逃げるくらいならばあのとき2人は死んでいれば良かったのに -- 愛の嵐 -- /フラニー(敬体)とゾーイー(常体)

二ヶ月ほど掛かった私のweb上のコンテンツの一新を終えた。詳しい説明は私が書いた小説と詩を掲載するブログ「calmant doux pour la dépression.」(読みはカルマン・ドゥ・プール・ラ・デプレシオン。日本語に訳すと「憂鬱のための甘い鎮静剤」といったところだ)に書いたので読んで頂きたい。しかし小説と詩を載せるために作ったブログの最初の投稿が挨拶の文章とは、統一感としては初めから画竜点睛を欠いているようにも思えるが、目次の前に置いた、まえがきと捉えて頂いて、厳しいツッコミはご容赦を願いたい。

calmant doux pour la dépression.
http://d.hatena.ne.jp/torasang001/20161017/1476720848

と当ブログ「gris homme」の二回目の投稿を書き始めたところですが、いま私はそれを解決するまでは文章を先に進めることが出来ない種類の問題に直面しています。もちろん文章に関連するものなのですが、それは日本語を使い文章を書いている我々に常に突きつけられている問題でもあります。私に関しては、それはこのブログを敬体で書くのか常体で書くのかという問題です。gris hommeをお読みの好事家の皆様には説明不要だとは思いますが野暮を承知で説明すると、敬体とはいわゆる、ですます調/敬語を使い書く文章のことで、実例を示すのならばそれは皆様がいまお読みのこの文章のことです。一方の常体は非・敬語的であり、ですます調ではなく、だ・である調で書く文章のことであり、それはつまりこの記事の冒頭に書いた文章のことです。

中学生時代の国語の授業や大学でのレポート制作の際に一連の文章は敬体か常体のどちらかに統一して書くべきであると我々は教えられて来ましたが、実情は敬体/常体がごちゃまざになり書かれた文章(もちろんそれは意図をもって敬体/常体を混ぜる場合つまりテクニックとして行う場合もあるだろうし、個人の文章作成能力の未熟さから、 意図せずそうなってしまう場合もあろうだろうが)が世の中の大半なのではないでしょうか、特に編集者や先生/教授/上司などの他人の手による添削が入らない個人のブログに載る文章というのはその傾向が強くなっているはずです。とこのように通常の文章は敬体を使用して括弧の内の文章には常体を使いリズムを作る、あるいは文章が読者に与えるイメージを操作するというテクニックもありますが、私としてはこのブログに掲載する文章は敬体か常体のどちらかに固定したいのです。

敬体/常体には物事のメリット/デメリットという捉え方を凌駕する、一連の文章が読者に与える雰囲気を決定する力があります。音楽でこれに対応するのはモードという概念です。モードは長調短調という単純な二分化には表すことができない音楽的な色彩の選択とその決定権を持っています。このモードと同じように敬体/常体とは長所/短所という言葉では捉えることが出来ないものを与える、文章の色彩を決める様式なのです。色彩という言葉でそれを表現するとなればやはり敬体は隣接する色同士の境目さえ曖昧にするパステルカラーで、敬体は色と色の区切りがハッキリとしているヴィヴィットカラーということになるでしょう。私はそれらを玩具箱から取り出した玩具のようにごちゃ混ぜに扱う幼児的な快楽、その一方で芸術さえ生み出すストリートライクな敬体/常体を混ぜた文章表現ではなく、純一な1つのモードだけを使用してモードというものが持つ色彩の美しさと純粋で故に少々ヒステリックな雰 囲気を文章に与えたいのです(ここでいうモードとは服飾の世界で使用されるモードのことでもあります)。

その上で私は敬体と常体という2つの色彩の効力を同程度に信用しており、文筆の際に使う相棒として一緒にその道を歩んでいきたいのです。ですので文章の様式を統一するにしても1つの記事のなかのルールに限定します。gris homme の1回目の記事「テスト投稿をしろと言われたのでテスト氏のことでも書こう(なんてことはもう世界中の多くの人がやっている)」(http://grishomme.hatenadiary.com/entry/2016/10/06/015154)は常体で書きましたが今回の記事は敬体で書いていきます。つまり記事の内容によって敬体/常体を使い分けるのです。この様にすることでそれぞれのモードを獲得することと、2つの相棒と共に文筆の道を歩むことを両立させていきます。

と前書きが長くなったところで本題です。上記したとおり今回の記事は敬体を使い書いていきますので、この様式がもつ柔らかい色彩を、皆様の貴重な時間をいっとき頂戴して、お楽しみいただければ幸いです。

コンテンツを一新するための様々な作業(これはコンテンツの 方向や規模やデザインのイメージを決めるという初期設定から、ホームページやブログなどのWEB上のスペースを借りる会社の選定、デザインを具現化するための写真の撮影やパーツの作製といった構築的なもの、そして内容を書く実務的なものが含まれています)はとても楽しかったです。心象に描いたものが形を成していくというのはやはり気分が良いものです。そんななかで唯一私を焦らせ、作業をさせるために尻を叩き続けたのは借りていたレンタルDVDの返却期限でした(個人でやっているwebサイトですから、本来は締め切りもなにも無いわけです)。

この年にして恥ずかしい限りですが、これは自分のスケジュールと一定の期間内で自分に観ることの出来る映画の数の折り合いもつけれぬまま、映 画名や監督名に淫するように大量のDVDを借りてしまったことへのツケでした。名前に淫する(よう/様)とはつまり中身を観ずに興奮していることですから、これは批評家(私は批評を書いたら思いのほか評判だったので味を占めて批評を書き続けている子供、つまり勝手に批評家を名乗っているだけなのですが・笑)の端くれとして情けない限りです(名が残っているということ自体が作品のクオリテォーを保証するという言い方も出来るのですが、どんな天才であっても作ったものの中には凡作がありますし、そういったことを考えると中身を観る前から興奮しているようではだめですね。これは映画を見ずに駄作と決めつけるという多くの人々がしてしまう行為と同質なものです。もちろんその質の悪さは後者の 方が遥かに高いことは言うまでもないことです。精神分析医のフロイトはその著書で批評家たちに対してこう言いました、1度は読みたまえ、と(これは前回の記事のリピートです・笑))。

しかしどうかそんな私を許して頂く、今回借りたDVDの作品名と監督名を以下に列挙しますので、そのジャッジを皆様にご判断頂きたく存じます。作品名/監督名という順番での記述です。

ブルジョワジーの密かな楽しみ/ルイス・ブニュエル
自由の幻想/ルイス・ブニュエル
欲望の曖昧な対象/ルイス・ブニュエル
悲しみのトリスターノ/ルイス・ブニュエル
小間使いの日記/ルイス・ブニュエル
チャイニーズ・ブッキーを殺した男/ジョン・カサヴェテス
2つの世界の男/キャロル・リード
殺 しの分け前・ポイントブランク/ジョン・ブアマン
現金に手を出すな/ジャック・ベッケル
狩人の夜/チャールズ・ロートン

と名立たる(そうまさに"名立たる"です)名作ばかり、しかし恥ずかしいことにこの年まで私は上記の作品を1度も見たことがありませんでした。そんな私にこれらの作品をまとめて観る機会が訪れたのです(具体的に言いますとTSUTAYAオンラインDVDレンタルサービスが貸し出し料金半額のセールを行っているのを知ったのです・笑。そして興味本位で気になっていた作品名や監督名を検索するとおとぎ話に登場する地中に眠っていた金銀財宝のごとくザックザックと出て来たのです)。そのとき、これらの作品名を目にしてレンタルを申請するボタンをクリックすることを止められなくなってしまった私の心はやはり 作品名と監督の名前に淫していた(よう/様だった)のでしょうか?淫することは甘くやがては苦いものと誰もが知っていることですが、果たして今回の私の行為がどうであったかというと、もう完全にそのとおりでありまして、映画を見ながらときに興奮しときに苦い顔をするという、つまり完全に楽しい時間を過ごすことが出来ました(うはは)。

しかし淫欲には問題がつきものです(正確には問題があるから人は何かに淫するわけですが。この文章をお読みの皆様にはお判りのとおり、ここで私が語っている淫欲とはフェティシズムに近いものです)。私は上記10枚のDVDを二晩で観終えなければならなかったのです。つまりそこまでWEBサイトの開設/ブログの一新に時間が掛かってしまったわけです。無 事に全ての作品を鑑賞し終えることが出来ていまはほっとしています。

観賞した順番は、現金に手を出すな→チャイニーズ・ブッキーを殺した男→ブルジョワジーの密かな楽しみ→自由の幻想→2つの世界の男→朝。再び夜→欲望の曖昧な対象→殺しの分け前・ポイントブランク→→悲しみのトリスターノ→小間使いの日記→狩人の夜→これで完走です。

シュルレアリストが作った映画が5本、インディペンデント映画というものを確立した監督の映画が1本、「第三の男」を撮った監督の次々作、フレンチ・フィルムノワールの代表作が1本、前衛的な犯罪映画が1本、そして生涯唯一この作品だけを撮って監督業を廃業した男のその1本というライナップ。映像作品に向き合い自身の美学を刻印してい った男たちの頼もしい作品の連続に、私は豊かで耽美な生命力を注入され、映画という複合的なもの、世界の複雑さ/繊細さを描く映画というものが観客に与えるエネルギーのうねりに、これまでの疲れを忘れ、2日間で10本も観賞したのにも関わらず、そして上記の作品には一本も完璧なハッピーエンドはないのにも関わらず、心を癒されたのです。

(苦い顔、というのは「二つの世界の男」を観終えた後にやはり第三の男は名作だったあれは甘くクールで映像が美しかったから良かったのだがこれにはクールしか無いと感じたとき、欲望の曖昧な対象を観終えた際にブニュエルにしてはあまりにも表現が直接的すぎる、それ以外の作品のように無意識を揺るがされたと感じるような瞬間が無いという感想 を得たときにした私の心的な表情のことです)

高揚した気分のまま私は、観終わったのが深夜でしたから、急いで中央郵便局に向かいました。DVDを借りた方法はネットを通しでですから、これを返却するためにはポストにDVDを投函しなければならないわけです。しかもこの日は返却期限の1日前なのでその辺に設置されているポストに投函しても期限までには間に合いそうにありません。しかし中央郵便局の深夜に開いている投函口を利用すれば期限までには間に合うだろうと考えての行動でした(通常のポストに投函したものは、その後地域の中央郵便局に集められますから、最初からそこを利用すれば配達の行程を1つ減らせるわけです)。

散歩も兼ねて徒歩で郵便局に向かったのですがその道中で「愛に も色々な種類があるけれど、共通していることは相手を忘れないということだよな。個人的な性愛から人類愛という大きなものまで愛というものの全てがそうだ」などと観賞した映画たちから与えられた考えをまとめていると、野良猫が6匹ほど纏まっているところに遭遇し、その次に川辺を歩いていると猫の耳を模倣したデザインがフードに施されたパーカー(いわゆる猫耳パーカー)を被った少女が土手に寝転がりながら電話しているところに遭遇し、さらに自転車に乗った20代とおほしき女性が小さいながらもハッキリとした発声で歌いその美声を深夜の空気に響かせながら私のそばを通ったので、すわもう季節は春なのか(ご存知のとおり、春の空気は人々の心を浮つかせ、猫を発情に導きます)と思い、春はまだ まだ先なんだよ子猫ちゃんたちという気分になってしまいました。そんな気分のまま郵便局に到着、帰宅しました。

さてこれらの映画のことを詳しく書きたいのはやまやまなのですが(ブニュエルの映画から学んだことは、シュルレアリスムひいては日本語でシュールと言われるものを表現するには役者の演技や絵が素人臭かったり貧乏臭くてはだめだということです。ブニュエルのそれには実力のある俳優が出演し製作資金もそれなりに使われていました。端的に言えばダリもマグリットも絵が凄く上手かった、カルティエブレッソンも写真を撮るのが上手かったということです)それとは別に私にはまえまえからその作品が持つ問題を批評したいと思っている映画がありました、それは「愛の嵐」というイタ リアで制作された映画です。

「愛の嵐」はリリアーナ・カヴァーニという女性が監督し、名優ダーク・ボガードを主人公に、シャーロット・ランプリングをヒロインに据えた1973年制作のイタリア映画です。主人公はナチスの元・将校であり第二次大戦中は強制収容所を支配していた男、ヒロインはユダヤ人の女性で戦中は強制収容所に捕らわれていた少女、男は少女を弄び、少女はそんな状況に適応していくという過去を前提として、戦後のナチス狩りを逃れてオーストリアのウィーンでホテルの夜間のポーター(荷物運び/案内係)という身分に扮していた主人公は、人妻となっていた少女と再開する、初めは微妙な距離を取っていた2人もやがては堕ちていくように関係を再開させる。というプロッ トをもつ本作は毀誉褒貶の評判があり、ナチスドイツの残酷さ、転じて戦争の悲惨さやそれが戦後も続いていくということはきちんと表現しており、しかし犯された女性がその男をやがては愛憎を一緒くたにしながらも求めてしまうというこの物語の重要な部分に対して、誘拐や立てこもり事件におけるストックホルム症候群、実際の監禁事件被害者の行動を引き合いに出し、女性が監督した作品であるというエクスキューズ/サゼッションをし、強制収容所時代のセックス自体はきちんと描かない(描かれているのは男が女の裸を写真で撮ることや、ある種のストリップです)ということ、つまり倒錯を描いていることを加味しても、やはりポルノ的な題材であるという印象を拭えないことからもそれも納得 できます。

しかし私はそこを問題にしません。この映画の問題は物語の必然性、ラストシーンの投げやりと言って良いほどの必然性の無さなのです。終戦後も戦争の影響は続いていくということと、ナチスドイツの描き方、性愛、性愛の倒錯、再燃と転落とその悲劇というものは、実際のオーストリアのナチス党員の多さ、戦後も続く右翼思想を背景として、そして仄暗い画面とダーク・ボガードシャーロット・ランプリングの美しさの力による説得力で破綻を感じさせません。

特に強制収容所時代のランプリングの格好、乳首丸出しの上半身の裸に黒いパンツとサスペンダー、肘まで伸びた革の手袋、頭にはナチスの軍帽という格好はある種のアイコンにもなっており、日本のアニメへの影響力もある ほどです。

(具体的には1995年からテレビで放送されたアニメ「爆裂ハンター」に登場するキャラクターが同じ格好をしています。などと書くとgris hommeをお読みの方の中には、うっ!と思われる方も居られるかもしれません。なにせ現在の日本はどこもかしこもアニメ、アニメ、アニメであり、アニメが現在のコンテンツの覇権を握っているとはいえ、それに対応しきれない方も多いと思われ、そんな方は上記したブニュエルやカサヴェテスやフレンチ・ノワールの映画の羅列にこの文章ひいては当ブログにはアニメの話題が登場しないと思われていたかもしれません。しかし私はアニメも見ますし、ヴィデオゲームを嗜む程度に楽しんでいます。とはいえ「凉宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん」以降のアニメブームには今イチ乗れず(端的にいうと、これを境にして多くの声優の名前が判らなくなりました)、そういえば現在大ヒット中の「君の名は。」も観てい ないという状況です(折角なのでこの題名の元ネタとなっているラジオドラマを原作とした岸啓子主演の映画のほうを観たいです)。しかし私はそれでもアニメもゲームも好きではあるという中途半端な現状でして、そういった嗜好ですので、以降もgris hommeに書く文章にはそれらのことが登場するとは思いますが、それでもお付き合い下さる方はアニメやゲームへの言及は、どうか知らない国の言語を話しているとでも思っていただきスルー、あるいは知らないながらもそれを楽しむという気分でお読みいただければと存じます)

敗戦国の終戦後の社会状況の悲惨さということは我国の戦後の赤線、浮浪児問題(日本において国会で始めて覚せい剤が問題として取り上げられたのは浮浪児に関連してのことでした)を上げずとも多くの人々が知っており、「愛の嵐」においてもナチスの残党が秘密結社を組みナチス狩りから逃れ、ある程度の高い地位に居る、そういった状況を許してしまっていることを描くことで、戦争は終われどその悲劇は続いていることを表現して います。しかしこれは社会における終戦後の状況の描き方であり、それとは別に戦争と終戦は(当り前ですが)個人の精神へも影響を及ぼします。

具体的には国家間/社会的には戦争が終わっても「愛の嵐」の主人公とヒロインの個人的な/精神的な戦争は終戦を迎えてはいないのです。この映画の原題は「Il Portiere di notte」です、日本語に訳すと「夜のポーター」です。主人公はそのとおり、秘密結社から他の(陽の当る)仕事を進められても土竜には陽の光は眩しいと言いそれを断ります。彼にとっては戦後という社会状況さえもが明るすぎるのです、作中の彼の行動や表情や台詞からは生き残ってしまったという感慨を感じます、もちろん生き残ることは悪いことではありませんが、この映画に登場する元ナチス将校の彼は戦争で自分は死んでいるべきだったと思っているわけです。一方のヒロインの個人的な戦争も終わってはいません、それは彼女が今においても彼に惹かれてしまうということによって描かれています。

彼女の存在が秘密結社にばれた主人公はその抹殺を命じられます。当時のことを知っている彼女を 生かしておけばそこから全てがばれて自分達も裁判にかけられると彼らは懸念しているのです。しかし男は女を殺せません。その結果として2人は彼らの命を付け狙うナチス残党の秘密結社に対する、自室での籠城戦を行うことになります。籠城という悲惨かつ廃退的で耽美な生活は直ぐに終わります、2人は部屋から脱出し、その逃亡の過程で銃殺されるのです。そしてその場で映画は終わります。

この展開にはストーリー的な必然性がありません。なにせ彼らには戦後を生き残るという気概がそもそも無いのですから。銃殺のシーンはウィーンの重厚な建築の橋の上で行われ絵的には悪く無い画面構成であり、やはり悲劇ではありますが、彼らには逃げる意味が無く、リリアーナ・カヴァーニ監督がなんと なくラストに絵になる悲劇的なシーンを持って来たかったからこの場面を撮ったのだという印象しか持つことができません。

もちろんストーリー的な必然性がないことは悪いことではありません。例えば我々が1度は観たことがあるはずの2時間もののサスペンスドラマでは意味もなく犯人や主人公が様々な場所に行きます、しかしこの手のサスペンスドラマには観光という側面があります、お茶の間に居ながらにして視聴者は色々な観光地(例えば日光の温泉街や函館の街並)を観ることができます、そもそも映画には「ローマの休日」からアフリカ大陸を舞台にしたモンド映画まで観光映画という側面を持ったものが沢山あります。これに対してストーリー性云々を語るのは些か野暮ったい言及の仕方です。ブニ ュエルの映画にはストーリー的な統合性が少ないものが多くあります、しかしそれは人々の無意識を映画として表現するためのものであり、ストーリーの破綻こそが彼の映画を魅力的にし、人間の無意識の曖昧さ、その正体不明さをより明確に画面に表します。

しかし「愛の嵐」は作中の大半がホテルや自室の室内ばかりで観光映画という側面はなく、また性愛を描いていながらもブニュエルがやるような破綻はありません、1組の男女の性愛、自室での籠城戦という内に内に籠っていたものが最後に逃走という仕方で外へ向かうことを選択をするという方向性の転換が心理的な破綻であるという捉え方もしっくりきません。なぜならばそれまでの作中で2人からは生き残りたいという希望を一瞬も感じず、外 へ逃げてもその心は相変わらず内側に向かっているからです。しかし例えば最後には女が男を殺すというものであったのならば(あるいは逆に男が女を殺すというものであったのならば)必然性を得ることにはなりますが(そうすればある種の男女間のパワーゲームを描いた物語にはなるわけです)しかしそれは耽美でも倒錯でもないただの凡作ですから、それは回避しているわけです

さて、ナチス、籠城戦、そして1組の男女、その最後、というものの列挙に皆様はなにを連想されるでしょうか。私はあの1組の夫婦のことしか連想出来ません。というよりも主人公とヒロインはあの夫婦を模倣しようとした(監督は模倣しようとしたはずです)としか思えません。私は、ならば、逃げるくらいならば あのとき2人は(籠城戦のなかで)死んでいれば良かったのに。としか思えないのです。そうすればこの映画は終戦後も続く個人の/精神の戦争がその心を内に内に追い込んでいきやがては破滅させるという必然性を保つことが出来たのです。そして逃亡の末の銃殺よりも遥かに悲劇的になります。もちろん念のために書きますが現実では生き残るほうが良いのは言うまでもないことです。しかし「愛の嵐」は1組の人間の性愛と終戦後も継続する個人の精神のなかでの戦争を主題にした映画なのです。映画とは社会状況を描くものですが、その一方でなんらかの代演/身代わりでもあります。それはときに希望や成功というものの代演でもあり、ときには破壊衝動や破滅や死への欲望の代演でもあります。映画は現実世界の誰 かの/なんらかの/観客の/その精神の底に眠るものの代演をすることで人々の心を深いところで癒すのです。

と長くなりましたので今回はここで筆を置きます。最後までお読み下さった皆様には感謝の気持を捧げます。次回は敬体と常体、2つの相棒のうちどちらを使おうかという楽しい悩みを抱きながら、次の記事までその技量を磨いていきます。それではまたお会いしましょう。