スウェットを着て外に出るということ/月(常体)と六ペンス


スウェットを着て外に出るということ

スウェットデビューをした。汗という意味の英単語をその名前に付けられた生地で作られる衣服は、その名前と生地の持つ特徴(伸縮性、防寒性、吸汗性)が示しているとおり秋/冬などの寒い時期にスポーツのゲームやトレーニングをする際、またはその前後にこれを着ることで体温を上げ身体を冷やさないようにするために着用されている。その歴史は労働者の作業着というところから始まり、軍用の衣類、そしてスポーツウェアという経緯を辿るが、多くのワークウェアが、多くのミニタリーウェアが、そして多くのスポーツウェアが、始めに目的どおりの用途に使用されると、次に若者が着るストリートウェアとして使用され(それはそれまでは下着として使用されていたTシャツを映画「欲望というの名の電車」で粗暴な夫や「乱暴者」でバイカーを演じた主演のマーロン・ブランドがトップスとして着こなしたことに影響を受けて多くの若者がこの服を着始めたように、映画「タクシードライバー」でベトナム戦争帰還兵役のロバード・デ・ニーロが着るM-65フィールドジャケットのクールさに惚れ惚れした若者がこのミニタリージャケットを普段着として着用したことと同じようなことだ。服の新しい使用の仕方(着方)をするのはいつも若者である)、そしてやがては年齢と性別を問わず着用されるカジュアルウェアとなるように、このスウェットという服も皆さんが知るように(お召しになっているように)誰もが着る服になった。

その過程で重要なのは現在はオールドスクール/オールドスクーラー(古典派)の名前で呼ばれる80年代のアメリカで隆盛を誇ったヒップホップ文化に所属していた人々のファッションだろう、アディダスのジャージと共にスウェットを着こなした彼らはこの服を、ただの衣服から、いわゆる"お洒落"な衣服へとその価値を高めた(もちろんそこにはヒップホップという文化にはラップと同程度(ブレイク)ダンスが重要な位置を占めているからだという理由もある。このダンスには身体の動きの邪魔をしない服が必要とされ、また人前で踊るのだからそれなりの(その文化なりの)見栄えも必要とされた)。その価値の進展は、スウェットが広義の意味ではジャージであることから(もちろん厳密にはジャージとはジャージー生地を使った衣服のことだが)かのシャネルの創業者/デザイナーであったココ・アヴァン・シャネルがジャージー生地を使った女性用のドレスを発明し女性の社会的地位を向上させたように、スウェット生地もやがてはパリで行われるプレタポルテオートクチュールコレクションで発表される衣服にも使用されるようになる。ここにきてスウェットが持つ機能性とお洒落としての価値は最大のものとなった。

と、私がスウェットの歴史を語り、皆さんがそれをお読みになったところで、皆さんはこのスウェット衣類、とくにそのジャケットやパーカーとパンツを同時に着用する、スウェット上下ということについて何を想像するのだろうか、単刀直入に言えばどんな人を想像するのだろうか?

これもまた単刀直入に言えば多くの方が想像するのが、小売店のドンキホーテと関連して語られるような、(もう既に一昔前の言葉だが、とはいえ現在でも現役の高校生も使うが)DQM/ドキュソといわれる、ある種の不良/チンピラが着ているユニフォームとしてのスウェットだろう。DQM/ドキュソの人々がこれを象徴的なユニフォームのようにして着ているのは、前記のヒップホップの影響もあるが、私は舎弟というものの存在を想像し、彼/彼女らへのその影響力も鑑みる。

舎弟である。上役について回る(上役から見た)下っ端のことだ。それは極道の場合も、不動産業などの場合もある。私はなにも極道の世界に詳しいと言いたいのではないし、実際にその役職などの実情もあまり理解はしていないが(特に不動産業などの方をみると判るのは)舎弟とは子分という身分でありながらもその他の子分とは違う、上役と公私を共にするある種の秘書やマネージャーのようなものだろう。私はそういった意味での舎弟の人々を何度か目にしたことがあるが、必ずではないにしても多くの場合で彼らが着ているのはジャージやスウェットであった。上役も(舎弟以外の)子分もスーツを身に纏っているが、上役に立ち位置が1番近くその他の子分よりも立ち場が上と思われる舎弟だけがそれを着ているという場面にも出会したことがある。これが事実であることは、Vシネマなどのアンダーグランドな映像作品から「アウトレイジ」などのメジャーな極道映画にまでその姿が描かれていることが証明している。そして現実と映画は相互作用し、舎弟のユニフォームとしてのジャージ/スウェットを形作って行く。

ヒップホップと舎弟という 2つの流れ、その固定されたイメージがDQM/ドキュソにジャージ/スウェットを着用させ、ひいては多くの人がジャージ/スウェットからDQM/ドキュソを想像することの源になっている。とはいえもちろん楽だから着るという理由もあるだろうが、そんな楽だから着るという精神的な構造が彼/彼女らにはあり、それを着て外に行けるという社会的な立ち位置なども彼/彼女らにはあるのだ。やはり広義の不良はジャージやスウェットを纏う。

都会と地方では、やはり地方のほうがスウェットの着用率が高い。もちろんお洒落としてのスウェットである。地方の特に農業や工業が盛んな場所に住む男で、トラッド/アイビーなどのクラシカルな服をお洒落着として持っている人間と私は合ったことが無い。女性がテレビやファッション雑誌の影響でいわゆるセレブの服装を目にし、そこからの流用でクラシカルな服を纏うことがあるのとは正反対である。しかし当ブログをお読みの方のなかにはそういった人もいるのかもしれない。なにせこれをお読みの皆さんは好事家である。好事家故の趣味の良さからそのような方もいらっしゃるだろうという推測だ。もしいらっしゃるのならば、それは服飾文化における喜びの1つであることは間違いないので、その趣味を保ち続けて欲しい/そしてその趣味の良さのまま変化して行って欲しい(もちろんスウェットが悪いと言っているわけではない、なにせ自分でもそれを着始めたという話をいましているのだから・笑)。
 
そんな状況の日本でスウェットのパーカーとパンツを同時 に纏うことは、私にはなかなかできないことだった。簡単にこれができるという方も居られるだろうし、私自身は自分のことをボンクラでありチンピラだと思っている、それにそういった人々のことも嫌いではない(変に五月蝿いだけのガキは嫌いだが)。しかし自分がそれを着ることを容認することは出来なかった。私の内側のなんらかのものが不許可を出し続けていたのだ。

しかし最近になって突然に許可がおりた。

前々から私は細身のスウェットのパンツは1本だけ所有していた。その上に(テーラード)ジャケットを纏ったり、裾をブーツに入れて着るのが好きだった。そうするとスウェットだがスウェットそのものには見えなくなるのだ、しかし格好が少しだけスポーティーになる。そのバランスが好きだった。

今年の(結果としてあまりにも短かった)秋に入り、私は簡単に羽織れて適度に防寒性もあるパーカーを物色していた。そしてとある衣類店で私の目はついにあるものを見つけてしまった。それは黒一色のパーカーで生地はスウェットで出来ていた。なんと偶然にも私が持っているスウェットパンツとセットアップのものだったのだ。偶然に見つけたものだがそのもの自体は驚くべきことではない、私が所有しているパンツはかのチャンピオン社が発売しているスタンダードなものだったのだから。黒一色で腰の付近に小さくチャンピオンのロゴが刺繍されている。そんなものだからパーカーとセットアップにして通年売られていても不思議ではない。しかし私は驚いた、パンツを購入した際にはセットアップで売られていることなど知らなかったからだ。それを発見した時点で私の心に火がついてしまったとも書くことが出来る。そして私はそのパーカーをハンガーから卸して袖を通した、生地は適度な厚さでサイズも細身で良い。野暮ったさが無い。そうとなればもう全てが決まったのも同然だった。これを購入した私は、その人生のなかで初めてスウェットの上下で外出する権利を得たのだ。これは物の所有の話ではない、その権利は私の心が私に対して発行したものだ。

そして帰宅し、クローゼットから例のパンツを引っ張りだす、やはりこれとパーカーはセットアップのものであった。もちろんすわさっそくとそれを着込んだ。購入した服を自宅で着て鏡の前で悦に至るという、いわゆるファッションショーと揶揄される、 しかし確実に服飾文化のなかでもっとも幸せな瞬間でもある行為があるが、まさかスウェットでそれを行うことになるとは思いもしなかった。ナルシシスティックに私はその姿に感動し、鏡の前で一回転などをしてみた(スウェット姿でだ・笑)。

権利は得たもののしかしスウェットのパンツとパーカーという格好で外出するのには、やはり少しの勇気が必要だった。しかしもうこうなればやぶれかぶれというか、ナルシシスティックに鏡の前で一回転してしまった勢いがあった。そして翌日、私はその姿で外出をした。その日は別段に人と合う予定などがなかったことが勢いに弾みをつけた。靴は細身のブーツにした。履いた靴がスニーカーではないのがこの格好としては不完全なところだが、これは映画の 「ロッキー」やそのサーガの最新作である「クリード」のイメージの転用、つまりスウェットと言えばボクサーなのだというイメージが私の心の奥底にあったのだろう。とそういうサジェッション/言い訳をしているわけだ。私はDQM/ドキュソではないぞという言い訳だ。それは自分に対する言い訳、だが。

スウェットの姿で外に出る。

どうにも落ち着かない。すれ違う人がそれまでの日々(私は多くの場合で秋にはテーラードジャケットやセーターを纏う、つまり私はそう言った点ではクラシカルな人間なのだ)とは違う目で私を見ているような気がする。これは完全な自意識過剰だが、服飾に少々の興味があるものとして、服装の種類によって、それを着る者の精神はもちろんだが、他人の対応が違うことを知っている。後者は可愛らしくもあり、しかし確実に慧眼というものを持たぬ人々の行為ではある、しかし馬鹿にはできない。端的にいえば多くの男が、恋人とのセックスの時に女が(ナース服でもセーラー服でもカクテルドレスでもなんでも良いが、兎に角セックス専用の)コスプレをすると喜ぶ。恋人をレストランに招待した女は、男が着慣れぬスーツを纏っている姿に欲情してレストランに行かずに男をホテルに連れ込む(これは私個人の実体験だが)。服飾のバリエーションはこの様に他人の精神を安易に変える。いうまでもなく欲情とは喜怒哀楽という豊でありしかし安い感情とは違い、人が自分自身では操作出来ぬ精神の代表的なところである。喜びや怒りや悲しみや楽しみのように、それを抑えたり、自発的に感じることは欲情の場合ではとても難しい。もし欲情が涙や怒りのように堪えることが出来るものであったり、ポジティブな精神を心がけるのと同難易度のし易さで出来るのならば、心的なインポテンツや不感症の患者はもっと少なくなる。服はそんな欲情さえも操作することができるのだ。

と書いたところで、やはりすれ違う人の目云々は多分に自意識過剰な者の言葉だろう。しかしスウェットの上下で街を歩くことはとても楽しい経験だった。やはりスウェットにボクサーのイメージをサジェッションをしても、私の心のなかにもDQM/ドキュソのコスプレという意識もあるようで、もう少し若ければ、うっかりとすこし悪いことをしたりいつもよりも粗暴になってしまっていたかもしれない。そういった自分の意識への傾聴も含めて楽しかった。



ジェーン・スーと田嶋陽子

今更になってジェーン・スー氏が書いたエセー集の「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」を読んだ。面白い。その内容は本の題名が示すとおり近年の日本の女性に対する女性(ジェーン・スー氏)からの言及であり、広く言えば女性論だ。これに載っている文章の多くが初めは氏のブログに書かれたものであるというから、ブログ本というジャンルにカテゴライズすることもできる。

この本は数多くある「女性ってやっぱり大変なんだなあ」と思わせる本であり、言い替えればその程度の本(性差であり、人間全体の話ではない)なのだが、やはり面白い。  書くまでもないことなのだがこれは、「男って大変なんだあ」と思わせる本はその程度の本(性差であり、人間全体の話ではない)であり、そのなかにも面白いものはある、と言っているのと同じことである。語ること/書くこととしての性差/性は重要でシリアスな物件であり、より慎重にそして公に議論されるべきものではあるが、それはやはり人類全体(に及ぶ程度)の話ではない(ましてや人類の半分や少数の話でもない)ということを忘れてはならない。

女性の大変さを女性が訴えると、ある程度以上の年代の人々の頭を過るのはやはり運動家/教授の田嶋陽子氏の顔であり、彼女は視聴者が幼少の頃に師事した小学校の五月蝿い女教師そのままにテレビに登場し(これは悪い言葉であり、昭和的な言葉でもあるが)キャンキャンとその論を騒ぎ立てた。 これは明らかにテレビ局が意図した女性の社会的地位向上を唱える運動家のイメージへのキャスティングであり、彼女が出演した番組の力によりフェミニズム→五月蝿い女教師→きゃんきゃん騒ぐというイメージを固定化させてしまった。それ以降女性の大変さを女性が訴えることと田嶋氏のイメージは重なって来たが、ジェーン氏はそれを破っている。

ジェーン氏は巧みな文章力とさまざまな例え話、平静な文章、自虐(本のタイトルの"貴様"とは自分自身のことであり、優秀な文章に必要な自己言及でもある)までを含めたユーモアによって(つまりそれは知的な文章ということだが)女性が女性の大変さを語ることの非・田嶋化に成功している。どうしても女性自身が女性の大変さを語る文章はヒステリックになりやすく(本人なのだからヒステリックになりやすいのは当り前でありもちろん悪いことではないのだが、それが読み物になった時にはそれこそがこの行為に必ず含まれる構造的な弱点になる)、それに付いて回る憂鬱/陰鬱さや情念が出やすく、それを読む人々からは文章と同じようなヒステリックな同意か、正論に対して感じる居心地の悪さしか引き出せない場合が多いが、ジェーン氏はその知性でそれらを回避/緩和している。

さらにこの本を論にしなかったことも面白さの要因の1つだ。この本は論ではなく"〜問題"(この問題とは問題行動とか問題の人物という意味での問題ではなく、問題提起やミレニアム懸賞問題の様に解かれるのを待ちながら存在し、そしていつかは解かれるものという意味だが)なのだ。もちろんその成功は、この本がもともとは女性に向けて書かれたものであるということが一番大きな要因だが、その一方で男性も読者の射程には入れているという戦略こそが、この本を「女性ってやっぱり大変なんだなあ」と思わせる本でありながらも読ませる/面白いものにしている。 その戦略を可能にしたのは氏が持つ文章力と知性の力である。




悪貨は良貨を駆逐する。

とこのエセーを書いていたら第45代目の合衆国大統領を決める2016年の大統領選が終わった。勝ったのは皆さんご存知のとおりドナルド・トランプヒラリー・クリントンは泣き、中国とロシアは喜び、日本は混乱と言ったところだが今回の選挙が証明したのはかの警句「悪貨は良貨を駆逐する」は本当であるということだ。

この言葉はトーマス・グレシャムという16世紀に生きた英国の財政顧問の言葉であり、彼の名を採ってグレシャムの法則と……というのは経済の教科書にも載っていることだが、この警句に対して人々は重要な点を見逃している。この警句の内容を大雑把に書くと、本物の金貨と金貨に見える銅貨(偽金)があり、両方とも市場で同じ物として使えるのならば、人々は本物の金貨を自宅にしまい、偽物の金貨を市場で使うだろう。なぜならば市場の価値としては本物も偽物も同価値だが、実質な価値は金を使っている本物の金貨のほうが高いからだ。そして実質価値の低い偽金のほうを市場で使用するだろう。というものだ。
 
この話は贋貨/悪人が貨幣/善人を駆逐することだけを表しているのではない。確かに社会に蔓延るのは悪貨だが、人々は良貨を手元に残しておくのだ。ここがこの警句においては重要である。このことはつまり実際に価値のあるものは人々が個人所有し、秘し、一方の社会では人々は(物としてはもちろん、精神的にも)使い易い物のほうを使用するということを表しているのだ。社会においては実際に価値あるものよりも、使い易い物のほうが頻度もその場面もより多く使用されるのである。これもまた経済の教科書に書いてあることなので私が書くことではないが、経済の基本は交換である。それはつまり物々交換の時代を終わらせた、貨幣そのもの、貨幣が持つ万能の交換券/権そのもののことである。人々は社会において質の悪いものこそを交換する。良いものは自分自身のためだけに保管する。それがひいては「悪貨は良貨を駆逐する」ことになる。

今回の大統領選も同じことだ。バーニー・サンダースクリントンに破れ、クリントンはトランプに破れた。良貨は使用されずに個人がその内に大事に隠し持ち、社会では使い易い悪貨が使用される。だからトランプ第45代目合衆国大統領、悪貨ならばそれに恥じぬように実質の価値は低くても、せめて市場価値だけは本物と同じでいるんだな。



と書いたところで文章が長くなってしまったので今回はここで筆を置く。本当は私が最近自分に付けた芸名/ペンネーム/ハンドルネームのこと、そこからそもそもの芸名のもつ価値や、一個人におけるオタクと非オタクの分裂/演じ分けのことを書きたかった。それは次回以降のエセーで書くことにする。そのタイトルは「虎山元紀っておい!その名前なんだよ!おい!」「分裂してんだよ」/重力(敬体or常体)と恩寵、だ。その記事では敬体と常体のどちらを使うかを迷いながらも次に筆を取るまでにその技を磨いておく。それでは短い秋を吹き飛ばす本格的な冬が急来してきた日本列島に住まう方々は風邪などにならぬようにお気を付けて、それ以外の国に住まう方々も健康にはどうかお気をつけて。

 

 

 

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