「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!おい!」「分裂してんだよ」/重力(敬体)と恩寵



親愛なる読者の皆様、「シンゴジラ」も「君の名は。」も「逃げ恥 」も無いブログにようこそおいで下さいました、再びお目に掛かれ光栄です(念のために書きますが、それらのことを悪く言っているわけではありません。それらしかない文章は悪いと思いますが・笑)。日記や批評を掲載するgris hommeに先立ち、私は小説を掲載するブログcalmant doux pour la dépression.(旧名:インヴィジブル・ポエム・クラブ)を運営していますが、前々からこんなネットの片隅の片隅で掲載する小説をどなたが読んでいるのだろうと思いながら、しかし回転しているカウンターを見て確実に読者がいることを感じ(そしてたまに女友達などからお酒の席で感想をいただき)、いまこの文章をお読みの皆様も含めて(ほとんどの場合で)名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々に奉仕するつもりで小説を、批評を、書いて来ました。

ここに来て実感しているのですが、どうやら私の文章は感想を言い難いもののようです。文章のクオリティーや面白さと感想(の数)は別のものであることは私が書くまでも無いことですが、素晴らしい小説を書いた作者に感想が沢山届くというの は言わずもなが分かりやすい話ですが、その一方でインターネット上では多くの人々が駄作や拙いものを作る人間を潰すのが大好きだということも忘れてはならない事実です。ネット社会は素晴らしいものを褒めそれを伝搬するのは得意ですし、それにともなって大物に媚びへつらうもの得意です、が弱いものを育てるという機能はほとんどもっていません(ネット社会ではそれは良心として表れます、良心を発揮/施すことは賞賛すべき良き行いであっても機能ではないのです。良心と少年野球からプロ野球そしてメジャーへ……という構造や、サッカーJリーグのJ1、J2、J3……という構造を比較すると分かりやすく、後者にはその構造(野球界、サッカー界)に育てるという機能が組み込まれていますが、前者 にはそれがないのです。スポーツとメディア/インフラを一緒に語るなという言葉もあるかもしれませんが、両者共に社会ではあるのです。もちろん両方に一長一短があり、システムとは盤石なものですから、そうそうに崩れることはなく、また循環的なものです。循環がスムーズでありその度合は多いほどそのシステムは強固と言えるでしょう。例えば資本主義というシステムはそもそも物(貨幣と物の)交換に基盤を置いているわけですから、まさに循環そのものであり、とても強固なシステムです。これは交換頻度の少ない共産主義の失敗や、不景気の原因が人々が持つ貨幣が少なくなることではなく貨幣を使わなくなることにあることを考えればより明白になります。野球界は少年野球からプロ野球へのレー ルがシステムとしてあり、プロ野球選手が少年たちに憧れをあたえ、または彼らが引退後、少年野球チームを含む様々なチームの指導者になるというレールをその構造に含んでいます。つまり低から高へ、そして高から低へという循環があるのです。これがシステムです。しかし一方でシステムとは冷たいものでもありますから、資本主義下ではそれらはショー化/エンターテインメント化し悲喜劇を呼び資本/金銭というプレッシャーの下にドロップアウトしたはぐれ者やアウトサイダーを生み出します、共産主義社会主義下では国への奉仕という名目がその肩にのしかかります(例えばかの国では音楽家はみなコンテストに掛けられ、その実力は国家への奉仕であり、その度合により見返りとして社会的な地位と 待遇が決まります)。そこにあるのはエリート主義/成果主義の一見すると熱くもその中心はとても冷たいシステムです。一方のネット社会は教育/成長のシステムを持っていませんが、良心はあります。良心とは各々(良心を送るほうと受け取るほう)の性質により決まり、故に多くの場合で発揮されず、それどころか成長さえ拒むことがありますが、一度良心は発揮されれば大規模なブームや、質の良い作品を生むことがあります(前者はPPAP、後者はクラウドファンディングに代表される趣味の世界です。両方共に、非エリート主義であり、ドロップアウトした者や、アウトサイダーが活躍する世界です)。そういった弱いものに届く酷評や侮辱も感想といえば感想ではあります。

しかし私には毀誉褒貶含む感想がほとんど届きません(まったくないわけではありませんが)、もうこうなると私の作品全般に、感想を言い難いという特徴があるとしか判断出来ません。可能性として、皆さんからは私がそよ風が吹けば吹き飛ばされる藁の家の如くか弱く見えていて、その弱さは酷評が大好きな人々さえもがたじろぎ気を使ってしまうほどだ、だから感想を届けないのだという説も提示することができますが、当人の実感としてしっくりこず、また可能性としても前者のほうが遥かに高いでしょう(万が一、もし後者であるのならば、私はいま以上に皆さんの優しさに感謝し、そしてあえて厳しさを発揮する人にもいままで以上の感謝を捧げます)。

私はなにも感想を寄越せと言っているのではありません(いただけるのならば、よろこんで頂戴いたしますが・笑)、私が言いたいのはそういった私の性質故に、上記した”名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々”の名も顔も知らぬ度合が上がってしまっている、しかし感謝を捧げたいということなのです。ありがとうございます、この文章をお読みの皆様も含めて(ほとんどの場合で)名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々に感謝をこめてアレー(フレー)をお送りいたします。



というわけで、今回のエセーの本題に入ります。虎山元紀というのは私が半年ほど前から名乗っている芸名/ペンネームです。私には本名があり、ネット上での名乗りであるハンドルネームもあります。音楽の演奏と小説や批評を書くことにアインデンティティーを置いている私は、演 奏家として実際(リアル)の現場のステージに上がった時から本名を使い、活動する場所がウェブ上のログである小説/批評のほうにはハンルドネームを使用していました。後者は"とらさん"という名前です。これはそもそも、私がインターネットに手を出した数年後(電話回線を使ったネットへの接続が終わりに差し掛かろうとしていた時期です)のある日の深夜に入室したチャットルームで名乗った名前でした。当時のハンドルネームというものは現代よりも遥かに偽名の意味合いが強く(フェイスブックが日本に上陸していないその時代、本名で活動する人は有名人/芸能人(タレント、俳優、音楽家、芸人)かちょっと気の違った人のどちらかでした。前者の人々の名乗りが芸名というすでに本名ではない名 前であることが多くの場合であることも忘れてはならないことです)愛称ですらも無い、特殊なコードのようなものでした。私は前述したようヴィデオゲームを嗜みます、そこで名乗る名前(プレイヤーネーム/キャラクターへの命名)は決まったものでした、それをハンドルネームとして使用しようかとも思ったのですが、前述したように偽名という意味合いが強いハンドルネームという特殊なコードには相応しくないと判断し、とらさんを名乗り入室したのです。

正確には"虎さん"という文字だったと記憶しています。そもそもこれは"寅さん"であり、日本映画界屈指の人気/長期シリーズである、東京は葛飾柴又生まれの博徒の流れ者の主人公が登場する山田洋次監督、渥美清主演の映画「男はつらいよ」 から取ったものでした。渥美清が演じるこのセリーの主人公の名前は車寅次郎、作中、彼は人々から寅さんという愛称で呼ばます。そう彼こそが"とらさん"なのです。この映画が、私がこの名前を名乗ることになる当日の夜にテレビで放映していたのです。と、あまりにも昔話が過ぎるというか、若い皆様は付いて行けない話ではありますが(昭和という年号の時代を2年しか生きていない私にとってもこれはマージナリーな話ではあります)あと少しだけお付き合いください。私と同年代+αの皆様は当時の空気を思い出しながらお読みいただければ幸いです。

映画の登場人物の名前ほど偽名に相応しいものはありません。なにせ当時のインターネット社会というのは今よりも遥かにサブカルチャーの度合が強 いものでしたから、この名前には亡国者やDV被害者の妻子が名乗るような真面目な偽名性がなく、また実写映画は役者が演じ、そもそも多くの役者が芸名(渥美清は芸名であり、氏の本名は田所康雄です)を使っているということからも、映画の登場人物の名前は偽名の者が名乗る偽名という2重の偽名性が〜というややこしさ(笑)もちょうど良く、当時の私そして当時のネット社会の気分に適合したものだったのです。しかしただそれを名乗っては芸が無いと寅の字を虎に変えて(これも単純な話ですが・笑)"虎さん"として入室し、すでに入室していた皆さんの一笑と共に私はそのコミュニティに迎えられたのです(この方々とはのちに実際にお会いし、現在では食事やアルコールなどを一緒に楽しむ大切な友人 になりました)。このハンドルネームはのちに耳障りならぬ目障りが良いという私の判断の下で虎の字をひらがなの"とら"にして"とらさん"にしました。そしてこの名前でmixiに登録し、のちにツイッターに登録し……とネット上に敷かれたレールの上に乗っかるようにして現在に至るわけです。

自分で"さん"という敬称を名乗ることには若干の後悔と大きな恥ずかしさがありますが、これが”様”などではなくと良かったと安心しています。名前の効力というのは太古における呪術的な意味合いや中国の字と諱などを説明せずとも、万人が知っていることです。車寅次郎という博徒の瘋癲の、家族思いで人情家で涙もろく親しみやすい人間の愛称をハンドルネームに使用していなかったのならば、私はいまよりも (いまでも自分のことをボンクラのチンピラと認識していますが、それよりも)もっと遥かに悪い人間になっていたことでしょう。"とらさん"という名前の響きが持つ意味合いにそしてその魔力的な力に私は多くの場面で救われて来ました。このハンドルネームを知っている友人知人からは、とら、を初めとして、とらくん、とらちゃんとも呼ばれますが、その度に、この名前を選んだのはファインプレーであったと思っているわけです。それは渥美清の、彼が演じた寅さんの、そのイメージが持つ、守護者的な力の賜物でしょう。

さて、ここで私はまず第1の分裂を迎えるわけです。本名とハンドルネームの分裂です。私はと書きましたが、当時のネット上でハンドルネームを名乗っていた人間の多くがこの分 裂を迎えたわけですが、そこにはスパイ映画/小説の登場人物にでもなったような面白みもありました。いうまでもなくスパイは偽名を名乗りますし(ジェームズ・ボンドは別として・笑)、そこにも喜劇と苦悩があります。この喜劇と苦悩は私の場合、本名でもネット上で活動し始めたことで倍増していきました。先程私は自分のアイデンティティーを音楽と小説/批評に置いていると書きました。次はその音楽の話です。

本名でWEB活動を始めたのは当時師事していたジャズの先生に勧められたからでした。当時の私はジャズギタリストでしたから、その活動を宣伝するウェブログを解説したのです。芸事には芸名というものがありますが、偽名という色合いの強いハンドルネームとは違い、それはドレスア ップのようなものです(実生活とは異なる自分を創作するという点は共通していますが、芸名を持つことはそれ(芸名)を演じるという意味合いが強く、芸事と神事の関わり、シャーマンや巫女、司祭や神職/僧侶の改名など持ち出して、本名とは異なる名前を使うことは舞台の上/聴衆の目前で動作つまり儀式/儀式めいたものをすること→演じることや演奏するために必要な行為だと語ることが可能でしょう。そして私はいま"実生活とは異なる”という言葉を使いましたが、その通り当時のネット社会は現在よりも遥かに現実(リアル)と分離していた→故にハンドルネームは偽名、だったのです)。具体的にはアイドルが歌う場所には、アイドルに似合う服装が相応しいのと同じように、蒲池法子という名前よ り松田聖子のほうが相応しく(いうまでもなく、後者は前者の芸名であり、前者はその本名です)、戦後のダンスホールを飾るジャズバンド/シンガーとしては三根徳一よりディック・ミネのほうが相応しいのです。当時のダンスホール/キャバレーには現在のクラブやフェスのように成文律/不文律のドレスコードがありました。板(ステージのことです)の上に立つ演者には名前にもそれが適用されます、それをドレスコードと言わずなにと言うのでしょうか(もちろん、常にどの時代/シーンにも(以前の私のように)本名で活動する方は居られ、本名と芸名は対立しているのかどうか、本名を芸名として使用することの日常生活への影響力はあるのかどうかなどは、名前が持つ力を語る上では外せないことで はありますが、今回のエセーは名前の分裂を主題にしているので、混乱を(そして冗長になることを)避けるためにオミットします)。

しかし私は本名で活動をしました。端的に言うと当時はそっちのほうが格好よいと思っていたのです(笑)。しかしそのことで分裂が起こります。現実の生活を本名で送り、仮想現実を偽名(ハンドルネーム)で過すだけならば良かったのです。それは当時としては常識/マナーともいうべき真っ当で普遍的なことでした。しかしネット上にでも本名で活動し始めたことで問題が起こります。"ネット上"で活動した時点でそこで本名を名乗っていても、演じるという行為が発生してしまうのです。これはフェイスブックなどの本名の使用を推奨するSNSの現状を見れば誰にでも理 解できることです。そして当時の私に待ち受けていたのは現実(本名)ネット(偽名)ネット(本名)という3重の生活でした。先程私はスパイの例えを出しましたがこれでは3重スパイ、そして演じるという点では1人3役です。3重スパイのスパイ小説、1人の役者が3役を演じる映画を想像して頂ければ分かりやすいのですが、それらは相当に練られたプロット/ストーリーテリング、そして役者の演技力が無ければ、読者を/観客を混乱させるだけのものになってしまいます。名前も、それを演じるもの同じで、つまり端的に言うと、とっ散らかってしまったわけです。1人の人間がとっちらかる。それこそが分裂というものです。

名前におけるストーリーテリング力も演技力もない私は常々、これは 良く無い事態だと思っていましたが、それを統合することができませんでした、3つの名前によって分裂させた実生活を/ネット社会を生きて来たのです。しかしそういうものはあるときふと解決するものです(以前のエセーに書いた、自分がスウェットを着用して外出する許可をあるときふと自分の心が自分に対して出したのと同じように、です)。

その答えの前に"分裂"というものについてもう少しだけ言及しなければいけません。分裂とは1つのものが2つ以上のものに別れること、とは字義のとおりですが、現実には我々人間は分裂すれど1つの肉体に納まっている故に完璧には分裂しきれません、ジキルとハイドのようにある種の(創作上の)多重人格者でさえ、それは1つの肉体の範疇に納まってい ます。とここまで語っているように私が話している分裂とは精神の、人の状態の分裂のことを指しています。心が引き裂かれたとき肉体も分裂するならば我々は多くのことに悩まずには済むでしょう。とはいえそれは思考実験を含むSF小説の世界であり、その物語の最後を想像すると肝が冷えるような気分になります。故にこう言い直すべきでしょう。我々は心が引き裂かれても、肉体のおかげで個体/個人を保てている、と。もちろんここで語る分裂とは、精神疾患に及ぶようなものではなく、誰の身にも現在進行形で起っている程度のもののことです。

再三の繰り返しになりますが私は、ジャズメンと小説家/批評家にアイデンティティーを(その実力や実績はまた別として)置いています。そういったもの が人々の心に呼び起すイメージ、特に前者のジャズが連想させるものであるBarやファッション(スーツ)、アートと私は関連して(友人たちからも)捉えられることが多く、もちろん私は私に、とくに本名で活動している私(現実/ネット上)にそういったイメージを意図的にコミットさせてきましたし、実際にそれらを愛し、僭越ながらもそのように発言/発信して来ました。しかし一方で私はオタクでもあります。オタクの意味は今ではアニメ愛好家程度のものになり、その中には昔ながらのくさい人(もちろんそれは悪いわけではありません)から洗練された美しい人も居るという事実を多くの人が認識しながらも、しかしある種の差別の対象であるという状況ですが、私はその意味/定義を精神科医斎藤環 さんが仰ったアニメーションのキャラクターで自慰行為を出来る人、つまりその程度はアニメやマンガに精神的な壁が無い人としています。私はオタクであると上記したとおり、私はアニメーションで漫画で絵でマスターベーションをすることが出来ますし、オタク界(キャラクターで自慰行為が出来る人々)のあいだには平面の絵(アニメ、漫画)では自慰が出来るが3D(CGなど)では出来ない人がおりますが(私の知人にハードコアなオタク(と書くと皆さんがどのような人を想像されるのか。氏のことを誤解させないように書きますが、彼はインターネットを嗜む方ならば誰でも知っているほどに有名な会社に勤めている有能で、人当たりの良い人、つまり病的な変態などではない表面上はとても普通の人であ ります)がおり、氏はハードコアなもの(いわゆるパソコンでプレイするエロゲなど)でオナニーができるが、3Dだけはダメだと仰っていました)私はそれも余裕で出来ます(しかし絵柄によってはまったくもえ(萌え/燃え)ません。知人と私のこの癖(へき)をオタクの一般的なものと拡大すれば、2Dと3Dはアニメーション作品制作上の方法論はべつとしても、観る側としては対立している概念と語ることもできるでしょう。最近"超リアルなCG"としてSayaという女子高生のキャラクターが話題を呼びましたが、私はあれには全然もえませんでした。2Dも3Dもその範疇に収め、私は現実の女性ともセックス出来ますが、あのキャラクターには(可愛い/美しいという感想や、性欲を滾らせるようなことがなく)ま ったく興味が涌きませんでした)。故に私はオタクを自認しています。

それが私の分裂なのです。もちろんジャズメンの、特に日本人のジャズメンのなかにはオタクも多くいますし、ジャズミュージシャンがアニメ音楽の現場に関わり、またジャズミュージシャンはアニメ音楽に限定せずポップスやディスコミュージック、ロックや童謡や民謡さえジャズ風にアレンジしCDなどにして来ましたが、後者は生業のためはもちろんそれをすることのできる技術を持っている故の行為であることは言うまでもありません。では前者はどうしているのかということに関しては、私の観察によれば、という非常に限定された範囲での言及になりますが、それは多くの人が予想しているように、適度に隠しているというのが実 情です。しかし私自身のことに関してはそれでは納得出来ないのです。実際のところ、アニメ好きのジャズメンと私のアニメ好き度合を比較すると、私のほうが勝ってしまうということがあるのかもしれません(とはいえ、テレビで放映されるアニメ番組を録画してまで観ることはありませんし、アニメのDVDやフィギュアやキャラクターを演じる声優のライブなどには手を出していない程度のオタクではあるのですが)。それは想像の範疇を出ませんが、その真偽はまた別としても、適度に隠すことに私は納得出来ません、というか隠してもいづれはドロドロのマグマのように噴出すると思っているわけです。そしてそれでは面白く無いとも思っているわけです。

と、ここで種明かしのようなものなのですが、 私のハンドルネーム”とらさん”が産まれたチャットルームはあるテレビゲームの同好者の人々が集まるものだったのです、そして私も含む彼らはそのゲームへも参加するようになります。つまり”とらさん”はそのはじめからオタクであり、その後はゲームキャラクターとしての振る舞いもすることになるのです。

そしてジャズメンとしての本名、オタクとしての偽名がネット上の活動でさえ私を分裂させます。ジャズメンとしての私は”とらさん”を出せませんし、”とらさん”は本名を出せません。具体的に言うとそれをするとそれぞれの場に居る人々が引いてしまうわけです(笑)。それで良い、使い分ければ良いのだ、と思っていた時期もありました。これに対して演じ分けという言葉を使い、それ はつまり名前に関わらず誰もしていることなのだ、例えばネット上であっても人々はフェイスブックの私とツイッターの私を使い分けることがある、そして現の社会でも家庭と会社、友人の前と恋人の前でそれぞれの私を演じ分ける。と語ることも可能ですが、ただの演技と、偽名や芸名を纏っての演技ではやはりその度合が違います、というよりも演技は演技だが、別名を纏うことは別人になること(ここで再び、役者の例えを出すことも可能です。異なる自分を演じるのではなく、別人を演じるのです)であり、それらは違うものであると言ったほうが適切でしょう。故に本名を芸名にしている人々は芸名を使う者よりも人々にそして自分に誠実であると言うこともできます。

話を戻します。大半の時を分 裂に苦しめられて生きて来た私は、それをこのたび解消したのです。方法は、ハンドルネームと本名の連結/合成というしごく単純な方法です(苦笑)。別れていたものを繋ぐには連結させてしまえばいいのです、そこには一新した名前などは必要ありません。

虎山元紀という名前がその答えです。

私は"とらさん"の字を虎山や寅山と書く場合もあり、とこれでは無限に偽名の偽名の説明がつづくことになってしまうので、その詳しい説明は省きますがとにかく偽名の中でもっとも姓/苗字らしく見えるものを選択したわけです。一方の元紀というのは私の生まれながらの本名の名であります。この2つを繋ぎ合わせ虎山元紀としたのです。

読みは"とらさん もとき"です。これでは姓/苗字がなく名 が2つ連続しているようですが(正に2つの名が連結しているわけですが)、私は人々から"とらさん"や"とら"と呼ばれることに親しみ、また気にもいっており、本名の名に対しても同じですので仕方が無いことなのです。虎山と書いて"こざん"と読ませる、まるで茶人や俳人のような名前では私の心が納得しません(言うまでもなく、茶人や俳人が悪いと言っているわけではありません、念のため)。いささか不格好な名前ではありますが、それは連結/合成されたものの宿命というか、キマイラ的な存在の魅力でもあるので、そういったものの利害得失を享受します。
 
ここで私は大きな間違いに気が付きました。今回のエセーのタイトルは「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!お い!」「分裂してんだよ」/重力(敬体)と恩寵、ですが正式には「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!おい!」「分裂していたんだよ」/重力(敬体)と恩寵、と過去形にしなくてはなりませんでした。名前による分裂は過去のことなのですから。
 
と、また私の文筆上の悪癖である、手を広げ過ぎる/長文になり過ぎることを発揮して、文章が長くなってしまったので今回はここで文を閉じます。要約ではありますが、物書きは成長すると悪い部分もまた成長させる。例えば下手な文章を書く小説家が成長すると、より面白い下手な文章を書くようになる。と言ったのは村上春樹氏です。私のこの悪癖により、皆さんが(幾ばくかの)面白さを感じていただけたのならば幸いです。 次のエセーには日記、そして最近観賞した映画「鑑定士と顔のない依頼人」の批評を掲載します。それまでにその力/技術を磨いていきます。それではまた「シンゴジラ」も「君の名は。」も「逃げ恥 」も無いブログでお会いしましょう、御贔屓にしてくださる皆様のご健康を祈りながら、筆をおきます。