に入りましょう。girshomme は私の日常や批評を掲載するために運営しているウェブログであります。

 

ある夜(大晦日)のできごと
元旦に寺院を詣る初詣という伝統的な慣行を私は毎年(少なくともこの10年は欠かさず)行っていますし、日本に数多くある慣習の中でも私がかなり好んでいる行事でもあります。そもそも私は宗教施設のなかでも神社仏閣とキリスト教カトリックの建築や雰囲気が好きであり、神社仏閣にはなにも理由がなくとも散歩などで通りがかった際に参拝し神社では「祓い給い清め給え……」と唱えているのですが(散歩道に上記の施設が全てあります、モスクもありますし、創価学会幸福の科学の施設も、あまりメジャーではない宗教の施設さえ散歩道にあります)しかし自身のことを信者と言うのは正式な信者の方に失礼であります、と言う程度の信心の持ち主であります。されど神はいると信じております、それは名も無き姿も無きなんらかの存在として、ですが。愚かでボンクラな私ですが、その程度には傲慢ではなく無知蒙昧でもなく世界や人に対する畏怖も愛も抱いていると自認しています。

正月の神社仏閣は神職の方の稼ぎ時、と書けば神はお怒りになるでしょうか?とはいえそこは神道の神や七福神ならば大いにお喜びになりそうですが、ともかくこの時期が1年でもっとも多くの参拝客が訪れ、普段は神職の方が駐在していない神社仏閣にもこの日のために人の手により清掃が入りその清らかさ増し、と賑やかに明るくなったところに参拝に行くのも楽しく、私にも例年参拝する近所の神社があります。除夜の鐘がなる夜道を歩き、一礼して鳥居を潜るところから始まり参拝をし、この日のために雇われた巫女さんにお神酒をいただき、おみくじを引きその神託に心を引き締め、有志の方が作った甘酒までいただき、しばらくして鳥居を抜けまた一礼し初詣を終えるのです。

しかし、これだげが私の初詣の楽しみではありません。この日に私が詣るのは一社だけではないのです。賑やかなのも良いが静謐なのも良いのが神社仏閣参りの楽しみであり、また宗教施設の役割でもあります。多くの宗教では祭りと休息、興奮と鎮静(ハレとケ、フェスティバルと断食、色欲と禁欲などなど)という対称的のものを取り入れており、諸宗教の寺院もその両極に使用しても違和感のないようにデザインされているということはいまさら私が書くまでもないことではありますが、故に賑やかな神社仏閣も良く、人気のない静かな神社仏閣も良いものです。賑やかな神社に参り、そのあと夜空に輝くオリオン座などを眺めながら、正月、という日本人の日常生活の巨大な空白地帯を徒然と歩くように、古びた寺社を回ることを含めて、それが私の正月の、初詣の楽しみであります。

例年ならば賑わう神社を出たあとは、猫の1匹にでも出会えば良いほうで、冬空の下で暮らす彼らに新年の挨拶をしては無視されたり膝に顔をなすりつけられたりしているわけですが、今年は違ったのです。まずその道中、酔っぱらいの2人組に会い、片方が地面に向かって歩き出そうとしていて(路上にうつ伏せに寝て額を道に擦りつけ地面のなかに行進するように手足を降っているのです)もう片方が心配しているという場面に遭遇したので彼らに声をかけて会話をし、寺社についたらいつもならば人っ子一人居ないはずなのに今年は甘酒を振舞うためのテントが建っている、それも詣でた寺社3軒全てに、という事態で、あの清らかで静謐な時間はどこへやらでありました。

しかし古びた神社は古びた神社です(トートロジー)参拝客は私しかいません。テントを立てて甘酒を鍋で温めているのはもう企業人としては引退されて、こうした地域の催しを維持し開くことに精を出されているお父様方でして、そんな人々が私のことを(親切心から)逃がすわけもなく、こういう人々は神の眷属のようなものですから、私もそのご好意に甘えて(最初に詣でた神社のものも合わせると)合計4杯の甘酒を飲み腹がたぷたぷになり、さらに行く先々でお父様方と立話をするという元旦でした。

おかしかったのは、皆さんが私を真っ当で堅気の人間と思っていることで(上記の通り私はサキソフォンの練習に精を出すボンクラです)それはきっと私が着ていた服と靴が全うなものであったことと、髪型が黒髪のオールバックだったことがあってでしょうが、私がしていることは仕事帰りの参拝であり、自宅では子供は寝ていること(この2つはお父様方が出した私への設定です)、最近の景気や嫌な上司のことなどすべてを即興で話し、互いの新年の幸福を願ってその場をあとにしたことです、これを3軒の神社仏閣全てで行ったのです。

例年は人気の一切ない寺社でなぜ今年に限り甘酒が振舞われていたのかその理由は分かりません、不景気のときは神を大切にするということなのか、各地域が連携してそういう気運を高めたのか、それ以外の理由なのか私にはわかりませんが、きっとすべては神のご意志だろうと思い(自分で分らないことや、知りたくないことなどは古人に倣いすべて神や季節のせいにしてしまえばよいのです。もちろんこれは宗教やオカルトめいた話ではありません、ですから知りたいことや戦いたいことなどは人や物質に原因を求めれば良いのです、ですがこの世のすべてのことを知ろうとしては脳の記憶容量が無限にあるなどの特異体質の人でもない限り精神がパンクしてしまいます。またいまは知らないことでも時が来て真実を知ることもあるでしょうし、その日まではどうでも良いことはどうでも良いままで、名も無き神にでも預けておけば良いのです)例年の習慣を終えたのでした。

 

最上級の詐欺師は誰か?それは監督である/鑑定士と顔のない依頼人
ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』を観賞しました。トルナトーレ監督といえば『ニュー・シネマ・パラダイス』や『海の上のピアニスト』を撮った巨匠であり……などと書きつつも私はそれらを観たことがありません(正確に書くならば『海の上のピアニスト』は5分間だけ観ました)し、本作が同監督の作品であることも知りませんでした。『鑑定士と顔のない依頼人』という題名とポスターなどのビジュアルイメージは知っており興味を惹かれて観賞し、作中の画が素晴らしいので観賞後に調べたら『ニュー・シネマ・パラダイス』の監督だと知ったわけです。

なので同監督のフィルモグラフィを鑑みることをしない同作品のみを言及対象にする評ですが、この映画は観終えたあとで面白い面白くないと感じるより以前に凄い(恐ろしい)映画だったと私に判断させる作品でした。なにが凄かったのかといえば、映画終了時の主人公の心境と、映画を観終えた鑑賞者の感想が一致していることであり、それが間違いなく監督の手腕によるものであることです。しかしその手腕は詐欺師の手腕であります。優れた奇術師や催眠術師のようにトルナトーレ監督は鑑賞者の心を操ったのです。

この映画は、日本での配給に際して良くある謳い文句であり"衝撃の結末"を掲げているとおり、物語の終盤でそれまでの展開がひっくり返される/真実が噴出します。どんでん返し、という歌舞伎の手法を語源とするこの物語は終えかたはそれ自体に賛否両論はあるものの、これを取入れた各作品の制作者たちの力により、玉石混合の結果を生み出してきました。それらの質を語ることは本批評の外にあることなので触れませんが、どんでん返しが似合う作品や、この手法を取入れることが適切である作品が存在することや、必然がある作品とはどうのようなものなのだろうか、ということに関しては語らなくてはなりません。なぜならば、それこそが本作品の要になっているからです。

例えばそれまでの物語はすべて(睡眠中の)夢だったとする夢落ちという手法がありますが、これもどんでん返しのうちの1つではあります。この夢落ちという手法はどんでん返しのなかでも特殊なものです、その特殊性とはこれを行うことでそれまで展開したきた物語が夢であると断定することです。なにを当り前のことを言っているのだ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、夢オチを行わなくては、物語や映像やその細部がどんなに夢のようなものであってもそれが夢であると断定することができないのです。夢は眠りから覚醒するからのちにそれが夢であったと分るものであり、(これは『マトリックス』のような話ですが)もし夢の中でこれが夢であると気がついても夢から延々と醒めることがないのならば主観的にはそこに現実との違いはありません。夢オチとは、それが夢であったと断定する最高裁判所の裁判長の判決のようなものであります。夢を描くのには夢オチが必要です、その点では夢落ちというどんでん返しには、必然性があります(もう一度書きますが、私はその質をここでは語りません。その手法が適切/必然かどうかということのみを語っています)。

またこれは映画、特に劇場で観賞する映画には顕著ですが、夢という非現実的な世界が終わること(あるは物語のなかで描かれる夢とは劇中劇であるとも言うことができ、故に夢が終わることは劇中劇の終わりと言い替えることもできます)と物語という架空の/空想の話が終わること、そして夢から醒めて朝日のなかで目を開けることと劇場で映画を観賞し終わり周囲に光が灯ることの親和性、夢が終わることと物語が終わることと劇場の暗闇が明るくなって行くことには相当の親和があり、この点でも、夢オチはどんでん返しのなかでも相当に必然/適切がある手法であると言えるのです。

それに対して、衝撃の事実が明かされるタイプのどんでん返しは必然性が弱くなります。例えば実は主人公こそば化け物だった『地球最後の男』や実はここは地球だったで同じみの『猿の惑星』のことなのです。これらのどんでん返しにはどんでん返しを楽しむという意味しかありません、それはネコ騙しでありショックな体験ではありますが、それだけです。それだけでも楽しければ良いじゃないか、という意見もあることは予想できますし、私もこれらの大オチを楽しみました。しかしただそれだけで、どんでん返しを物語に取入れることに必然や適切さはありません。

夢落ちという手法はそれがどんなに陳腐でつまらない作品に使われていたとしても必然があります。何度も書きますが夢は覚めなくては夢ではないのです。一方で主人公が化け物でなくても、舞台が実は地球ではなかっとしても彼らはそれまでと同じ行動(吸血鬼や猿と戦うこと)をします。なので前者(夢落ち)にはそれをやる必然がありますが、後者はただの状況説明にもならない状況の追加にしか過ぎません。これが滑ると観客はそれを本当にただの取ってつけた(驚きもしない)驚かしだと判断します。面白さも必然もないどうしようもないものになってしまうのです。対して夢落ちにはどんでん返しのを使う必然があります、必然とは、それよりほかになりようがないこと、ですから、夢を描く物語におけるどんでん返し(=夢落ち)とは構造の一部であるといっても良いでしょう。故に夢オチを取入れる物語には構造があり、面白くなかったとしても構造だけはキチンと残るのです。上記した状況説明型のどんでん返しは面白くなければなにも残りません、なぜならばそれらの物語ではどんでん返しが決して必要(必然)ではなく、構造の一部ではないからです。いわば構造という建築の、夢オチのそれは柱の1本ですが、状況説明型のそれは恣意的に屋根に乗せた金のしゃちほこなのです。もちろんそれで家のデザインが良くなることあるわけですが……。


では、どんでん返しという手法を物語に取入れることに必然性があり尚かつその面白さも味わえる1番のジャンルはなにか? といえばそれは詐欺を主題にした作品に他なりません。ここでいう詐欺ものとは犯罪的なもの……つまり金銭をだまし取る正しい意味での詐欺から、潜入調査やスパイなどの国家や政治に置ける重要な情報を盗み出す物語、詐欺と同じ犯罪であり尚かつ騙し騙される者の悲喜劇が描かれる泥棒ものの作品をも包括してます。有名な作品で古くはかの名作『スティング』から90年代の『ユージュアル・サスペクツ』近年では『アメリカンハッスル』と詐欺を主題にした物語でどんでん返しの結末を取入れたものは多数あります(それ以外にも、そこまで有名な作品でなくとも『コンフェデンス』『インサイドマン』『レイヤーケーキ』『スナッチ』『ソードフィッシュ』などなど枚挙に暇がなく、またそのうちのかなりの数が『スティング』のオマージュになっており、泥棒もの、というくくりの作品にはこちらも皆さんご存知の『オーシャンズ11』シリーズがあります)。

ここには夢オチよりも状況説明のどんでん返しよりも必然/適切があり遥かに強固な構造があります。というのは騙し騙される者たちの攻防である詐欺を主題にした映画を観に行くとき、観客はそこに娯楽として、観ていて楽しく興奮できるものとしてプロの詐欺師の仕事を求めます(と言い切るのに難しく。なぜ難しいかといえば詐欺ものには失敗を楽しむコメディも上手く行かないことの悲劇もあるからなのですが。ですが、騙し合いの攻防を描く正当な詐欺ものの映画ならば)、詐欺におけるプロの仕事とは騙していることを誰にも気がつかせずに目的のもの(金銭や情報)を得ることです。ということは最上級の詐欺なるものがあるとした、物語におけるそれは観客にも真実を気がつかせないものだというわけです。そしてその観客も気がついていない真実が物語に明るみに出た時に、どんでん返しとなるのです。詐欺ものが持つこの構造はさまざまな物語の構造のなかでももっとも優雅である、としか言いようがありません。

ということで、ついに本作に触れるわけですが、大っぴらに書いてしまいますがジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』は詐欺ものであり、尚かつ(これをお読みの皆さんは、映画の評を読んでいるのにネタバレが書いてあることを怒るような、愚鈍な方はおられないでしょうが)ネタバレを書くと騙されるのは主人公であります。

イタリアに暮らす老境にある、ベテランの美術品鑑定士は依頼人の女性に恋をするも、彼女は詐欺チームの一員であり、この老人はその人生のなかで長年かけて収集してきた大量の絵画コレクションを物語の最後ですべて盗まれる(ということで詐欺というよりも泥棒チームと言ったほうが正しく、端的に言えばこれは『ルパン三世』の不二子ちゃんに騙された男の話のようなものです)という物語の今作は、そこに行き着くまでの描写や絵が、派手でもなく、バッチバチに決まっているというわけでもなく、されとて過不足なく品があるという、まさに名匠の余裕綽々の仕事っぷり、と言っても過言ではない気品が画面を通して伝わってくるもので、それは大変心地よく(この作品はクライマックスの直前までは、見識も資産もある壮年の男と、屋敷に引きこもっている若い女性のラブストーリーなのです)軽やかな重厚さ(と書くと矛盾がありますが、こう表現するのが適切です。というのもこの映画は鑑定士の主人公と、屋敷を飾っていた調度品や家具や芸術作などの美術品を売り払おうとする女性の話だけあって、ヨーロッパの重厚な建物や美術品が終止画面に登場するわけですが、さりとてそれらを必要に重厚なものとして描くことが無く、つまりそれらにフェティシズムにも似た愛着がなく、古く、美しくいものだがそれ以上には描かないというバランスがこの映画にはあるのです(これはつまり、老人の主人公の描き方でもあります、なにせ演じているがジェフリー・ラッシュですし、彼が実年齢以上の老境を装って登場しますから、老人フェチならばヨダレを垂らしても良いところですが、監督は彼を古く美しくいものだがそれ以上ではないものとして描いています。同監督の理性が働いておりその理性が映像となり画面に表れているのです))が終止あります。

しかし、この大家の仕事は、映画のものであると同時に最上級の詐欺師の仕事でもあります。というのも本作を観た多くの人がこの映画のラストを勘違いしさらには(ほろ苦い)ハッピーエンドとさえ書いているからです。

絵画コレクションを盗まれたことに気がついた老人はその場で悲しみに暮れ、ここで映画は時間をスキップし、次には精神衰弱し、病院や保養所のようなところに入院/入所し、言葉も話さず、人に話しかけられても反応せず車椅子に座っている彼にフォーカスします、そして彼は絵画コレクションの盗難発覚後から入院までの経緯を振り返るわけです。これが本作のどんでん返し、詐欺が発覚した瞬間の衝撃、なわけですが、その後は主人公が療法を受けるまにまに彼が海外旅行をしている映像が挿入されるシーンが続きます。この旅行は(じつは泥棒だった)彼女と愛し合っている(と老人が思い込んでいた)ときに彼女が話していた想い出の地、チェコプラハであり、老人はそこに出向き想い出の喫茶店で彼女を待ち続ける。という場面で本作は終わります。このラストを多くの人が騙されど愛した女を待ち続ける(いうまでもなく彼は老人ですから、健康な若者よりも寿命は短く、故に死ぬまで女を待ち続けるのでしょう)ほろ苦いハッピーエンドと評しました。

たしかにこれならばハッピーエンドに間違いありません。愛を経験したことのない者には分からない話ですが、愛は人に雄弁さをよりも沈黙を与えます、赤子の時分であるイエス・キリストを胸に抱く聖母マリアの微笑み……などを例に出さずとも愛は言葉の使用を必要としない感情の状態を人に与えます。正確には愛に満たされている者には愛は雄弁さをよりも沈黙を与えると言ったほうがでしょう(興奮や欲情は多弁を人に与えます。フランスの精神科医/哲学者ラカンの弁を例に出すわけではないですが、欲情とは自分自身にそれがないから、それを追い求める行為です。乳を飲む赤子は満足しており、そのまま母の腕の中で寝てしまうほどですが。無理矢理乳房から話された赤子は泣き喚きます。また子供は物をねだる際にだだをこねます。満たされた愛の沈黙、追い求める欲情の多弁というわけです)。

この老人は騙されども彼女をいまだに愛しており、その愛の確実さ(この確実とは私のなかに(彼女への)愛がある、だからもはやすべてはもうよい、というものです)を抱いて、きっともう2度と合うことのない彼女を待ち続け生きていきます。これこそ愛が人に与える沈黙を表現した、淡い灰色の(老人の白髪塗れの髪の毛の色のような)エンディングであります。

しかしそうではないのです。というのもこの海外旅行、そして彼女を待ち続ける老人という場面への接続が一切描かれていないのです。この巨匠はそれまでの物語を、その各場面を、丁重に理論的に描いています、起承転結や時間の流れや画面に映る小物の象徴的な意味が誰にでも分るように、です。ですが絵画の盗難が発覚したあとで1度時間は飛び、衰弱した老人に療法が行われる傍らでそれまでのことを振り返る(フラッシュバックする)場面が続く、ということは既に書いてきました。そしてそのまにまに海外を旅行する老人の姿が描かれる、とも書いてきました。そして喫茶店で彼女を待つ老人の姿を映して終わる、とも書きました。

そう、文字にすればなんと容易いことでしょうか、それこそ当り前すぎて私がいまなにを言っているか分からない方もおられるでしょうが、老人は衰弱から回復すらしておらず、故にこの海外旅行は、そして喫茶店で彼女を待ち続ける彼の姿はすべて精神が衰弱した老人の妄想なのです。文字にすれば容易いのです、この映画では老人が回復していく姿などは1度も描かれていないわけです。老人は現実世界では身体を動かさず、声も出しませんが、妄想の世界では歩き回り健康だったときのように聡明な言葉を口にします。彼は妄想の世界に生きています。

ですが本作を観た多くの人々は、前述した勘違いをしました。老人は回復して彼女の想い出の地に向かいそこで彼女を待ち続けて映画が終わるという物語を観たのです。なぜでしょうか?これは観客による物語の創造/想像にして、それこそが本作の監督トルナトーレの名匠の技です。ですがそれは詐欺師としての名匠の一流の技です。

さきほど私は、最上級の詐欺とはそれが行われたことさえも気がつかせないものであり、物語においてはそれが明るみに出た時にどんでん返しとなる、と書きました。そうそれは正にどんでん返し、スリリングな真実の発覚であり、ジェットコースターのレーンの最後に設置された急降下の楽しみでもあります。騙されていたことに気がついた者は騙され続けている者ではなくそこから抜け出した者になります。その後には逃走なり落胆なりを行うわけですが、言葉の反復になってしまいますが、騙されていたことに気がつくことは騙されている状態から抜け出したことであります。たとえその偽装に関連する多くの出来事が悲惨であったとしてもこの者はもはや騙されていはいない者なのです。フランスの精神科医/哲学者のジャック・ラカンは自らが行った講義(いわゆるセミネールですが)の題名を「騙されない者はさまよう」と名付けました。これの裏を書くと「騙される者はさまよわない」です。真実に気がつくことは自分を放浪という不安定な立ち場におきますが、されどその者は騙されない者です。どんでん返しもそういったものであり、屋上から突き落とされるような衝撃を受けるわけですが(特に騙されていた者自身にとっては)、再三の繰り返しになりますがその者はもはや騙されている者ではありません。そこには騙されていた、という状態からの開放/開放感があります(場合によっては悲痛を伴う開放感ですが)。この開放感こそがどんでん返しに重要な部分であることは私が書くまでもないないことですが、どんでん返しで終わる映画には(登場人物にとっては)嘘からの開放→(観客にとっては)物語からの開放、という構造的な開放感があり、真実を知ったという知的な興奮さえあるのです。これは爽やかとさえ言っても良い(それが悲痛なものでも、です)どんでん返しというオチが持つ、物語の浄化作用です。

いま私は浄化作用という言葉を書きました。そうなのです、それは浄化作用なのです。どんでん返しがないまま、騙されていることに気がつかずに終わる映画を想像していただければ直ぐに分かることですが、そこには開放感や爽やかさが皆無であります。たとえそれが恋にまつわる騙し騙されであり、嘘を信じて恋の幻想の中で生き続けるという官能的な幻想的なものであって、いや官能的で幻想的であるからこそそこには開放も爽快もありません。それは騙されたままでその(精神的な)場所に生き続けることに他なりません。動きがないのです。まさにラカンの「騙されない者はさまよう」でありその裏の「騙される者はさまよわない」というわけです。些か乱暴な例えではありますが、それは放浪の厳しい生活と風通しの良さ、定住の安定と息苦しさ、という放浪と安定(その昔はスキゾとパラノという言葉もありあしたが、この言葉に近いもの)の一得一失です。

宗教、という言葉はいまでは簡単に使える言葉になってしまいました。プロスポーツのチームのファンや、特定のアニメのキャラクターを愛する人のことを指して(イロニーやジョークや宗教のパロディも含めて)宗教と言ってしまう現状ですが(例えばそれは巨人教や文月教などのことです)、宗教とは教義と戒律があり、組織として構成されたものです。それは教祖や(伝説や神話)と信者を含めた総体のことであり、個人に還元すればそれは信心になるわけです。宗教やその教義は嘘である、などとは決して言いませんが、何かを信じているという点でそれは、騙されない者はさまよう/騙される者はさまよわない、であります。信者というものは本質的にはさまよいません。故にこの騙されている人間のことを悪く言うことなどはできません。なぜならば無宗教の人などはいくらでもいるけれど、無信心な人は極めて少ないだろうから、という推測があるからでありそこから更に、無信心とは人生における究極の放浪生活であり、それに耐えられる者も極めて少ないだろうか、という推測が可能だからです。人は嘘を含めてなにかにすがりついていなければ生きていけません。そのことでどこかに定住しているわけです(そうではない、私はなにも信じていない。と言うのならば「私はなにも信じていない」と口にしてみてそこに気まずさがないか確認してみれば良いのです)。それを失うことである、詐欺もの映画における真実の暴露/騙されていたことの発覚であるどんでん返しは、やはり放浪の生活に駆り出される厳しさと風通しの良さを与える1つの浄化作用であります。肝心なことはそれは我々の実人生に起ることではなく、映画や小説などの物語として疑似体験しているということです。繰り返しますが人は信心を持ち生きており、それは信心の対象と自分自身とが(擬似的であっても)癒着してることでもあります(’癒着していないのならばそんなものは信心とはとても呼べません)。癒着は主観も客観もなくしてしまいます、端的言えば神の言葉は私の言葉であり私の言葉は神の言葉である、と言いえてしまうほどに対象とくっついてしまうものでもあり冷静さが欠けた風通しが悪いものです。故にどんでん返しの疑似体験は我々の人生に対して(密閉された部屋の窓を開けて空気を入れ替えるような)浄化として作用するものであるというわけです。もし私の信じているものがすべて嘘だったらどうしよう?というのは偉大な哲学者たち(デカルトニーチェサルトルレヴィナスなど)が行った根源的な問いでもあります。

詐欺の被害者はときとして自分は騙されていない、と言い張ります。私たちはメディアなどで解説/紹介されることで詐欺被害者(やカルトの信者)が自分は騙されていない/自分は被害者ではないと思い込もうとする、または証言さえするということを知っています。本作『鑑定士と顔のない依頼人』のラストを見間違えた人々はまさにこれなのです。現実逃避ですが、では現実逃避とはなんなのでしょうか? それはもちろん現実とは違う物語を作り上げることに他なりません。それは信心が形を変えて現れたものでもあります。ここではもうラカンの弁を再三あげる必要はないでしょう(これも再三の弁になりますが、物語を(無意識の意図的に)読み間違えることを悪くは言えません、むしろ物語の正解は1つだと言うことは貧しく、多数の間違いを産むのは多産な点で豊かなことです。それは無数のバリエーション/血脈の分派であります)

では本作のなかでこれを行ったものは誰か? 現実とは違う物語を作りそれを観ている者は誰か? 信心を持っている者は誰か? それはこの老人、本作の主人公であります。

文字にしてしまえばあまりにも容易く、皆さまにはつまらないことでしょうし、私にとっても簡単すぎてつまらないことなのですがこの評も佳境に入ったので今しばらくお付き合い下さい。ここであることが分かりやすすぎるほどに明確になりました。老人は女(不二子ちゃん、ですね・笑)を信じた/現実逃避した/信心を守った、多くの観客はこの映画がハッピーエンドだと信じた現実逃避した/信心を守った、わけです。主人公の精神状態と観客の心情が(騙されたと思いたくがない故に逃避をしている点で)完璧に一致しているわけです。

これこそこの名匠の恐るべき手腕、一流中の一流の詐欺師の手腕であります。トルナトーレ監督は、騙し→信じさせ→嘘が発覚する、という詐欺の構造(どんでん返し)を映画に見事に持ち込み、それだけではどんでん返し/騙されていたことの発覚というある種の壮快感で終わる(『ユージュアル・サスペクツ』などのこと)ところを、推進させ詐欺の続きを描くために一流の詐欺師の手腕をも映画に持ち込み、鑑賞者の心を操り老境で騙された哀れな主人公の精神と一致させたのです。故に本作/ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』は凄い(恐ろしい)映画なのです。もはやこの映画は詐欺ものというには生温く、この映画自体が詐欺である、といって差し支えないほどです。繰り返しますが、それは一流の詐欺師の手腕なのです。

 

散布する悪魔/ネオンデーモン

ニコラス・ウェンディング・レフン監督の『ネオンデーモン』を劇場で観賞したので以下はその評です。と言ってもこの映画が劇場公開されたのは数ヶ月前のことで、同じ日に観賞したのがドン・チードル『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』ですから、本作『ネオンデーモン』を知らない方にもこの評がもはや新鮮さがないことは明白でありますし(が評の鮮度などは山っけのある人のようにレビュー数を気にしたり、商業雑誌に載せる文章でなければ気にする必要はないものであります。なんせgrishommeで一番初め取り上げた映画は『愛の嵐』(1974年、イタリア)ですから(笑)。しかし本作はもはや劇場公開されておらず、更にDVDが出るまでにはまだしばらく掛かるので今は観賞することが出来ない、という点では鮮度を気にするべきです)、正月の出来事と『鑑定士と顔のない依頼人』の評が長くなったのでこちらは手短かに行います(という気はいっさいないのですが・笑)。

私はレフン監督のファンですし、同監督が撮った作品はすべて(10作なのでゴダールトリュフォーなど多作家であるヌーヴェルヴァーグに出自する監督に比べれば容易いことです)観ましたが、あの『ドライヴ』(主演のライアン・ゴズリングが『ブルーバレンタイン』(こちらはデレク・シアンフランス監督)で得た演技派という名声をさらに押し上げ色男/セクシーなスターとして確立させた)を観賞してからのファンという平々凡々としたものであります。

とはいえ私は自分が現在生きている意味(生きている意味、ではないですよ。現在生きている意味、です)の何十分の一をレフン監督の新作を見るためにあると定めております。私は同監督をシナリオも音楽も美術も映像も巧みな名匠だとは捉えていません。それらはすべて優秀ですが、格別というわけではなく、しかし1つだけ大いに優れているところがあります、それは私がいうまでもなく映像の異質な美しさです。レフン監督の先天的な色覚障害が理由の一部になっている(ということはこの障害は映画製作の上では才能になるわけですが)あの映像は、古今東西のさまざまな映画作品やCMのミックスであり、監督のセンスによって編集されるリミックスであり、グルスキー(写真家/ドイツ)やアイ・ウェイウェイ(芸術家/中国)の(作品の)ように始めは山師なのでは?と思わせるもきちんと見ると良い、しかしやはり山師では?とも思わせられる、これらはモダンアートの宿命ですが、されど良い、というつまり繰り返しなのですがモダンアートであります。

それで良いのです。極端な想像ですが、ストーリーが抜群に良くしかし映像は一切だめな映画と、ストーリーはまったく面白くないが映像は素晴らしい映画、が存在し両者を比べると映画としては後者のほうが良い、ということは私が書くまでもないことです。話はなんだが判らないけれどめちゃくちゃクールな映像が次から次に出てくるといえばゴダール(映画監督/フランス)ですが、その点ではレフン(映画監督/デンマーク)はその系統とも言えます。

さりとて、本作『ネオンデーモン』は話の筋がはっきりと読めるものでした(同監督の作品は処女作である『プッシャー』シリーズや『ドライヴ』のように話が明確なものと、『フィアーX』や『ヴァルハラ・ライジング』や『オンリーゴッド』のように一見すると話は分かるが本当は良く分からないもの、という分類をすることも可能です)。

ファッションモデルを目指す娘が都会にやって来てファッション業界で成り上がる、それに伴いライバルたちは彼女に嫉妬していく、という美/芸能界そしてそのゴシップに関連する典型の物語の本作は、美とそれへの同化の欲望の話です。さりとて決して美酷の話ではありません。『ネオンデーモン』にはいわゆるブスと呼ばれる人物は登場しません(とはいえ美酷は絶対的なものではないので、人によってはすべての登場人物をブサイクだと判断することもあるわけですが)。調べていませんが、登場する女性は現役のモデルばかりであると推測でき、というのもその体型を一目見れば誰でもそう判断するでしょうけれど、残りは女優のなかでも、その出演作品のなかでは美貌の人として扱われる人ばかりであります。本作にはフィニーフェイス(顔立ちが特徴的だが美人とも呼ばれる顔)な女性やコメディアンヌは登場せず、故に美酷の話ではなく、美と美との話でありますし、ここまで書けば明白なように美(人)のなかにも順位や嫉妬があるという話こそが主題です。しかしその序列から1人だけ外れている者がいます、それがエル・ファニング演じる本作の主人公なのです。

もう大ざっぱに書いてしまいますが、エル・ファニング蒼井優であります。綺麗ではあるけれど、ファニーフェイスに片脚を突っ込んでいる、されとて上野樹里多部未華子のようにファニーフェイスでもコメディアンヌでもない女優というわけです。そしてエル/蒼井、両人はともに少女性をその外見から発散させています(もっといえば妖精ですが・笑。蒼井優羽海野チカ著の漫画を原作とする実写映画『ハチミツとクローバー』で演じたもっとも漫画的なキャラクターであり妖精的(というか原作でも妖精扱いされる場面がありますが)な登場人物、花本はぐみのビジュアルと完璧に一致していたのは記憶に新しいことです)。端的に言えば美よりも可愛いなのです。

kawaiiという言葉で世界に発信されたこの価値観は、現在も世界を覆い……とは言いませんが世界の1/5くらい、欧米系の国々の少女/女性たちに日本産の漫画やアニメと共に浸透しておりファッション業界もそれを見過ごすことはできないという現状は、本作でエル・ファニングがトップモデルとして扱われて行くということに表れていますし、またインスタグラムやツイッターにファッションモデルが投稿した写真で披露する変顔、などで現実世界においても価値あるものとして扱われています。

その言葉があるように、美と可愛い(kawaii)はそれぞれ違うものである、ということは整った顔立ちの冷たさと可愛い顔立ちの非均一さなどを語らなくても誰もが実感していることです。故にその可愛いエル・ファニングは美と美の序列から抜け出しています。しかし序列の先には別の価値観が生まれました、それは輪とも言えるものです。元祖ファニーフェイス女優、といえばオードリー・ヘプバーンですが、彼女の出現によって美の概念は変化しました(あるいはその変化の象徴が彼女です)。

美(綺麗/均衡)には可愛いがなく、可愛いには美がない。と書いてしまうのは乱暴ですが、この2つの概念は対比し、そしてその中間層も生み出し美やファッションの歴史を作っています。これもまた端的に書くと、少女性と大人の女(妖艶/セクシー)という対比も含む(日本では現在より少し前に倖田來未をアイコンとするエロかわいい(中間層)という概念も生まれました)ヘプバーンとマリリン・モンローという同時代を生きた2人の女性の対決です。

それまでは美の序列であり、美(綺麗/均衡)→さらなる美→それを超えた美→……というものでしたがファニーフェイスあるいは可愛いという概念の価値が上がって以降は、美(綺麗/均衡)→可愛い(不均衡/特徴ある顔立ち)→美→可愛い→美……という輪になったわけです。故に本作『ネオンデーモン』で可愛いを有するエルが登場し、彼女が業界でのし上がる、つまり彼女の価値が上がることで美を有するモデルたちは恐ろしい嫉妬を抱きます。序列においてはそこに属している限りは優劣はあれども同じ属性(ここでは美)を持ちますが、輪においては優劣すらないのです、彼女たちは美を持つが故にかわいいを、均衡した顔立ち故に不均衡な顔立ちを持っていません。可愛い、はそこでは異物なのです。

異物が評価され、価値を得たとき、それ以外のものは尻を巻くって逃げるのが懸命な判断ですが、それでもその業界にしがみつきたいとき、もっと言えばその時代で評価される外見を持ちたちときにはどうすればいいのでしょうか?そうなったらもう対象と同化するしかありません、それを体内に取入れる/取入れられるしか自分が持たないもの→異物を手に入れる方法はありません。同化すれば良いのです。同化すれば自分も可愛いになれます。同化とは自分が対象と1つになることであります。これも乱暴な例えですが、黄色人種が白人になろうとしてもなれません。しかし白人とのあいだに子が生まれれば、その子は半分は自分で半分は白人です。がこのように子を生せる者つまり異性同士の話ならば同化は比較的容易いのですが、同性である場合はどのように同化することができるのでしょうか?これはレズビアンやゲイに関連するだけの話ではなく、交わっても子を生み出せないものすべてに関連する話です(念のために書きますが、逃げたり諦めるのが冷静な判断ですが、諦められなかったときの話ですし、欲望や渇望とはそういうものですし、子というのは概念というか端的な比喩です)。

そして本作のラストではその問いへの安易尚かつ悲劇の回答として、あのグロテスクで恐ろしい事件が起るというわけです。もちろんこれは美への批判ではありません、現在はkawaiiが価値を持つ時代ですが、美のほうが価値ある時代になったときに可愛い人々はどうするのか?特にファッションや「美」や芸能に関連する業界に関わる人々は、ということと同じことです。

本作は常に不穏な空気に包まれていますが、画面に映る、実際に作中で起る事件はこの同化のための殺人だけです。ファッション業界のゴシップ映画というと、大抵は権力を利用した男による女への欲望、そしてそれを上手く/悲劇的に利用する女性が描かれますが、本作にはそれらは登場しません。登場する男性は、道徳的だがうだつが上がらない若者、無口で不気味だが仕事はするカメラマン、つねに不機嫌なモーテルの管理人(なんとキアヌ・リーブスが演じている・笑)、深いことを言っているようでごく当り前なことしかいわないファッションデザイナー、と暴力を振るったり性欲を押しつける者は1人も登場しません。

しかし、つねに画面には不穏感が漂っています。これは女性が男性に対して不安を感じただけで(犯罪が行われなくても)女性を圧迫し不安にさせる理由としては十分すぎるほどだ、と言っているようでもありますし、(ファッション業界を舞台にしている、という前提があることを忘れてはいけませんが)女性はつねに男性から若いとか美しいとかいった価値で/価値を計られており(もう一度言いますが、この業界ではそれが彼らの仕事ですし、彼らの客も女性です。故に購買層である女性が商売人の男性を通して仕事人の女性を判断しているともいえ、しかしその購買層の女性たちの判断基準には男の価値観(男性の目線、社会的な性的な役割の固定など)も入っており……と無限の男女間の価値の押しつけに言及することも可能です)それだけで女性を(犯罪が行われなくても)圧迫し不安にさせる理由としては十分すぎるほどだ、とも言ってるようでもあります。が画面に映る、起こる事件は女性同士の同化のための殺人だけです。

なので本作はファッション業界/芸能の世界を舞台にした映画にありがちな、現実に起る男女間の問題を切り取った作品ではなく、美と可愛いの両方を包括する「美」というものが持つ恐ろしさを描いた映画なのです。

では題名の『ネオンデーモン』とは一体なにものなのでしょうか?本作には(黒い翼が生えて刺又や槍を持っているような・笑)悪魔や魔術は登場しません。ネオンデーモンとは「美」に魅せられた、「美」を見つめ続けた者の成れの果てのことなのです。作中では印象的なものとして眩い光を放つネオンやフラッシュや照明、夜空に浮かぶ月が描かれています、すべて光りに関連するものであり、狂人を意味する英語であるルナティックは月の女神ルナに由来しており、この女神は人を狂わすと信じられていた、というのは有名な故事ですが、暗闇のなかで自分に向けて(のみ)放たれる光は人をおかしくしていきます、それは神々しさから狂人までを含む日常ではないものへの変化という意味でのおかしさ、ですが。

エル演じる主人公は可愛さという「美」の力でファッション業界をのし上がり、クラブでフラッシュを浴びスタジオで照明を浴びそして極めつけのステージ上でネオンを浴び、デモニッシュなものに豹変します。彼女は可愛いの持ち主なので美を持つ者にとっては彼女は異質/異物のものであることは再三書いて来ましたが、その可愛さの力を高めていくことはより一層の異質/異物になることであり、異質/異物が故に彼女は人から羨望され恐怖される、それはこの世の通りの外におり(美の序列から外れて、その可愛さ(kawaii)で)人を誘惑し堕落される悪魔=デーモンのように、というわけです。

そして彼女と同化することを求め事件を起こした女たちもまたネオンデーモンであります。彼女たちは「美」について考えそれを実践し仕事にもして来た人々です。しかしその度合が(それまでの人生経験とエルの登場により)常軌を逸するにつれてデモニッシュなものに豹変し、最終的にはあの恐ろしい同化という事件を起こすデーモンとなります。

故に『ネオンデーモン』の悪魔とは、「美」を追い求めた者たちの成れの果ての姿の指しているとも書け、またネオンデーモンは空気のようにどこにでもあるものであり、誰でも触れることができるもので、さりとてそれを吸い過ぎると人をおかしくしてしまうものであるとも言え、つまり空気中に散布するヤバい物質として、窒素やガスのようなものであり、「美」に関するその空中に散布するヤバい物質の名称がネオンデーモンである、これを吸い過ぎれば誰でもデーモンになってしまう、という結論が可能というわけです。悪魔が悪魔を産み出しているのです。

さりとて人々を悪魔に変える空中に散布するこの「美」の悪魔は「美」に執着する人々にしか吸引不可能なものであり、故に「美」に奉仕する者たちは偉大な人々ではあります。がさりとて誰でもそうなる可能性はあるのです。「美」は人間にはあまりにも身近なものでありますし、「美」は常に人々を誘惑しています。なので誰にでもあの美の序列に並んだり、美と可愛いの輪で回る可能性があります(正確には回ることができないジレンマに落ちいる、ですが)。いや1度ならず美や可愛いに淫したり、追い求めたことがある我々はすでにそうなのでしょう。故にネオンデーモンを吸いすぎぬように/あの光を浴びすぎぬように注意しなくてはなりません。

 

と、また文章を長文にしてしまう私の悪癖が出てしまったので、今回はここで筆をおきます。前回の記事投稿から今回の更新までには期間が開いてしまいましたが、次回はここまでは期間を開けずに更新をいたします。それではまた『ラ・ラ・ランド』も『騎士団長殺し』もないウェブログでお会いしましょう。当ウェブログgris hommeは敬体と常体という2つの文体を使い分けて文章を書く、という趣旨があります。次回の更新ではそのどちらを使おうか考えながら技を磨いていきます。もはや新年度であります、みなさんの新しい春に多くの幸があるようお祈りいたします。

広告を非表示にする

「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!おい!」「分裂してんだよ」/重力(敬体)と恩寵



親愛なる読者の皆様、「シンゴジラ」も「君の名は。」も「逃げ恥 」も無いブログにようこそおいで下さいました、再びお目に掛かれ光栄です(念のために書きますが、それらのことを悪く言っているわけではありません。それらしかない文章は悪いと思いますが・笑)。日記や批評を掲載するgris hommeに先立ち、私は小説を掲載するブログcalmant doux pour la dépression.(旧名:インヴィジブル・ポエム・クラブ)を運営していますが、前々からこんなネットの片隅の片隅で掲載する小説をどなたが読んでいるのだろうと思いながら、しかし回転しているカウンターを見て確実に読者がいることを感じ(そしてたまに女友達などからお酒の席で感想をいただき)、いまこの文章をお読みの皆様も含めて(ほとんどの場合で)名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々に奉仕するつもりで小説を、批評を、書いて来ました。

ここに来て実感しているのですが、どうやら私の文章は感想を言い難いもののようです。文章のクオリティーや面白さと感想(の数)は別のものであることは私が書くまでも無いことですが、素晴らしい小説を書いた作者に感想が沢山届くというの は言わずもなが分かりやすい話ですが、その一方でインターネット上では多くの人々が駄作や拙いものを作る人間を潰すのが大好きだということも忘れてはならない事実です。ネット社会は素晴らしいものを褒めそれを伝搬するのは得意ですし、それにともなって大物に媚びへつらうもの得意です、が弱いものを育てるという機能はほとんどもっていません(ネット社会ではそれは良心として表れます、良心を発揮/施すことは賞賛すべき良き行いであっても機能ではないのです。良心と少年野球からプロ野球そしてメジャーへ……という構造や、サッカーJリーグのJ1、J2、J3……という構造を比較すると分かりやすく、後者にはその構造(野球界、サッカー界)に育てるという機能が組み込まれていますが、前者 にはそれがないのです。スポーツとメディア/インフラを一緒に語るなという言葉もあるかもしれませんが、両者共に社会ではあるのです。もちろん両方に一長一短があり、システムとは盤石なものですから、そうそうに崩れることはなく、また循環的なものです。循環がスムーズでありその度合は多いほどそのシステムは強固と言えるでしょう。例えば資本主義というシステムはそもそも物(貨幣と物の)交換に基盤を置いているわけですから、まさに循環そのものであり、とても強固なシステムです。これは交換頻度の少ない共産主義の失敗や、不景気の原因が人々が持つ貨幣が少なくなることではなく貨幣を使わなくなることにあることを考えればより明白になります。野球界は少年野球からプロ野球へのレー ルがシステムとしてあり、プロ野球選手が少年たちに憧れをあたえ、または彼らが引退後、少年野球チームを含む様々なチームの指導者になるというレールをその構造に含んでいます。つまり低から高へ、そして高から低へという循環があるのです。これがシステムです。しかし一方でシステムとは冷たいものでもありますから、資本主義下ではそれらはショー化/エンターテインメント化し悲喜劇を呼び資本/金銭というプレッシャーの下にドロップアウトしたはぐれ者やアウトサイダーを生み出します、共産主義社会主義下では国への奉仕という名目がその肩にのしかかります(例えばかの国では音楽家はみなコンテストに掛けられ、その実力は国家への奉仕であり、その度合により見返りとして社会的な地位と 待遇が決まります)。そこにあるのはエリート主義/成果主義の一見すると熱くもその中心はとても冷たいシステムです。一方のネット社会は教育/成長のシステムを持っていませんが、良心はあります。良心とは各々(良心を送るほうと受け取るほう)の性質により決まり、故に多くの場合で発揮されず、それどころか成長さえ拒むことがありますが、一度良心は発揮されれば大規模なブームや、質の良い作品を生むことがあります(前者はPPAP、後者はクラウドファンディングに代表される趣味の世界です。両方共に、非エリート主義であり、ドロップアウトした者や、アウトサイダーが活躍する世界です)。そういった弱いものに届く酷評や侮辱も感想といえば感想ではあります。

しかし私には毀誉褒貶含む感想がほとんど届きません(まったくないわけではありませんが)、もうこうなると私の作品全般に、感想を言い難いという特徴があるとしか判断出来ません。可能性として、皆さんからは私がそよ風が吹けば吹き飛ばされる藁の家の如くか弱く見えていて、その弱さは酷評が大好きな人々さえもがたじろぎ気を使ってしまうほどだ、だから感想を届けないのだという説も提示することができますが、当人の実感としてしっくりこず、また可能性としても前者のほうが遥かに高いでしょう(万が一、もし後者であるのならば、私はいま以上に皆さんの優しさに感謝し、そしてあえて厳しさを発揮する人にもいままで以上の感謝を捧げます)。

私はなにも感想を寄越せと言っているのではありません(いただけるのならば、よろこんで頂戴いたしますが・笑)、私が言いたいのはそういった私の性質故に、上記した”名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々”の名も顔も知らぬ度合が上がってしまっている、しかし感謝を捧げたいということなのです。ありがとうございます、この文章をお読みの皆様も含めて(ほとんどの場合で)名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々に感謝をこめてアレー(フレー)をお送りいたします。



というわけで、今回のエセーの本題に入ります。虎山元紀というのは私が半年ほど前から名乗っている芸名/ペンネームです。私には本名があり、ネット上での名乗りであるハンドルネームもあります。音楽の演奏と小説や批評を書くことにアインデンティティーを置いている私は、演 奏家として実際(リアル)の現場のステージに上がった時から本名を使い、活動する場所がウェブ上のログである小説/批評のほうにはハンルドネームを使用していました。後者は"とらさん"という名前です。これはそもそも、私がインターネットに手を出した数年後(電話回線を使ったネットへの接続が終わりに差し掛かろうとしていた時期です)のある日の深夜に入室したチャットルームで名乗った名前でした。当時のハンドルネームというものは現代よりも遥かに偽名の意味合いが強く(フェイスブックが日本に上陸していないその時代、本名で活動する人は有名人/芸能人(タレント、俳優、音楽家、芸人)かちょっと気の違った人のどちらかでした。前者の人々の名乗りが芸名というすでに本名ではない名 前であることが多くの場合であることも忘れてはならないことです)愛称ですらも無い、特殊なコードのようなものでした。私は前述したようヴィデオゲームを嗜みます、そこで名乗る名前(プレイヤーネーム/キャラクターへの命名)は決まったものでした、それをハンドルネームとして使用しようかとも思ったのですが、前述したように偽名という意味合いが強いハンドルネームという特殊なコードには相応しくないと判断し、とらさんを名乗り入室したのです。

正確には"虎さん"という文字だったと記憶しています。そもそもこれは"寅さん"であり、日本映画界屈指の人気/長期シリーズである、東京は葛飾柴又生まれの博徒の流れ者の主人公が登場する山田洋次監督、渥美清主演の映画「男はつらいよ」 から取ったものでした。渥美清が演じるこのセリーの主人公の名前は車寅次郎、作中、彼は人々から寅さんという愛称で呼ばます。そう彼こそが"とらさん"なのです。この映画が、私がこの名前を名乗ることになる当日の夜にテレビで放映していたのです。と、あまりにも昔話が過ぎるというか、若い皆様は付いて行けない話ではありますが(昭和という年号の時代を2年しか生きていない私にとってもこれはマージナリーな話ではあります)あと少しだけお付き合いください。私と同年代+αの皆様は当時の空気を思い出しながらお読みいただければ幸いです。

映画の登場人物の名前ほど偽名に相応しいものはありません。なにせ当時のインターネット社会というのは今よりも遥かにサブカルチャーの度合が強 いものでしたから、この名前には亡国者やDV被害者の妻子が名乗るような真面目な偽名性がなく、また実写映画は役者が演じ、そもそも多くの役者が芸名(渥美清は芸名であり、氏の本名は田所康雄です)を使っているということからも、映画の登場人物の名前は偽名の者が名乗る偽名という2重の偽名性が〜というややこしさ(笑)もちょうど良く、当時の私そして当時のネット社会の気分に適合したものだったのです。しかしただそれを名乗っては芸が無いと寅の字を虎に変えて(これも単純な話ですが・笑)"虎さん"として入室し、すでに入室していた皆さんの一笑と共に私はそのコミュニティに迎えられたのです(この方々とはのちに実際にお会いし、現在では食事やアルコールなどを一緒に楽しむ大切な友人 になりました)。このハンドルネームはのちに耳障りならぬ目障りが良いという私の判断の下で虎の字をひらがなの"とら"にして"とらさん"にしました。そしてこの名前でmixiに登録し、のちにツイッターに登録し……とネット上に敷かれたレールの上に乗っかるようにして現在に至るわけです。

自分で"さん"という敬称を名乗ることには若干の後悔と大きな恥ずかしさがありますが、これが”様”などではなくと良かったと安心しています。名前の効力というのは太古における呪術的な意味合いや中国の字と諱などを説明せずとも、万人が知っていることです。車寅次郎という博徒の瘋癲の、家族思いで人情家で涙もろく親しみやすい人間の愛称をハンドルネームに使用していなかったのならば、私はいまよりも (いまでも自分のことをボンクラのチンピラと認識していますが、それよりも)もっと遥かに悪い人間になっていたことでしょう。"とらさん"という名前の響きが持つ意味合いにそしてその魔力的な力に私は多くの場面で救われて来ました。このハンドルネームを知っている友人知人からは、とら、を初めとして、とらくん、とらちゃんとも呼ばれますが、その度に、この名前を選んだのはファインプレーであったと思っているわけです。それは渥美清の、彼が演じた寅さんの、そのイメージが持つ、守護者的な力の賜物でしょう。

さて、ここで私はまず第1の分裂を迎えるわけです。本名とハンドルネームの分裂です。私はと書きましたが、当時のネット上でハンドルネームを名乗っていた人間の多くがこの分 裂を迎えたわけですが、そこにはスパイ映画/小説の登場人物にでもなったような面白みもありました。いうまでもなくスパイは偽名を名乗りますし(ジェームズ・ボンドは別として・笑)、そこにも喜劇と苦悩があります。この喜劇と苦悩は私の場合、本名でもネット上で活動し始めたことで倍増していきました。先程私は自分のアイデンティティーを音楽と小説/批評に置いていると書きました。次はその音楽の話です。

本名でWEB活動を始めたのは当時師事していたジャズの先生に勧められたからでした。当時の私はジャズギタリストでしたから、その活動を宣伝するウェブログを解説したのです。芸事には芸名というものがありますが、偽名という色合いの強いハンドルネームとは違い、それはドレスア ップのようなものです(実生活とは異なる自分を創作するという点は共通していますが、芸名を持つことはそれ(芸名)を演じるという意味合いが強く、芸事と神事の関わり、シャーマンや巫女、司祭や神職/僧侶の改名など持ち出して、本名とは異なる名前を使うことは舞台の上/聴衆の目前で動作つまり儀式/儀式めいたものをすること→演じることや演奏するために必要な行為だと語ることが可能でしょう。そして私はいま"実生活とは異なる”という言葉を使いましたが、その通り当時のネット社会は現在よりも遥かに現実(リアル)と分離していた→故にハンドルネームは偽名、だったのです)。具体的にはアイドルが歌う場所には、アイドルに似合う服装が相応しいのと同じように、蒲池法子という名前よ り松田聖子のほうが相応しく(いうまでもなく、後者は前者の芸名であり、前者はその本名です)、戦後のダンスホールを飾るジャズバンド/シンガーとしては三根徳一よりディック・ミネのほうが相応しいのです。当時のダンスホール/キャバレーには現在のクラブやフェスのように成文律/不文律のドレスコードがありました。板(ステージのことです)の上に立つ演者には名前にもそれが適用されます、それをドレスコードと言わずなにと言うのでしょうか(もちろん、常にどの時代/シーンにも(以前の私のように)本名で活動する方は居られ、本名と芸名は対立しているのかどうか、本名を芸名として使用することの日常生活への影響力はあるのかどうかなどは、名前が持つ力を語る上では外せないことで はありますが、今回のエセーは名前の分裂を主題にしているので、混乱を(そして冗長になることを)避けるためにオミットします)。

しかし私は本名で活動をしました。端的に言うと当時はそっちのほうが格好よいと思っていたのです(笑)。しかしそのことで分裂が起こります。現実の生活を本名で送り、仮想現実を偽名(ハンドルネーム)で過すだけならば良かったのです。それは当時としては常識/マナーともいうべき真っ当で普遍的なことでした。しかしネット上にでも本名で活動し始めたことで問題が起こります。"ネット上"で活動した時点でそこで本名を名乗っていても、演じるという行為が発生してしまうのです。これはフェイスブックなどの本名の使用を推奨するSNSの現状を見れば誰にでも理 解できることです。そして当時の私に待ち受けていたのは現実(本名)ネット(偽名)ネット(本名)という3重の生活でした。先程私はスパイの例えを出しましたがこれでは3重スパイ、そして演じるという点では1人3役です。3重スパイのスパイ小説、1人の役者が3役を演じる映画を想像して頂ければ分かりやすいのですが、それらは相当に練られたプロット/ストーリーテリング、そして役者の演技力が無ければ、読者を/観客を混乱させるだけのものになってしまいます。名前も、それを演じるもの同じで、つまり端的に言うと、とっ散らかってしまったわけです。1人の人間がとっちらかる。それこそが分裂というものです。

名前におけるストーリーテリング力も演技力もない私は常々、これは 良く無い事態だと思っていましたが、それを統合することができませんでした、3つの名前によって分裂させた実生活を/ネット社会を生きて来たのです。しかしそういうものはあるときふと解決するものです(以前のエセーに書いた、自分がスウェットを着用して外出する許可をあるときふと自分の心が自分に対して出したのと同じように、です)。

その答えの前に"分裂"というものについてもう少しだけ言及しなければいけません。分裂とは1つのものが2つ以上のものに別れること、とは字義のとおりですが、現実には我々人間は分裂すれど1つの肉体に納まっている故に完璧には分裂しきれません、ジキルとハイドのようにある種の(創作上の)多重人格者でさえ、それは1つの肉体の範疇に納まってい ます。とここまで語っているように私が話している分裂とは精神の、人の状態の分裂のことを指しています。心が引き裂かれたとき肉体も分裂するならば我々は多くのことに悩まずには済むでしょう。とはいえそれは思考実験を含むSF小説の世界であり、その物語の最後を想像すると肝が冷えるような気分になります。故にこう言い直すべきでしょう。我々は心が引き裂かれても、肉体のおかげで個体/個人を保てている、と。もちろんここで語る分裂とは、精神疾患に及ぶようなものではなく、誰の身にも現在進行形で起っている程度のもののことです。

再三の繰り返しになりますが私は、ジャズメンと小説家/批評家にアイデンティティーを(その実力や実績はまた別として)置いています。そういったもの が人々の心に呼び起すイメージ、特に前者のジャズが連想させるものであるBarやファッション(スーツ)、アートと私は関連して(友人たちからも)捉えられることが多く、もちろん私は私に、とくに本名で活動している私(現実/ネット上)にそういったイメージを意図的にコミットさせてきましたし、実際にそれらを愛し、僭越ながらもそのように発言/発信して来ました。しかし一方で私はオタクでもあります。オタクの意味は今ではアニメ愛好家程度のものになり、その中には昔ながらのくさい人(もちろんそれは悪いわけではありません)から洗練された美しい人も居るという事実を多くの人が認識しながらも、しかしある種の差別の対象であるという状況ですが、私はその意味/定義を精神科医斎藤環 さんが仰ったアニメーションのキャラクターで自慰行為を出来る人、つまりその程度はアニメやマンガに精神的な壁が無い人としています。私はオタクであると上記したとおり、私はアニメーションで漫画で絵でマスターベーションをすることが出来ますし、オタク界(キャラクターで自慰行為が出来る人々)のあいだには平面の絵(アニメ、漫画)では自慰が出来るが3D(CGなど)では出来ない人がおりますが(私の知人にハードコアなオタク(と書くと皆さんがどのような人を想像されるのか。氏のことを誤解させないように書きますが、彼はインターネットを嗜む方ならば誰でも知っているほどに有名な会社に勤めている有能で、人当たりの良い人、つまり病的な変態などではない表面上はとても普通の人であ ります)がおり、氏はハードコアなもの(いわゆるパソコンでプレイするエロゲなど)でオナニーができるが、3Dだけはダメだと仰っていました)私はそれも余裕で出来ます(しかし絵柄によってはまったくもえ(萌え/燃え)ません。知人と私のこの癖(へき)をオタクの一般的なものと拡大すれば、2Dと3Dはアニメーション作品制作上の方法論はべつとしても、観る側としては対立している概念と語ることもできるでしょう。最近"超リアルなCG"としてSayaという女子高生のキャラクターが話題を呼びましたが、私はあれには全然もえませんでした。2Dも3Dもその範疇に収め、私は現実の女性ともセックス出来ますが、あのキャラクターには(可愛い/美しいという感想や、性欲を滾らせるようなことがなく)ま ったく興味が涌きませんでした)。故に私はオタクを自認しています。

それが私の分裂なのです。もちろんジャズメンの、特に日本人のジャズメンのなかにはオタクも多くいますし、ジャズミュージシャンがアニメ音楽の現場に関わり、またジャズミュージシャンはアニメ音楽に限定せずポップスやディスコミュージック、ロックや童謡や民謡さえジャズ風にアレンジしCDなどにして来ましたが、後者は生業のためはもちろんそれをすることのできる技術を持っている故の行為であることは言うまでもありません。では前者はどうしているのかということに関しては、私の観察によれば、という非常に限定された範囲での言及になりますが、それは多くの人が予想しているように、適度に隠しているというのが実 情です。しかし私自身のことに関してはそれでは納得出来ないのです。実際のところ、アニメ好きのジャズメンと私のアニメ好き度合を比較すると、私のほうが勝ってしまうということがあるのかもしれません(とはいえ、テレビで放映されるアニメ番組を録画してまで観ることはありませんし、アニメのDVDやフィギュアやキャラクターを演じる声優のライブなどには手を出していない程度のオタクではあるのですが)。それは想像の範疇を出ませんが、その真偽はまた別としても、適度に隠すことに私は納得出来ません、というか隠してもいづれはドロドロのマグマのように噴出すると思っているわけです。そしてそれでは面白く無いとも思っているわけです。

と、ここで種明かしのようなものなのですが、 私のハンドルネーム”とらさん”が産まれたチャットルームはあるテレビゲームの同好者の人々が集まるものだったのです、そして私も含む彼らはそのゲームへも参加するようになります。つまり”とらさん”はそのはじめからオタクであり、その後はゲームキャラクターとしての振る舞いもすることになるのです。

そしてジャズメンとしての本名、オタクとしての偽名がネット上の活動でさえ私を分裂させます。ジャズメンとしての私は”とらさん”を出せませんし、”とらさん”は本名を出せません。具体的に言うとそれをするとそれぞれの場に居る人々が引いてしまうわけです(笑)。それで良い、使い分ければ良いのだ、と思っていた時期もありました。これに対して演じ分けという言葉を使い、それ はつまり名前に関わらず誰もしていることなのだ、例えばネット上であっても人々はフェイスブックの私とツイッターの私を使い分けることがある、そして現の社会でも家庭と会社、友人の前と恋人の前でそれぞれの私を演じ分ける。と語ることも可能ですが、ただの演技と、偽名や芸名を纏っての演技ではやはりその度合が違います、というよりも演技は演技だが、別名を纏うことは別人になること(ここで再び、役者の例えを出すことも可能です。異なる自分を演じるのではなく、別人を演じるのです)であり、それらは違うものであると言ったほうが適切でしょう。故に本名を芸名にしている人々は芸名を使う者よりも人々にそして自分に誠実であると言うこともできます。

話を戻します。大半の時を分 裂に苦しめられて生きて来た私は、それをこのたび解消したのです。方法は、ハンドルネームと本名の連結/合成というしごく単純な方法です(苦笑)。別れていたものを繋ぐには連結させてしまえばいいのです、そこには一新した名前などは必要ありません。

虎山元紀という名前がその答えです。

私は"とらさん"の字を虎山や寅山と書く場合もあり、とこれでは無限に偽名の偽名の説明がつづくことになってしまうので、その詳しい説明は省きますがとにかく偽名の中でもっとも姓/苗字らしく見えるものを選択したわけです。一方の元紀というのは私の生まれながらの本名の名であります。この2つを繋ぎ合わせ虎山元紀としたのです。

読みは"とらさん もとき"です。これでは姓/苗字がなく名 が2つ連続しているようですが(正に2つの名が連結しているわけですが)、私は人々から"とらさん"や"とら"と呼ばれることに親しみ、また気にもいっており、本名の名に対しても同じですので仕方が無いことなのです。虎山と書いて"こざん"と読ませる、まるで茶人や俳人のような名前では私の心が納得しません(言うまでもなく、茶人や俳人が悪いと言っているわけではありません、念のため)。いささか不格好な名前ではありますが、それは連結/合成されたものの宿命というか、キマイラ的な存在の魅力でもあるので、そういったものの利害得失を享受します。
 
ここで私は大きな間違いに気が付きました。今回のエセーのタイトルは「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!お い!」「分裂してんだよ」/重力(敬体)と恩寵、ですが正式には「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!おい!」「分裂していたんだよ」/重力(敬体)と恩寵、と過去形にしなくてはなりませんでした。名前による分裂は過去のことなのですから。
 
と、また私の文筆上の悪癖である、手を広げ過ぎる/長文になり過ぎることを発揮して、文章が長くなってしまったので今回はここで文を閉じます。要約ではありますが、物書きは成長すると悪い部分もまた成長させる。例えば下手な文章を書く小説家が成長すると、より面白い下手な文章を書くようになる。と言ったのは村上春樹氏です。私のこの悪癖により、皆さんが(幾ばくかの)面白さを感じていただけたのならば幸いです。 次のエセーには日記、そして最近観賞した映画「鑑定士と顔のない依頼人」の批評を掲載します。それまでにその力/技術を磨いていきます。それではまた「シンゴジラ」も「君の名は。」も「逃げ恥 」も無いブログでお会いしましょう、御贔屓にしてくださる皆様のご健康を祈りながら、筆をおきます。
広告を非表示にする

スウェットを着て外に出るということ/月(常体)と六ペンス


スウェットを着て外に出るということ

スウェットデビューをした。汗という意味の英単語をその名前に付けられた生地で作られる衣服は、その名前と生地の持つ特徴(伸縮性、防寒性、吸汗性)が示しているとおり秋/冬などの寒い時期にスポーツのゲームやトレーニングをする際、またはその前後にこれを着ることで体温を上げ身体を冷やさないようにするために着用されている。その歴史は労働者の作業着というところから始まり、軍用の衣類、そしてスポーツウェアという経緯を辿るが、多くのワークウェアが、多くのミニタリーウェアが、そして多くのスポーツウェアが、始めに目的どおりの用途に使用されると、次に若者が着るストリートウェアとして使用され(それはそれまでは下着として使用されていたTシャツを映画「欲望というの名の電車」で粗暴な夫や「乱暴者」でバイカーを演じた主演のマーロン・ブランドがトップスとして着こなしたことに影響を受けて多くの若者がこの服を着始めたように、映画「タクシードライバー」でベトナム戦争帰還兵役のロバード・デ・ニーロが着るM-65フィールドジャケットのクールさに惚れ惚れした若者がこのミニタリージャケットを普段着として着用したことと同じようなことだ。服の新しい使用の仕方(着方)をするのはいつも若者である)、そしてやがては年齢と性別を問わず着用されるカジュアルウェアとなるように、このスウェットという服も皆さんが知るように(お召しになっているように)誰もが着る服になった。

その過程で重要なのは現在はオールドスクール/オールドスクーラー(古典派)の名前で呼ばれる80年代のアメリカで隆盛を誇ったヒップホップ文化に所属していた人々のファッションだろう、アディダスのジャージと共にスウェットを着こなした彼らはこの服を、ただの衣服から、いわゆる"お洒落"な衣服へとその価値を高めた(もちろんそこにはヒップホップという文化にはラップと同程度(ブレイク)ダンスが重要な位置を占めているからだという理由もある。このダンスには身体の動きの邪魔をしない服が必要とされ、また人前で踊るのだからそれなりの(その文化なりの)見栄えも必要とされた)。その価値の進展は、スウェットが広義の意味ではジャージであることから(もちろん厳密にはジャージとはジャージー生地を使った衣服のことだが)かのシャネルの創業者/デザイナーであったココ・アヴァン・シャネルがジャージー生地を使った女性用のドレスを発明し女性の社会的地位を向上させたように、スウェット生地もやがてはパリで行われるプレタポルテオートクチュールコレクションで発表される衣服にも使用されるようになる。ここにきてスウェットが持つ機能性とお洒落としての価値は最大のものとなった。

と、私がスウェットの歴史を語り、皆さんがそれをお読みになったところで、皆さんはこのスウェット衣類、とくにそのジャケットやパーカーとパンツを同時に着用する、スウェット上下ということについて何を想像するのだろうか、単刀直入に言えばどんな人を想像するのだろうか?

これもまた単刀直入に言えば多くの方が想像するのが、小売店のドンキホーテと関連して語られるような、(もう既に一昔前の言葉だが、とはいえ現在でも現役の高校生も使うが)DQM/ドキュソといわれる、ある種の不良/チンピラが着ているユニフォームとしてのスウェットだろう。DQM/ドキュソの人々がこれを象徴的なユニフォームのようにして着ているのは、前記のヒップホップの影響もあるが、私は舎弟というものの存在を想像し、彼/彼女らへのその影響力も鑑みる。

舎弟である。上役について回る(上役から見た)下っ端のことだ。それは極道の場合も、不動産業などの場合もある。私はなにも極道の世界に詳しいと言いたいのではないし、実際にその役職などの実情もあまり理解はしていないが(特に不動産業などの方をみると判るのは)舎弟とは子分という身分でありながらもその他の子分とは違う、上役と公私を共にするある種の秘書やマネージャーのようなものだろう。私はそういった意味での舎弟の人々を何度か目にしたことがあるが、必ずではないにしても多くの場合で彼らが着ているのはジャージやスウェットであった。上役も(舎弟以外の)子分もスーツを身に纏っているが、上役に立ち位置が1番近くその他の子分よりも立ち場が上と思われる舎弟だけがそれを着ているという場面にも出会したことがある。これが事実であることは、Vシネマなどのアンダーグランドな映像作品から「アウトレイジ」などのメジャーな極道映画にまでその姿が描かれていることが証明している。そして現実と映画は相互作用し、舎弟のユニフォームとしてのジャージ/スウェットを形作って行く。

ヒップホップと舎弟という 2つの流れ、その固定されたイメージがDQM/ドキュソにジャージ/スウェットを着用させ、ひいては多くの人がジャージ/スウェットからDQM/ドキュソを想像することの源になっている。とはいえもちろん楽だから着るという理由もあるだろうが、そんな楽だから着るという精神的な構造が彼/彼女らにはあり、それを着て外に行けるという社会的な立ち位置なども彼/彼女らにはあるのだ。やはり広義の不良はジャージやスウェットを纏う。

都会と地方では、やはり地方のほうがスウェットの着用率が高い。もちろんお洒落としてのスウェットである。地方の特に農業や工業が盛んな場所に住む男で、トラッド/アイビーなどのクラシカルな服をお洒落着として持っている人間と私は合ったことが無い。女性がテレビやファッション雑誌の影響でいわゆるセレブの服装を目にし、そこからの流用でクラシカルな服を纏うことがあるのとは正反対である。しかし当ブログをお読みの方のなかにはそういった人もいるのかもしれない。なにせこれをお読みの皆さんは好事家である。好事家故の趣味の良さからそのような方もいらっしゃるだろうという推測だ。もしいらっしゃるのならば、それは服飾文化における喜びの1つであることは間違いないので、その趣味を保ち続けて欲しい/そしてその趣味の良さのまま変化して行って欲しい(もちろんスウェットが悪いと言っているわけではない、なにせ自分でもそれを着始めたという話をいましているのだから・笑)。
 
そんな状況の日本でスウェットのパーカーとパンツを同時 に纏うことは、私にはなかなかできないことだった。簡単にこれができるという方も居られるだろうし、私自身は自分のことをボンクラでありチンピラだと思っている、それにそういった人々のことも嫌いではない(変に五月蝿いだけのガキは嫌いだが)。しかし自分がそれを着ることを容認することは出来なかった。私の内側のなんらかのものが不許可を出し続けていたのだ。

しかし最近になって突然に許可がおりた。

前々から私は細身のスウェットのパンツは1本だけ所有していた。その上に(テーラード)ジャケットを纏ったり、裾をブーツに入れて着るのが好きだった。そうするとスウェットだがスウェットそのものには見えなくなるのだ、しかし格好が少しだけスポーティーになる。そのバランスが好きだった。

今年の(結果としてあまりにも短かった)秋に入り、私は簡単に羽織れて適度に防寒性もあるパーカーを物色していた。そしてとある衣類店で私の目はついにあるものを見つけてしまった。それは黒一色のパーカーで生地はスウェットで出来ていた。なんと偶然にも私が持っているスウェットパンツとセットアップのものだったのだ。偶然に見つけたものだがそのもの自体は驚くべきことではない、私が所有しているパンツはかのチャンピオン社が発売しているスタンダードなものだったのだから。黒一色で腰の付近に小さくチャンピオンのロゴが刺繍されている。そんなものだからパーカーとセットアップにして通年売られていても不思議ではない。しかし私は驚いた、パンツを購入した際にはセットアップで売られていることなど知らなかったからだ。それを発見した時点で私の心に火がついてしまったとも書くことが出来る。そして私はそのパーカーをハンガーから卸して袖を通した、生地は適度な厚さでサイズも細身で良い。野暮ったさが無い。そうとなればもう全てが決まったのも同然だった。これを購入した私は、その人生のなかで初めてスウェットの上下で外出する権利を得たのだ。これは物の所有の話ではない、その権利は私の心が私に対して発行したものだ。

そして帰宅し、クローゼットから例のパンツを引っ張りだす、やはりこれとパーカーはセットアップのものであった。もちろんすわさっそくとそれを着込んだ。購入した服を自宅で着て鏡の前で悦に至るという、いわゆるファッションショーと揶揄される、 しかし確実に服飾文化のなかでもっとも幸せな瞬間でもある行為があるが、まさかスウェットでそれを行うことになるとは思いもしなかった。ナルシシスティックに私はその姿に感動し、鏡の前で一回転などをしてみた(スウェット姿でだ・笑)。

権利は得たもののしかしスウェットのパンツとパーカーという格好で外出するのには、やはり少しの勇気が必要だった。しかしもうこうなればやぶれかぶれというか、ナルシシスティックに鏡の前で一回転してしまった勢いがあった。そして翌日、私はその姿で外出をした。その日は別段に人と合う予定などがなかったことが勢いに弾みをつけた。靴は細身のブーツにした。履いた靴がスニーカーではないのがこの格好としては不完全なところだが、これは映画の 「ロッキー」やそのサーガの最新作である「クリード」のイメージの転用、つまりスウェットと言えばボクサーなのだというイメージが私の心の奥底にあったのだろう。とそういうサジェッション/言い訳をしているわけだ。私はDQM/ドキュソではないぞという言い訳だ。それは自分に対する言い訳、だが。

スウェットの姿で外に出る。

どうにも落ち着かない。すれ違う人がそれまでの日々(私は多くの場合で秋にはテーラードジャケットやセーターを纏う、つまり私はそう言った点ではクラシカルな人間なのだ)とは違う目で私を見ているような気がする。これは完全な自意識過剰だが、服飾に少々の興味があるものとして、服装の種類によって、それを着る者の精神はもちろんだが、他人の対応が違うことを知っている。後者は可愛らしくもあり、しかし確実に慧眼というものを持たぬ人々の行為ではある、しかし馬鹿にはできない。端的にいえば多くの男が、恋人とのセックスの時に女が(ナース服でもセーラー服でもカクテルドレスでもなんでも良いが、兎に角セックス専用の)コスプレをすると喜ぶ。恋人をレストランに招待した女は、男が着慣れぬスーツを纏っている姿に欲情してレストランに行かずに男をホテルに連れ込む(これは私個人の実体験だが)。服飾のバリエーションはこの様に他人の精神を安易に変える。いうまでもなく欲情とは喜怒哀楽という豊でありしかし安い感情とは違い、人が自分自身では操作出来ぬ精神の代表的なところである。喜びや怒りや悲しみや楽しみのように、それを抑えたり、自発的に感じることは欲情の場合ではとても難しい。もし欲情が涙や怒りのように堪えることが出来るものであったり、ポジティブな精神を心がけるのと同難易度のし易さで出来るのならば、心的なインポテンツや不感症の患者はもっと少なくなる。服はそんな欲情さえも操作することができるのだ。

と書いたところで、やはりすれ違う人の目云々は多分に自意識過剰な者の言葉だろう。しかしスウェットの上下で街を歩くことはとても楽しい経験だった。やはりスウェットにボクサーのイメージをサジェッションをしても、私の心のなかにもDQM/ドキュソのコスプレという意識もあるようで、もう少し若ければ、うっかりとすこし悪いことをしたりいつもよりも粗暴になってしまっていたかもしれない。そういった自分の意識への傾聴も含めて楽しかった。



ジェーン・スーと田嶋陽子

今更になってジェーン・スー氏が書いたエセー集の「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」を読んだ。面白い。その内容は本の題名が示すとおり近年の日本の女性に対する女性(ジェーン・スー氏)からの言及であり、広く言えば女性論だ。これに載っている文章の多くが初めは氏のブログに書かれたものであるというから、ブログ本というジャンルにカテゴライズすることもできる。

この本は数多くある「女性ってやっぱり大変なんだなあ」と思わせる本であり、言い替えればその程度の本(性差であり、人間全体の話ではない)なのだが、やはり面白い。  書くまでもないことなのだがこれは、「男って大変なんだあ」と思わせる本はその程度の本(性差であり、人間全体の話ではない)であり、そのなかにも面白いものはある、と言っているのと同じことである。語ること/書くこととしての性差/性は重要でシリアスな物件であり、より慎重にそして公に議論されるべきものではあるが、それはやはり人類全体(に及ぶ程度)の話ではない(ましてや人類の半分や少数の話でもない)ということを忘れてはならない。

女性の大変さを女性が訴えると、ある程度以上の年代の人々の頭を過るのはやはり運動家/教授の田嶋陽子氏の顔であり、彼女は視聴者が幼少の頃に師事した小学校の五月蝿い女教師そのままにテレビに登場し(これは悪い言葉であり、昭和的な言葉でもあるが)キャンキャンとその論を騒ぎ立てた。 これは明らかにテレビ局が意図した女性の社会的地位向上を唱える運動家のイメージへのキャスティングであり、彼女が出演した番組の力によりフェミニズム→五月蝿い女教師→きゃんきゃん騒ぐというイメージを固定化させてしまった。それ以降女性の大変さを女性が訴えることと田嶋氏のイメージは重なって来たが、ジェーン氏はそれを破っている。

ジェーン氏は巧みな文章力とさまざまな例え話、平静な文章、自虐(本のタイトルの"貴様"とは自分自身のことであり、優秀な文章に必要な自己言及でもある)までを含めたユーモアによって(つまりそれは知的な文章ということだが)女性が女性の大変さを語ることの非・田嶋化に成功している。どうしても女性自身が女性の大変さを語る文章はヒステリックになりやすく(本人なのだからヒステリックになりやすいのは当り前でありもちろん悪いことではないのだが、それが読み物になった時にはそれこそがこの行為に必ず含まれる構造的な弱点になる)、それに付いて回る憂鬱/陰鬱さや情念が出やすく、それを読む人々からは文章と同じようなヒステリックな同意か、正論に対して感じる居心地の悪さしか引き出せない場合が多いが、ジェーン氏はその知性でそれらを回避/緩和している。

さらにこの本を論にしなかったことも面白さの要因の1つだ。この本は論ではなく"〜問題"(この問題とは問題行動とか問題の人物という意味での問題ではなく、問題提起やミレニアム懸賞問題の様に解かれるのを待ちながら存在し、そしていつかは解かれるものという意味だが)なのだ。もちろんその成功は、この本がもともとは女性に向けて書かれたものであるということが一番大きな要因だが、その一方で男性も読者の射程には入れているという戦略こそが、この本を「女性ってやっぱり大変なんだなあ」と思わせる本でありながらも読ませる/面白いものにしている。 その戦略を可能にしたのは氏が持つ文章力と知性の力である。




悪貨は良貨を駆逐する。

とこのエセーを書いていたら第45代目の合衆国大統領を決める2016年の大統領選が終わった。勝ったのは皆さんご存知のとおりドナルド・トランプヒラリー・クリントンは泣き、中国とロシアは喜び、日本は混乱と言ったところだが今回の選挙が証明したのはかの警句「悪貨は良貨を駆逐する」は本当であるということだ。

この言葉はトーマス・グレシャムという16世紀に生きた英国の財政顧問の言葉であり、彼の名を採ってグレシャムの法則と……というのは経済の教科書にも載っていることだが、この警句に対して人々は重要な点を見逃している。この警句の内容を大雑把に書くと、本物の金貨と金貨に見える銅貨(偽金)があり、両方とも市場で同じ物として使えるのならば、人々は本物の金貨を自宅にしまい、偽物の金貨を市場で使うだろう。なぜならば市場の価値としては本物も偽物も同価値だが、実質な価値は金を使っている本物の金貨のほうが高いからだ。そして実質価値の低い偽金のほうを市場で使用するだろう。というものだ。
 
この話は贋貨/悪人が貨幣/善人を駆逐することだけを表しているのではない。確かに社会に蔓延るのは悪貨だが、人々は良貨を手元に残しておくのだ。ここがこの警句においては重要である。このことはつまり実際に価値のあるものは人々が個人所有し、秘し、一方の社会では人々は(物としてはもちろん、精神的にも)使い易い物のほうを使用するということを表しているのだ。社会においては実際に価値あるものよりも、使い易い物のほうが頻度もその場面もより多く使用されるのである。これもまた経済の教科書に書いてあることなので私が書くことではないが、経済の基本は交換である。それはつまり物々交換の時代を終わらせた、貨幣そのもの、貨幣が持つ万能の交換券/権そのもののことである。人々は社会において質の悪いものこそを交換する。良いものは自分自身のためだけに保管する。それがひいては「悪貨は良貨を駆逐する」ことになる。

今回の大統領選も同じことだ。バーニー・サンダースクリントンに破れ、クリントンはトランプに破れた。良貨は使用されずに個人がその内に大事に隠し持ち、社会では使い易い悪貨が使用される。だからトランプ第45代目合衆国大統領、悪貨ならばそれに恥じぬように実質の価値は低くても、せめて市場価値だけは本物と同じでいるんだな。



と書いたところで文章が長くなってしまったので今回はここで筆を置く。本当は私が最近自分に付けた芸名/ペンネーム/ハンドルネームのこと、そこからそもそもの芸名のもつ価値や、一個人におけるオタクと非オタクの分裂/演じ分けのことを書きたかった。それは次回以降のエセーで書くことにする。そのタイトルは「虎山元紀っておい!その名前なんだよ!おい!」「分裂してんだよ」/重力(敬体or常体)と恩寵、だ。その記事では敬体と常体のどちらを使うかを迷いながらも次に筆を取るまでにその技を磨いておく。それでは短い秋を吹き飛ばす本格的な冬が急来してきた日本列島に住まう方々は風邪などにならぬようにお気を付けて、それ以外の国に住まう方々も健康にはどうかお気をつけて。

 

 

 

.
広告を非表示にする

逃げるくらいならばあのとき2人は死んでいれば良かったのに -- 愛の嵐 -- /フラニー(敬体)とゾーイー(常体)

二ヶ月ほど掛かった私のweb上のコンテンツの一新を終えた。詳しい説明は私が書いた小説と詩を掲載するブログ「calmant doux pour la dépression.」(読みはカルマン・ドゥ・プール・ラ・デプレシオン。日本語に訳すと「憂鬱のための甘い鎮静剤」といったところだ)に書いたので読んで頂きたい。しかし小説と詩を載せるために作ったブログの最初の投稿が挨拶の文章とは、統一感としては初めから画竜点睛を欠いているようにも思えるが、目次の前に置いた、まえがきと捉えて頂いて、厳しいツッコミはご容赦を願いたい。

calmant doux pour la dépression.
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20161017/1476720848

と当ブログ「gris homme」の二回目の投稿を書き始めたところですが、いま私はそれを解決するまでは文章を先に進めることが出来ない種類の問題に直面しています。もちろん文章に関連するものなのですが、それは日本語を使い文章を書いている我々に常に突きつけられている問題でもあります。私に関しては、それはこのブログを敬体で書くのか常体で書くのかという問題です。gris hommeをお読みの好事家の皆様には説明不要だとは思いますが野暮を承知で説明すると、敬体とはいわゆる、ですます調/敬語を使い書く文章のことで、実例を示すのならばそれは皆様がいまお読みのこの文章のことです。一方の常体は非・敬語的であり、ですます調ではなく、だ・である調で書く文章のことであり、それはつまりこの記事の冒頭に書いた文章のことです。

中学生時代の国語の授業や大学でのレポート制作の際に一連の文章は敬体か常体のどちらかに統一して書くべきであると我々は教えられて来ましたが、実情は敬体/常体がごちゃまざになり書かれた文章(もちろんそれは意図をもって敬体/常体を混ぜる場合つまりテクニックとして行う場合もあるだろうし、個人の文章作成能力の未熟さから、 意図せずそうなってしまう場合もあろうだろうが)が世の中の大半なのではないでしょうか、特に編集者や先生/教授/上司などの他人の手による添削が入らない個人のブログに載る文章というのはその傾向が強くなっているはずです。とこのように通常の文章は敬体を使用して括弧の内の文章には常体を使いリズムを作る、あるいは文章が読者に与えるイメージを操作するというテクニックもありますが、私としてはこのブログに掲載する文章は敬体か常体のどちらかに固定したいのです。

敬体/常体には物事のメリット/デメリットという捉え方を凌駕する、一連の文章が読者に与える雰囲気を決定する力があります。音楽でこれに対応するのはモードという概念です。モードは長調短調という単純な二分化には表すことができない音楽的な色彩の選択とその決定権を持っています。このモードと同じように敬体/常体とは長所/短所という言葉では捉えることが出来ないものを与える、文章の色彩を決める様式なのです。色彩という言葉でそれを表現するとなればやはり敬体は隣接する色同士の境目さえ曖昧にするパステルカラーで、敬体は色と色の区切りがハッキリとしているヴィヴィットカラーということになるでしょう。私はそれらを玩具箱から取り出した玩具のようにごちゃ混ぜに扱う幼児的な快楽、その一方で芸術さえ生み出すストリートライクな敬体/常体を混ぜた文章表現ではなく、純一な1つのモードだけを使用してモードというものが持つ色彩の美しさと純粋で故に少々ヒステリックな雰 囲気を文章に与えたいのです(ここでいうモードとは服飾の世界で使用されるモードのことでもあります)。

その上で私は敬体と常体という2つの色彩の効力を同程度に信用しており、文筆の際に使う相棒として一緒にその道を歩んでいきたいのです。ですので文章の様式を統一するにしても1つの記事のなかのルールに限定します。gris homme の1回目の記事「テスト投稿をしろと言われたのでテスト氏のことでも書こう(なんてことはもう世界中の多くの人がやっている)」(http://grishomme.hatenadiary.com/entry/2016/10/06/015154)は常体で書きましたが今回の記事は敬体で書いていきます。つまり記事の内容によって敬体/常体を使い分けるのです。この様にすることでそれぞれのモードを獲得することと、2つの相棒と共に文筆の道を歩むことを両立させていきます。

と前書きが長くなったところで本題です。上記したとおり今回の記事は敬体を使い書いていきますので、この様式がもつ柔らかい色彩を、皆様の貴重な時間をいっとき頂戴して、お楽しみいただければ幸いです。

コンテンツを一新するための様々な作業(これはコンテンツの 方向や規模やデザインのイメージを決めるという初期設定から、ホームページやブログなどのWEB上のスペースを借りる会社の選定、デザインを具現化するための写真の撮影やパーツの作製といった構築的なもの、そして内容を書く実務的なものが含まれています)はとても楽しかったです。心象に描いたものが形を成していくというのはやはり気分が良いものです。そんななかで唯一私を焦らせ、作業をさせるために尻を叩き続けたのは借りていたレンタルDVDの返却期限でした(個人でやっているwebサイトですから、本来は締め切りもなにも無いわけです)。

この年にして恥ずかしい限りですが、これは自分のスケジュールと一定の期間内で自分に観ることの出来る映画の数の折り合いもつけれぬまま、映 画名や監督名に淫するように大量のDVDを借りてしまったことへのツケでした。名前に淫する(よう/様)とはつまり中身を観ずに興奮していることですから、これは批評家(私は批評を書いたら思いのほか評判だったので味を占めて批評を書き続けている子供、つまり勝手に批評家を名乗っているだけなのですが・笑)の端くれとして情けない限りです(名が残っているということ自体が作品のクオリテォーを保証するという言い方も出来るのですが、どんな天才であっても作ったものの中には凡作がありますし、そういったことを考えると中身を観る前から興奮しているようではだめですね。これは映画を見ずに駄作と決めつけるという多くの人々がしてしまう行為と同質なものです。もちろんその質の悪さは後者の 方が遥かに高いことは言うまでもないことです。精神分析医のフロイトはその著書で批評家たちに対してこう言いました、1度は読みたまえ、と(これは前回の記事のリピートです・笑))。

しかしどうかそんな私を許して頂く、今回借りたDVDの作品名と監督名を以下に列挙しますので、そのジャッジを皆様にご判断頂きたく存じます。作品名/監督名という順番での記述です。

ブルジョワジーの密かな楽しみ/ルイス・ブニュエル
自由の幻想/ルイス・ブニュエル
欲望の曖昧な対象/ルイス・ブニュエル
悲しみのトリスターノ/ルイス・ブニュエル
小間使いの日記/ルイス・ブニュエル
チャイニーズ・ブッキーを殺した男/ジョン・カサヴェテス
2つの世界の男/キャロル・リード
殺 しの分け前・ポイントブランク/ジョン・ブアマン
現金に手を出すな/ジャック・ベッケル
狩人の夜/チャールズ・ロートン

と名立たる(そうまさに"名立たる"です)名作ばかり、しかし恥ずかしいことにこの年まで私は上記の作品を1度も見たことがありませんでした。そんな私にこれらの作品をまとめて観る機会が訪れたのです(具体的に言いますとTSUTAYAオンラインDVDレンタルサービスが貸し出し料金半額のセールを行っているのを知ったのです・笑。そして興味本位で気になっていた作品名や監督名を検索するとおとぎ話に登場する地中に眠っていた金銀財宝のごとくザックザックと出て来たのです)。そのとき、これらの作品名を目にしてレンタルを申請するボタンをクリックすることを止められなくなってしまった私の心はやはり 作品名と監督の名前に淫していた(よう/様だった)のでしょうか?淫することは甘くやがては苦いものと誰もが知っていることですが、果たして今回の私の行為がどうであったかというと、もう完全にそのとおりでありまして、映画を見ながらときに興奮しときに苦い顔をするという、つまり完全に楽しい時間を過ごすことが出来ました(うはは)。

しかし淫欲には問題がつきものです(正確には問題があるから人は何かに淫するわけですが。この文章をお読みの皆様にはお判りのとおり、ここで私が語っている淫欲とはフェティシズムに近いものです)。私は上記10枚のDVDを二晩で観終えなければならなかったのです。つまりそこまでWEBサイトの開設/ブログの一新に時間が掛かってしまったわけです。無 事に全ての作品を鑑賞し終えることが出来ていまはほっとしています。

観賞した順番は、現金に手を出すな→チャイニーズ・ブッキーを殺した男→ブルジョワジーの密かな楽しみ→自由の幻想→2つの世界の男→朝。再び夜→欲望の曖昧な対象→殺しの分け前・ポイントブランク→→悲しみのトリスターノ→小間使いの日記→狩人の夜→これで完走です。

シュルレアリストが作った映画が5本、インディペンデント映画というものを確立した監督の映画が1本、「第三の男」を撮った監督の次々作、フレンチ・フィルムノワールの代表作が1本、前衛的な犯罪映画が1本、そして生涯唯一この作品だけを撮って監督業を廃業した男のその1本というライナップ。映像作品に向き合い自身の美学を刻印してい った男たちの頼もしい作品の連続に、私は豊かで耽美な生命力を注入され、映画という複合的なもの、世界の複雑さ/繊細さを描く映画というものが観客に与えるエネルギーのうねりに、これまでの疲れを忘れ、2日間で10本も観賞したのにも関わらず、そして上記の作品には一本も完璧なハッピーエンドはないのにも関わらず、心を癒されたのです。

(苦い顔、というのは「二つの世界の男」を観終えた後にやはり第三の男は名作だったあれは甘くクールで映像が美しかったから良かったのだがこれにはクールしか無いと感じたとき、欲望の曖昧な対象を観終えた際にブニュエルにしてはあまりにも表現が直接的すぎる、それ以外の作品のように無意識を揺るがされたと感じるような瞬間が無いという感想 を得たときにした私の心的な表情のことです)

高揚した気分のまま私は、観終わったのが深夜でしたから、急いで中央郵便局に向かいました。DVDを借りた方法はネットを通しでですから、これを返却するためにはポストにDVDを投函しなければならないわけです。しかもこの日は返却期限の1日前なのでその辺に設置されているポストに投函しても期限までには間に合いそうにありません。しかし中央郵便局の深夜に開いている投函口を利用すれば期限までには間に合うだろうと考えての行動でした(通常のポストに投函したものは、その後地域の中央郵便局に集められますから、最初からそこを利用すれば配達の行程を1つ減らせるわけです)。

散歩も兼ねて徒歩で郵便局に向かったのですがその道中で「愛に も色々な種類があるけれど、共通していることは相手を忘れないということだよな。個人的な性愛から人類愛という大きなものまで愛というものの全てがそうだ」などと観賞した映画たちから与えられた考えをまとめていると、野良猫が6匹ほど纏まっているところに遭遇し、その次に川辺を歩いていると猫の耳を模倣したデザインがフードに施されたパーカー(いわゆる猫耳パーカー)を被った少女が土手に寝転がりながら電話しているところに遭遇し、さらに自転車に乗った20代とおほしき女性が小さいながらもハッキリとした発声で歌いその美声を深夜の空気に響かせながら私のそばを通ったので、すわもう季節は春なのか(ご存知のとおり、春の空気は人々の心を浮つかせ、猫を発情に導きます)と思い、春はまだ まだ先なんだよ子猫ちゃんたちという気分になってしまいました。そんな気分のまま郵便局に到着、帰宅しました。

さてこれらの映画のことを詳しく書きたいのはやまやまなのですが(ブニュエルの映画から学んだことは、シュルレアリスムひいては日本語でシュールと言われるものを表現するには役者の演技や絵が素人臭かったり貧乏臭くてはだめだということです。ブニュエルのそれには実力のある俳優が出演し製作資金もそれなりに使われていました。端的に言えばダリもマグリットも絵が凄く上手かった、カルティエブレッソンも写真を撮るのが上手かったということです)それとは別に私にはまえまえからその作品が持つ問題を批評したいと思っている映画がありました、それは「愛の嵐」というイタ リアで制作された映画です。

「愛の嵐」はリリアーナ・カヴァーニという女性が監督し、名優ダーク・ボガードを主人公に、シャーロット・ランプリングをヒロインに据えた1973年制作のイタリア映画です。主人公はナチスの元・将校であり第二次大戦中は強制収容所を支配していた男、ヒロインはユダヤ人の女性で戦中は強制収容所に捕らわれていた少女、男は少女を弄び、少女はそんな状況に適応していくという過去を前提として、戦後のナチス狩りを逃れてオーストリアのウィーンでホテルの夜間のポーター(荷物運び/案内係)という身分に扮していた主人公は、人妻となっていた少女と再開する、初めは微妙な距離を取っていた2人もやがては堕ちていくように関係を再開させる。というプロッ トをもつ本作は毀誉褒貶の評判があり、ナチスドイツの残酷さ、転じて戦争の悲惨さやそれが戦後も続いていくということはきちんと表現しており、しかし犯された女性がその男をやがては愛憎を一緒くたにしながらも求めてしまうというこの物語の重要な部分に対して、誘拐や立てこもり事件におけるストックホルム症候群、実際の監禁事件被害者の行動を引き合いに出し、女性が監督した作品であるというエクスキューズ/サゼッションをし、強制収容所時代のセックス自体はきちんと描かない(描かれているのは男が女の裸を写真で撮ることや、ある種のストリップです)ということ、つまり倒錯を描いていることを加味しても、やはりポルノ的な題材であるという印象を拭えないことからもそれも納得 できます。

しかし私はそこを問題にしません。この映画の問題は物語の必然性、ラストシーンの投げやりと言って良いほどの必然性の無さなのです。終戦後も戦争の影響は続いていくということと、ナチスドイツの描き方、性愛、性愛の倒錯、再燃と転落とその悲劇というものは、実際のオーストリアのナチス党員の多さ、戦後も続く右翼思想を背景として、そして仄暗い画面とダーク・ボガードシャーロット・ランプリングの美しさの力による説得力で破綻を感じさせません。

特に強制収容所時代のランプリングの格好、乳首丸出しの上半身の裸に黒いパンツとサスペンダー、肘まで伸びた革の手袋、頭にはナチスの軍帽という格好はある種のアイコンにもなっており、日本のアニメへの影響力もある ほどです。

(具体的には1995年からテレビで放送されたアニメ「爆裂ハンター」に登場するキャラクターが同じ格好をしています。などと書くとgris hommeをお読みの方の中には、うっ!と思われる方も居られるかもしれません。なにせ現在の日本はどこもかしこもアニメ、アニメ、アニメであり、アニメが現在のコンテンツの覇権を握っているとはいえ、それに対応しきれない方も多いと思われ、そんな方は上記したブニュエルやカサヴェテスやフレンチ・ノワールの映画の羅列にこの文章ひいては当ブログにはアニメの話題が登場しないと思われていたかもしれません。しかし私はアニメも見ますし、ヴィデオゲームを嗜む程度に楽しんでいます。とはいえ「凉宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん」以降のアニメブームには今イチ乗れず(端的にいうと、これを境にして多くの声優の名前が判らなくなりました)、そういえば現在大ヒット中の「君の名は。」も観てい ないという状況です(折角なのでこの題名の元ネタとなっているラジオドラマを原作とした岸啓子主演の映画のほうを観たいです)。しかし私はそれでもアニメもゲームも好きではあるという中途半端な現状でして、そういった嗜好ですので、以降もgris hommeに書く文章にはそれらのことが登場するとは思いますが、それでもお付き合い下さる方はアニメやゲームへの言及は、どうか知らない国の言語を話しているとでも思っていただきスルー、あるいは知らないながらもそれを楽しむという気分でお読みいただければと存じます)

敗戦国の終戦後の社会状況の悲惨さということは我国の戦後の赤線、浮浪児問題(日本において国会で始めて覚せい剤が問題として取り上げられたのは浮浪児に関連してのことでした)を上げずとも多くの人々が知っており、「愛の嵐」においてもナチスの残党が秘密結社を組みナチス狩りから逃れ、ある程度の高い地位に居る、そういった状況を許してしまっていることを描くことで、戦争は終われどその悲劇は続いていることを表現して います。しかしこれは社会における終戦後の状況の描き方であり、それとは別に戦争と終戦は(当り前ですが)個人の精神へも影響を及ぼします。

具体的には国家間/社会的には戦争が終わっても「愛の嵐」の主人公とヒロインの個人的な/精神的な戦争は終戦を迎えてはいないのです。この映画の原題は「Il Portiere di notte」です、日本語に訳すと「夜のポーター」です。主人公はそのとおり、秘密結社から他の(陽の当る)仕事を進められても土竜には陽の光は眩しいと言いそれを断ります。彼にとっては戦後という社会状況さえもが明るすぎるのです、作中の彼の行動や表情や台詞からは生き残ってしまったという感慨を感じます、もちろん生き残ることは悪いことではありませんが、この映画に登場する元ナチス将校の彼は戦争で自分は死んでいるべきだったと思っているわけです。一方のヒロインの個人的な戦争も終わってはいません、それは彼女が今においても彼に惹かれてしまうということによって描かれています。

彼女の存在が秘密結社にばれた主人公はその抹殺を命じられます。当時のことを知っている彼女を 生かしておけばそこから全てがばれて自分達も裁判にかけられると彼らは懸念しているのです。しかし男は女を殺せません。その結果として2人は彼らの命を付け狙うナチス残党の秘密結社に対する、自室での籠城戦を行うことになります。籠城という悲惨かつ廃退的で耽美な生活は直ぐに終わります、2人は部屋から脱出し、その逃亡の過程で銃殺されるのです。そしてその場で映画は終わります。

この展開にはストーリー的な必然性がありません。なにせ彼らには戦後を生き残るという気概がそもそも無いのですから。銃殺のシーンはウィーンの重厚な建築の橋の上で行われ絵的には悪く無い画面構成であり、やはり悲劇ではありますが、彼らには逃げる意味が無く、リリアーナ・カヴァーニ監督がなんと なくラストに絵になる悲劇的なシーンを持って来たかったからこの場面を撮ったのだという印象しか持つことができません。

もちろんストーリー的な必然性がないことは悪いことではありません。例えば我々が1度は観たことがあるはずの2時間もののサスペンスドラマでは意味もなく犯人や主人公が様々な場所に行きます、しかしこの手のサスペンスドラマには観光という側面があります、お茶の間に居ながらにして視聴者は色々な観光地(例えば日光の温泉街や函館の街並)を観ることができます、そもそも映画には「ローマの休日」からアフリカ大陸を舞台にしたモンド映画まで観光映画という側面を持ったものが沢山あります。これに対してストーリー性云々を語るのは些か野暮ったい言及の仕方です。ブニ ュエルの映画にはストーリー的な統合性が少ないものが多くあります、しかしそれは人々の無意識を映画として表現するためのものであり、ストーリーの破綻こそが彼の映画を魅力的にし、人間の無意識の曖昧さ、その正体不明さをより明確に画面に表します。

しかし「愛の嵐」は作中の大半がホテルや自室の室内ばかりで観光映画という側面はなく、また性愛を描いていながらもブニュエルがやるような破綻はありません、1組の男女の性愛、自室での籠城戦という内に内に籠っていたものが最後に逃走という仕方で外へ向かうことを選択をするという方向性の転換が心理的な破綻であるという捉え方もしっくりきません。なぜならばそれまでの作中で2人からは生き残りたいという希望を一瞬も感じず、外 へ逃げてもその心は相変わらず内側に向かっているからです。しかし例えば最後には女が男を殺すというものであったのならば(あるいは逆に男が女を殺すというものであったのならば)必然性を得ることにはなりますが(そうすればある種の男女間のパワーゲームを描いた物語にはなるわけです)しかしそれは耽美でも倒錯でもないただの凡作ですから、それは回避しているわけです

さて、ナチス、籠城戦、そして1組の男女、その最後、というものの列挙に皆様はなにを連想されるでしょうか。私はあの1組の夫婦のことしか連想出来ません。というよりも主人公とヒロインはあの夫婦を模倣しようとした(監督は模倣しようとしたはずです)としか思えません。私は、ならば、逃げるくらいならば あのとき2人は(籠城戦のなかで)死んでいれば良かったのに。としか思えないのです。そうすればこの映画は終戦後も続く個人の/精神の戦争がその心を内に内に追い込んでいきやがては破滅させるという必然性を保つことが出来たのです。そして逃亡の末の銃殺よりも遥かに悲劇的になります。もちろん念のために書きますが現実では生き残るほうが良いのは言うまでもないことです。しかし「愛の嵐」は1組の人間の性愛と終戦後も継続する個人の精神のなかでの戦争を主題にした映画なのです。映画とは社会状況を描くものですが、その一方でなんらかの代演/身代わりでもあります。それはときに希望や成功というものの代演でもあり、ときには破壊衝動や破滅や死への欲望の代演でもあります。映画は現実世界の誰 かの/なんらかの/観客の/その精神の底に眠るものの代演をすることで人々の心を深いところで癒すのです。

と長くなりましたので今回はここで筆を置きます。最後までお読み下さった皆様には感謝の気持を捧げます。次回は敬体と常体、2つの相棒のうちどちらを使おうかという楽しい悩みを抱きながら、次の記事までその技量を磨いていきます。それではまたお会いしましょう。

広告を非表示にする

テスト投稿しろと言われたのでテスト氏のことでも書こう(なんてことはもう世界中の多くの人がやっている)

ブログを新設した。私は以前からインヴィジブルポエムクラブという題名のブログを運営している。小説や詩や批評を載せるためのものだ。それも含めて今回のものでブログを4つ作ったことになる。このブログはインヴィジブルポエムクラブをリニューアルするにあたって批評のページを分離させるために誕生した。小説も批評も根源は同じものだと思うが、同じ場所に置くのは食い合わせが悪い(それは例えるならば1つのスポーツに関わる者たちのようなものだ、ボクシングの選手はリングの上に登り拳を握り、実況者は実況席で叫びながら拳を握り、観客は客席に座りながら拳を握る。しかし選手が観客席に座ることはない、もちろん観客がリングに上がることもない)当ブログ新設 の挨拶は後日きちんと書くとして、とりあえずの記事を書くことにした。はてなブログから最初の記事を投稿してみろと言われているし(そんな五月蝿い編集者のようなこと(五月蝿く無い編集者が存在しているのか知らないけれど・笑))をしなくても良いのに(苦笑)。なによりも一度記事の投稿をして画面のレイアウトがどうなるのか眺めたい。


この記事の内容はタイトルのとおりなのだが、ほんとうに世界中の人々が同じことをしたことがあるはずだ。フランス人のヴァレリーは知の巨人と呼ばれた人で、青年の頃から才気にあふれる人だったようだが、若い頃に少しばかりの詩を発表したあとでとある老人の個人秘書となり文壇からは遠ざかり、その一方で、その生活の中で貯えた知識と才能と発 酵させていた。彼には知性があった。それはなによりも、沈黙の生活のなかで才能と知性を腐食させなかったことによって証明されている、冷蔵庫のなかに食品を貯えるだけ貯えてそれを腐らせてしまう人(あるいは親族さえもがその存在を老人の死後に知ったタンス預金)ではなかったわけだ。ヴァレリーはその時期にカイエ(日記/手記/手帳)を書き知識の整理と未来の知性の根源としていた。一般的に知られるようになったのは彼が46歳の頃だが、彼は(沈黙の時代も含む)生涯を通してテスト氏なる人物を物語の中心に据えた話を何作も書いている。テスト氏なる名前はもちろんテストのことで(フランス語ではmonsieur Teste )その内容は本作を読んでいただくとして(精神分析医のジークムント・フロイトはその著書、夢診断の中で評論家に向かってこう言っている、しっかりと読んだのか?いやこう言いたい、1度は読みたまえ、と)私がこの記事で取り上げるのはその思想だ。

ヴァレリーは自分の思考を人に対して告げたり、話したり、書かない人、つまり物言わない人の中にこそ本当の知性ある者(テスト氏)が居るのだと書いている。何故ならば(それが話されたものによせ、書かれたものにせよ)言葉は放たれた時点で自分が本当に思っていたことや伝えたかったことからは遠ざかっていってしまうからであり(あるいはこういうべきか、物事を正確に伝える言葉など存在しない)自分が放った言葉によって自分の思考 が絡めとられ知識と思考と思想は硬直し、最初の考えはどこかに行ってしまう。言語学者のソシュールや哲学者/精神科医ラカンのことをここでは例に出さないが、きっと言葉とはそういうものだろう。言葉が万能だと思ってしまうのはインターネット文化(掲示版とかSNS)が育ったことの弊害の1つだが、それは多くの人が誰かがネット上に発信した言葉で1度は心をエグられた経験があるからだろうと私は思っているのだが(ニーチェの言葉ではないが、人は自分を傷つけた凶器こそを評価する、そしてそれを手に持ってしまい、うっかりと使ってしまう)、ここではそれは主題ではない。

音楽家/文筆家の菊地成孔さんがテレビ番組でアウトサイダーアートと分類された芸術家たちを紹介した際に、出演 者が(確か真木蔵人さんだと記憶しているが)彼らは誰にも見せずに自分一人で絵を描いていたから偉いのですか?(評価されているのですが?)と言った。ヴァレリーの思想に則ればそのとおりだ。番組で紹介されたのはヘンリー・ダーガーだ。彼は死後有名になった画家だが、ゴッホやモリディアーニと違うのは、彼は自分のためだけに絵を描き、生涯のなかで誰にもそれを公表せず、死ぬ間際に全ての作品を燃やせと言ったところだ。彼は自分の為だけに絵を描いていた。自分のためだけに絵を描いている、人のことは気にしないという類いの発言があるが、ヴァレリーならばその言葉を言った時点で君は人の目に晒された、そしてそれを意識していることで、君の真の自由や表現が失われたのだと言うだろう 。一方でダーガーは自分の為だけに絵を描いていたのだから本当の自由を得ていた。そこには自由な想像力(ダーガーのそれはデモニッシュなものだが)があった。趣味の悪いことを言えば、それは空想実験だった。多くの者が一度は本当に自分のためだけに作品を作ることは可能なのだろうか?ということやそうなったらどんなものが出来るのかを考えたことがあるはずだった。だから彼の存在は現実となった空想実験だった。

私ははじめブログの題名を「知性を喪失しながら踊るエセー」「エスプリッソ」(これはエスプリとエスプレッソの合成語、造語)などにしようと思っていた(しなくて良かった・笑。言葉として座りがとても悪いのだもの)。題名に知性とエスプリが入っているのは、それを私が持っているという自惚れの表明ではなくて、それを呼び込みたかったからだ。ブログの題名は、小説や映画の題名とは違う、それらは完成品に付けられた名称だが、ブログとは日記(カイエ)であり延々と完成しないものだ。ブログの題名を考えることは中身が詰ま っているものに名を与えることではない、いまだに空のものに名前をつけることだ、人名を考えることに近い。人名には子供の未来に対する親の願いが込められている場合が多い。ブログのタイトルも同じだ。私は知性やエスプリを得たかったからそれらの言葉を題名に使用しようと目論んだ。
 
だが結果私がブログに与えたのは「gris homme」(グリソム)という名前だ。意味は灰色の男。全てのものを灰色にしてしまう(正常にレイアウトが表示されていれば)画面の右端に居る男(私が描きました、すごい下手だけれど・笑)のことだ。しかし恐ろしいことに私は「知性を喪失しながら踊るエセー」という題名を考えた時にはヴァレリーのことなど毛頭なかったのだが、ブログを開設/解説したことで(ヴァレリー流に言えば)私の本当の知性は失われることになる。考えていた題名のとおりになってしまった。

しかし踊ろう。
誰が私の手を取るのかは分からないが
素敵なダンスをできるようにしておく。
そこで流れる音楽はエリントンのビッグバンドだ。
広告を非表示にする