正月。一流の詐欺師の手腕+散布する悪魔/夜戦(敬体)と永遠

もっとしろ/してはいけない、本質/罠
親愛なる好事家の皆さま、あけましておめでとうございます。2017年最初に書くこのエセーを新年のご挨拶として皆さまにお送りいたします。というのはもはや時期外れ、元旦は過ぎ去り三ヶ日も遥かな過去、七草粥も鏡開きの雑煮も食べ終え、気がついたら1月を超え、2月の旧正月、世界各国のチャイナタウンで超大量の爆竹が消費され、いまは3月、立春啓蟄、節気という古人の知恵、雅やかな歌に詠まれたものによれば季節はいまや春であります。

本来はこの新年に相応しいエセーを、1月中にお送りするつもりでした。しかし繰り返しになりますが季節は春であります。それなのに2017年に入ってからというもの私はエセーを1つも書いていません、それもこれも偏に私の筆無精がいたす所存であります。などとは申しません。なぜかというとその理由は私が自称ジャズメンとしてテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからに他ならないからです(ジャズの演奏で金を得た経験も、教えたことで金を得た経験がある私が「自称」を自称するのにも理由があります。ジャズメンはやはり毎晩のようにステージの上で演奏しなくてはなりません。それはいわゆるセッションであっても良いし、生業つまり仕事でも路上でも良いのですが、演奏の腕前や作品の良し悪しは別として、それこそがジャズメンであることの最低限のラインでありましょう。これは実際に集計や調査したものではありせんが、プロアマ問わず平均的なロックバンドやクラシック奏者などの1年間の演奏回数と比較して平均的なジャズメンの演奏回数はそれらを上回っていることでしょう。それに及んでいない私はそれが故に自称を自称するのです。それでも私がジャズメンを自称しているのは、毎日テナーサキソフォンを練習しているからです。偉大なるジャズテナーサキソフォニストたち、ジョン・コルトレーンは毎日教会(キリスト教の黒人系の教会です)に籠って練習をしていた、ソニー・ロリズンは活動中に失踪しハドソン川に掛かる巨大な橋の上で毎日練習をしていた(のちに発見されて雑誌にスクープとして掲載されました)、オーネット・コールマンはデパートでのエレベーター操作員のバイトの途中で意図的にそれを停止させてその中でサキソフォンの練習をしていた(もちろんすぐにクビになりました)とジャズメンは毎晩ステージに立つのと同様に毎日(アメリカでさえその場所に困難しながらも)練習をしているのです。それをする私にとってもこの事実は妄言ギリギリの矜持を私に与えています)。

練習というのは特殊な事柄です。練習や努力や成長に関連する言説で散見するのは、練習は手段であり目的になってはいけない、練習の量を誇ってはいけない、成果こそが重要であるのだから努力したのなんだのと言ってはならない、というものですがこれだけでは練習という行為への言及としては画竜点睛を欠く、というか半分も解説していないというか、至極恐悦ですが言葉を荒くして言えばそんなことは馬鹿にでも分かる、であります。

伽藍、修道院、片眉を剃り落して山ごもり、象牙の塔、と練習に関連する言葉(これらの言葉は修業や研究に関連するものですが、それらは物事を極めんとする行為であり、練習と意味が近いかあるいはその精神の熱量的に練習の上位に位置する行為です)はなにかと一カ所に籠る、それも世俗を絶って籠るという印象がついて回ります。もちろんそれは事実でもあるわけですが、それは人は世俗を絶ってどこかに籠らなければ練習が出来ないからだ、だからその場所が必要なのだ、と言うのではこれもやはり画竜点睛を欠く言説であります。しかしこの言説も1つの事実ではあります、世俗を絶ち籠る場所がなくては練習出来ない怠け者にとっては、という意味ではありますが(そして自身がそんな怠け者であることを知っていてそれに対処する者にとってもこれは事実であります。ですがこの後者を賢人と言います。怠け者はただの怠け者ですが(トートロジー)自分がそれであると知る者は賢人です)。

画竜点睛を欠くという言葉を2回繰り返して来ましたが、ではその目玉はどこにあるのか?といえばそれは、人は本気で練習をし続けるとそれ以外のことがどうでも良くなってしまう、という事実にあります。伽藍も修道院も山ごもりも修業する場所として人が建設した建物(行為)ですが、その始まりは本気で練習をしていた人(たち)が生活を営んでいた場所であり、そこがのちに修業をする専門的な場になっていったのです(なんでもない場所が後に聖地化した、とも言えます)。のです、などと言いつつここには正確な根拠はありません、諸宗教の始まりの根源が各宗派ごとの聖典がありつつも実はぼやけているの同様に、その一番初めの場所に関する正確な記述はありません。ですが私にはそうとしか想像出来ません、本気で練習に打ち込んだことがある者の実感としてそれが真実なのだと確信しているわけです。とはいえ諸宗教の聖地の多くが、ただの木の下や川や山であるという事実を鑑みればこれが只の妄想ではないことも一目瞭然です。篭って練習する施設というものは後人が作り出したものです。

ともかく、人は本気で練習をし続けるとそれ以外のことがどうでも良くなってしまう。その結果としてどこかに籠り気味になりやがては世俗も絶ってしまう。籠り世俗を絶つから修業するのではないです。もちろんこれにも註釈として、本気で練習に励む者ならば、という言葉がつきますが。これこそが(練習や修業についての言説に)あまり書かれることがない龍の目玉であります。それ以外のことがどうでも良くなってしまう、のそれ以外とは練習に費やした時間や量そしてなにが手段でなにが目的なのかということも含まれます。つまり練習という行為には、練習をすればするほど練習だけをしたくなるというスパイラルが始めから含まれているのです。上記したように、量を誇ってはならない、手段が目的になってはいけない、という言説はよくあるのですがそこには、練習という行為はそれをすればするほどにそれだけをしたくなるという性質がある、という指摘も必要なのです。これが練習という行為の本質でもあり、練習という行為が持つ罠でもあります。本質が罠であり、罠こそが本質である。本質故にこれは回避出来ませんが、コントロールならばできるかもしれません(できる、と断定しないのは私がいまその真っただ中にいるからです)。それには相当なクレバーさが必要になってきます。ちなみに、なぜそれ以外のことがどうでも良くなってしまうのか?という疑問に関しては複数の回答があります、それは端的に成長が楽しいとか精神の先端化などですが、それらはたったの一言で表すことが出来ますし、正確でそれこそがもっとも真っ当で実直な答えです。人は練習をすることでオブセッション(憑依/取り憑かれる)されていくのです。オブセッションという英語は時には固定観念や強迫観念と和訳されます。

本質/罠→もっとしろ(したい)/(罠だから)してはいけない、という二律背反の命令めいたものを、練習という行為は常に人に投げかけています。

なぜ罠なのか?ということは書くまでもなく、それ以外のことがどうでも良くなってしまう(本質)からであり、世俗と切り離されて行く(これも本質)からなのですが、その結果として産まれるのはストイックの化け物、それがスポーツ選手ならばオーバーワークを繰り返す悪循環であり、芸ごとならば(世俗と切り離されているのだから)流行も社会状況も知らない、技術はあるがセンスは無い(アウトサイダーアーティストと言ってもやぶさかではない)アーティストです。たまにピアノのお化け(化身)のようなピアニストや、漫画のお化け(化身)のような漫画家が出現しますがああいう人々のことです’(もちろん彼/彼女らの作品が(人々を圧倒しながらも/時として圧迫しながらも)輝かしい(むしろ眩し過ぎる)ものになることはあるので、一概にそれが悪いことではないのは明白です)。例えばこれは寓話として、美しくスーツを纏うためのボディメイクとして筋力トレーニングをして肥大を目指したのに、気が付いたら美しくスーツを着ることが可能な体型を超えて筋肉のお化け(化身)のようになりスーツを着れなくなってしまった、というものを想像すればより分かりやすくなります。いわゆる筋トレというのも練習や修業の一環であり、当初目指していた体型を超えた筋肉量を追い求めてしまいやすいものであります。端的に言うとそれは鍛えても鍛えてもまだ自分の身体が小さく見える(完璧には見えない)からなのですが、私は毎日のテナーサキソフォンの練習のほかに日々筋トレをする者でもありまして、故にこのことを寓話ではなく実感として知っているわけです(いまは冷静さを保つことで、筋肉量を追い求めることには歯止めが利いていますが)。

ではこの本質と罠を生むものはなにか?といえば練習そのものです(本質なのだからそのものであるのは当り前ですが)、具体的に言うならば練習を人が行う際にその根本にあるものです。それは自分は練習をすれば上手くなる(はず)成長する(はず)という欲望です。もしこれ以上自分は上達しないのだという諦めがあるならば人は練習をしません。とはいえそれをする人もいます。能力が劣れていくことを知りながらそれを遅らせようとする者たちです。この者たちも自分が怠け者であることを知る賢人たちと同様の賢人であり、それ以外のことがどうでも良くなってしまう、ということから距離を置いています。しかし賢人といえでも、そこに成長の欲望がないのか?といえばそれは疑問です(疑問に止めておいているのは、私はこの段階を1度も経験していないからです)。こういった賢人はいわゆるベテラン、老境に居ると言ってもよい方々ですが、老人さえ成長を求めることを私はサキソフォンの演奏をお爺さま/お婆さま方にお教えするという仕事を通して知っています。

自分は練習をすれば上手くなる(はず)成長する(はず)というのは言い替えれば万能感です。万能感とは若者が持つ武器にしてこれも罠ですが、これを生むのは若者が未だになに者ではないという真実、これからどのようにも成長する可能性がある(だろう)という事実に根源があることは、かつて若者であった者ならばどなたでも体感として知っていることです。練習する者にもそこまでの万能感があるなどとは言いませんが、練習はそれをすれば上手くなる(はず)成長する(はず)から行うものであり、僅かな成長の可能性に賭けていると場合でさえも、そこには若者が持つ万能感と同じ、いま現在の自分(の能力/技術)とは違う未来の自分がある(だろう)ことへの欲動があります。この欲動を持った者は、これを根本的な動機として練習という行為をします。

私は先程、人は練習をすることでオブセッション(憑依/取り憑かれる)、と書きましたが、なにに取り憑かれるのか?といえばこれであります。人は未来の自分に賭けるから練習をするのであり、また練習をしていれば(そのうち)来るであろうと思う自分にオブセッションされるのです。この欲動が練習の本質であり、罠でもあるわけです。では罠に掛かった者に待ち受けているものはなんなのでしょうか?

それらは大雑把に言えば、(それ以外のことがどうでも良くなってしまう)練習するごとに世に疎くなり、(それ以外のことがどうでも良くなってしまうのだから)センスも無くなって行くということであります。これは私を含む、過去なんらかの形で誰かに楽器演奏の師事をしたり、練習に打ち込む同僚を観たことのある多くの演奏者ならば実感として知っていることです。技術は余るほどあるのになにもかもダサイという人々を我々は見聞きし、自分がそれになっていないか?という問いを常に自身にし、時にはそれになってしまうこともあるということを経験しているのです(これは私が(自称)ジャズメン/批評家/小説家として自分のアイデンティティーをそれらに置いているからこのように語っているまでで、きっと多種多様な趣味や仕事のなかで散見されるものだろうと想像します)。それは始めからセンスがないからそうなるのだろう、といえばそれまでですが、その通りであり、その言葉こそがセンスというものが重要であるということの証左でもあります。

故に著名な演奏者がその名を冠する各種楽器の入門書や教科書で、そして音楽大学や専門学校の講義やワークショップでの実際の発言として、練習のみをしてはいけない、休日を作りなさい、そして本を読み映画を観て絵を観賞して料理を作り散歩をし遊び恋をしなさいと書き言って来たのです。さらには暴言ギリギリのしかしある種の真実でもある、楽器を上手くなりたければ楽器を弾くな、という言葉まで産み出しました。これらの言葉はしたり顔で、練習が目的になってはいけない、などと言うよりも前もって練習という行為が持つ、もっとしろ/してはいけない、という二律背反の本質/罠を鑑みた遥かに蘊蓄のある言葉であります。

彼/彼女らは、技術とセンスという大地の上に張られた綱の上をどちらにも落ちずに現在も渡り続ける軽業師であります(もちろんこれは私が(自称)ジャズメン/批評家/小説家として……以下省略しますがしかし、軽業師という言葉の意味を辞書で引けばお判りの通り、やはり彼/彼女らこそがその綱を渡り続ける代表的な職業人であることに違いありません)。

この綱を渡り続けるためには、不安定な足場や吹き付ける風にも揺らぐことのない/揺らいでも落ちることのない冷静さと知性が必要になります、いわばクレバー、それが練習という行為に対当する際に必要なわけです。繰り返しになりますが練習という行為は我々に常に本質/罠→もっとしろ/してはいけない、という二律背反の命令をしてくるのです。実のところその無理難題に挑むことこそが、もっとしろ/してはいけない、というものを超えた練習の本当の本質であり、練習によって真に鍛えれているのは自身のクレバーさなのかもしれません。

例えば、成長をすることが動機となり人は練習を行うが、一方で練習することでいま現在の自分(の能力/技術)とは違う未来の自分(の能力/技術)がある(だろう)ことにオブセッションされる、と私は書きましたが、もしその万能感じみたものを失い、しかしそれでも行動をするとき人は練習とは違う(諦観の果てにある)ゲームじみたものを始めるでしょう(つまりこれはいま以上増えないし交換も出来ない手持ちのカードで勝負をするカードゲームのようなものです。これはレヴィ=ストロースが唱えたブリコラージュの……と書けば言い過ぎですが、つまり人は有り合わせのものでなにかを作ろうとするときにこそ知恵を働かせるものであり、それは未だに来ない未来の完成した自分を求める練習への没頭さとは違う、ある種、醒めてさえいる知恵を働かせているのですから、まさにクレバーです)。それに賢人ならば自身が持つ万能感を認めつつも練習をし、一方で(諦観の果てにある)そのゲームじみたものの中で行動をするでしょう(断定しないのは私がいまだに賢人ではなく……)。これは綱渡りをする者を別の言葉で言い替えたものでもありますし、そのような人にはクレバーという言葉を捧げるのが最適です。

練習という行為は悪い行いである、と捉える方はいらっしゃらないとは思いますが念のために書きますが練習は必要です。チャーリー・パーカー(通称バード)というアルトサキソフォン奏者、という範疇を超えジャズミュージシャン、またその範囲すら超えミュージシャンとして、それすらも超えてアーティストとして天才、神、アイドル(偶像/崇拝)という言葉を使うことに遜色のない人物がいましたが、彼でさえ多くの練習をしていました。それは生業としての夜中/明け方までの仕事(ビッグバンドでの下っ端としての演奏)を終えて、雪が降る中であっても2、3時間寝たあとでニューヨークの川に面する公園に演奏の練習をしに行く(なんせここならば騒音の苦情も来ませんから)というものでした。このように天才でさえ練習は必要なのです。しかしパーカーでさえこのように練習をすることで(未来の自分に/成長に)取り憑かれていたわけです。練習の本質は罠である、と私は何度も書いてきました(パーカーに関しては練習のし過ぎが遠巻きの原因になって若死にした、という論もあるほどです)。

とここまでお読みの好事家の皆さまならば既にお判りのとおり、これは皆さまに対する、テナーサキソフォンの演奏の練習のみに打ち込みがちな私の、girshomme に新しいエセーをなかなか掲載しないことの、長い言い訳でありました(笑)。では、そろそろエセーの本題に入りましょう。girshomme は私の日常や批評を掲載するために運営しているウェブログであります。

 

ある夜(大晦日)のできごと
元旦に寺院を詣る初詣という伝統的な慣行を私は毎年(少なくともこの10年は欠かさず)行っていますし、日本に数多くある慣習の中でも私がかなり好んでいる行事でもあります。そもそも私は宗教施設のなかでも神社仏閣とキリスト教カトリックの建築や雰囲気が好きであり、神社仏閣にはなにも理由がなくとも散歩などで通りがかった際に参拝し神社では「祓い給い清め給え……」と唱えているのですが(散歩道に上記の施設が全てあります、モスクもありますし、創価学会幸福の科学の施設も、あまりメジャーではない宗教の施設さえ散歩道にあります)しかし自身のことを信者と言うのは正式な信者の方に失礼であります、と言う程度の信心の持ち主であります。されど神はいると信じております、それは名も無き姿も無きなんらかの存在として、ですが。愚かでボンクラな私ですが、その程度には傲慢ではなく無知蒙昧でもなく世界や人に対する畏怖も愛も抱いていると自認しています。

正月の神社仏閣は神職の方の稼ぎ時、と書けば神はお怒りになるでしょうか?とはいえそこは神道の神や七福神ならば大いにお喜びになりそうですが、ともかくこの時期が1年でもっとも多くの参拝客が訪れ、普段は神職の方が駐在していない神社仏閣にもこの日のために人の手により清掃が入りその清らかさ増し、と賑やかに明るくなったところに参拝に行くのも楽しく、私にも例年参拝する近所の神社があります。除夜の鐘がなる夜道を歩き、一礼して鳥居を潜るところから始まり参拝をし、この日のために雇われた巫女さんにお神酒をいただき、おみくじを引きその神託に心を引き締め、有志の方が作った甘酒までいただき、しばらくして鳥居を抜けまた一礼し初詣を終えるのです。

しかし、これだげが私の初詣の楽しみではありません。この日に私が詣るのは一社だけではないのです。賑やかなのも良いが静謐なのも良いのが神社仏閣参りの楽しみであり、また宗教施設の役割でもあります。多くの宗教では祭りと休息、興奮と鎮静(ハレとケ、フェスティバルと断食、色欲と禁欲などなど)という対称的のものを取り入れており、諸宗教の寺院もその両極に使用しても違和感のないようにデザインされているということはいまさら私が書くまでもないことではありますが、故に賑やかな神社仏閣も良く、人気のない静かな神社仏閣も良いものです。賑やかな神社に参り、そのあと夜空に輝くオリオン座などを眺めながら、正月、という日本人の日常生活の巨大な空白地帯を徒然と歩くように、古びた寺社を回ることを含めて、それが私の正月の、初詣の楽しみであります。

例年ならば賑わう神社を出たあとは、猫の1匹にでも出会えば良いほうで、冬空の下で暮らす彼らに新年の挨拶をしては無視されたり膝に顔をなすりつけられたりしているわけですが、今年は違ったのです。まずその道中、酔っぱらいの2人組に会い、片方が地面に向かって歩き出そうとしていて(路上にうつ伏せに寝て額を道に擦りつけ地面のなかに行進するように手足を降っているのです)もう片方が心配しているという場面に遭遇したので彼らに声をかけて会話をし、寺社についたらいつもならば人っ子一人居ないはずなのに今年は甘酒を振舞うためのテントが建っている、それも詣でた寺社3軒全てに、という事態で、あの清らかで静謐な時間はどこへやらでありました。

しかし古びた神社は古びた神社です(トートロジー)参拝客は私しかいません。テントを立てて甘酒を鍋で温めているのはもう企業人としては引退されて、こうした地域の催しを維持し開くことに精を出されているお父様方でして、そんな人々が私のことを(親切心から)逃がすわけもなく、こういう人々は神の眷属のようなものですから、私もそのご好意に甘えて(最初に詣でた神社のものも合わせると)合計4杯の甘酒を飲み腹がたぷたぷになり、さらに行く先々でお父様方と立話をするという元旦でした。

おかしかったのは、皆さんが私を真っ当で堅気の人間と思っていることで(上記の通り私はサキソフォンの練習に精を出すボンクラです)それはきっと私が着ていた服と靴が全うなものであったことと、髪型が黒髪のオールバックだったことがあってでしょうが、私がしていることは仕事帰りの参拝であり、自宅では子供は寝ていること(この2つはお父様方が出した私への設定です)、最近の景気や嫌な上司のことなどすべてを即興で話し、互いの新年の幸福を願ってその場をあとにしたことです、これを3軒の神社仏閣全てで行ったのです。

例年は人気の一切ない寺社でなぜ今年に限り甘酒が振舞われていたのかその理由は分かりません、不景気のときは神を大切にするということなのか、各地域が連携してそういう気運を高めたのか、それ以外の理由なのか私にはわかりませんが、きっとすべては神のご意志だろうと思い(自分で分らないことや、知りたくないことなどは古人に倣いすべて神や季節のせいにしてしまえばよいのです。もちろんこれは宗教やオカルトめいた話ではありません、ですから知りたいことや戦いたいことなどは人や物質に原因を求めれば良いのです、ですがこの世のすべてのことを知ろうとしては脳の記憶容量が無限にあるなどの特異体質の人でもない限り精神がパンクしてしまいます。またいまは知らないことでも時が来て真実を知ることもあるでしょうし、その日まではどうでも良いことはどうでも良いままで、名も無き神にでも預けておけば良いのです)例年の習慣を終えたのでした。

 

最上級の詐欺師は誰か?それは監督である/鑑定士と顔のない依頼人
ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』を観賞しました。トルナトーレ監督といえば『ニュー・シネマ・パラダイス』や『海の上のピアニスト』を撮った巨匠であり……などと書きつつも私はそれらを観たことがありません(正確に書くならば『海の上のピアニスト』は5分間だけ観ました)し、本作が同監督の作品であることも知りませんでした。『鑑定士と顔のない依頼人』という題名とポスターなどのビジュアルイメージは知っており興味を惹かれて観賞し、作中の画が素晴らしいので観賞後に調べたら『ニュー・シネマ・パラダイス』の監督だと知ったわけです。

なので同監督のフィルモグラフィを鑑みることをしない同作品のみを言及対象にする評ですが、この映画は観終えたあとで面白い面白くないと感じるより以前に凄い(恐ろしい)映画だったと私に判断させる作品でした。なにが凄かったのかといえば、映画終了時の主人公の心境と、映画を観終えた鑑賞者の感想が一致していることであり、それが間違いなく監督の手腕によるものであることです。しかしその手腕は詐欺師の手腕であります。優れた奇術師や催眠術師のようにトルナトーレ監督は鑑賞者の心を操ったのです。

この映画は、日本での配給に際して良くある謳い文句であり"衝撃の結末"を掲げているとおり、物語の終盤でそれまでの展開がひっくり返される/真実が噴出します。どんでん返し、という歌舞伎の手法を語源とするこの物語は終えかたはそれ自体に賛否両論はあるものの、これを取入れた各作品の制作者たちの力により、玉石混合の結果を生み出してきました。それらの質を語ることは本批評の外にあることなので触れませんが、どんでん返しが似合う作品や、この手法を取入れることが適切である作品が存在することや、必然がある作品とはどうのようなものなのだろうか、ということに関しては語らなくてはなりません。なぜならば、それこそが本作品の要になっているからです。

例えばそれまでの物語はすべて(睡眠中の)夢だったとする夢落ちという手法がありますが、これもどんでん返しのうちの1つではあります。この夢落ちという手法はどんでん返しのなかでも特殊なものです、その特殊性とはこれを行うことでそれまで展開したきた物語が夢であると断定することです。なにを当り前のことを言っているのだ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、夢オチを行わなくては、物語や映像やその細部がどんなに夢のようなものであってもそれが夢であると断定することができないのです。夢は眠りから覚醒するからのちにそれが夢であったと分るものであり、(これは『マトリックス』のような話ですが)もし夢の中でこれが夢であると気がついても夢から延々と醒めることがないのならば主観的にはそこに現実との違いはありません。夢オチとは、それが夢であったと断定する最高裁判所の裁判長の判決のようなものであります。夢を描くのには夢オチが必要です、その点では夢落ちというどんでん返しには、必然性があります(もう一度書きますが、私はその質をここでは語りません。その手法が適切/必然かどうかということのみを語っています)。

またこれは映画、特に劇場で観賞する映画には顕著ですが、夢という非現実的な世界が終わること(あるは物語のなかで描かれる夢とは劇中劇であるとも言うことができ、故に夢が終わることは劇中劇の終わりと言い替えることもできます)と物語という架空の/空想の話が終わること、そして夢から醒めて朝日のなかで目を開けることと劇場で映画を観賞し終わり周囲に光が灯ることの親和性、夢が終わることと物語が終わることと劇場の暗闇が明るくなって行くことには相当の親和があり、この点でも、夢オチはどんでん返しのなかでも相当に必然/適切がある手法であると言えるのです。

それに対して、衝撃の事実が明かされるタイプのどんでん返しは必然性が弱くなります。例えば実は主人公こそば化け物だった『地球最後の男』や実はここは地球だったで同じみの『猿の惑星』のことなのです。これらのどんでん返しにはどんでん返しを楽しむという意味しかありません、それはネコ騙しでありショックな体験ではありますが、それだけです。それだけでも楽しければ良いじゃないか、という意見もあることは予想できますし、私もこれらの大オチを楽しみました。しかしただそれだけで、どんでん返しを物語に取入れることに必然や適切さはありません。

夢落ちという手法はそれがどんなに陳腐でつまらない作品に使われていたとしても必然があります。何度も書きますが夢は覚めなくては夢ではないのです。一方で主人公が化け物でなくても、舞台が実は地球ではなかっとしても彼らはそれまでと同じ行動(吸血鬼や猿と戦うこと)をします。なので前者(夢落ち)にはそれをやる必然がありますが、後者はただの状況説明にもならない状況の追加にしか過ぎません。これが滑ると観客はそれを本当にただの取ってつけた(驚きもしない)驚かしだと判断します。面白さも必然もないどうしようもないものになってしまうのです。対して夢落ちにはどんでん返しのを使う必然があります、必然とは、それよりほかになりようがないこと、ですから、夢を描く物語におけるどんでん返し(=夢落ち)とは構造の一部であるといっても良いでしょう。故に夢オチを取入れる物語には構造があり、面白くなかったとしても構造だけはキチンと残るのです。上記した状況説明型のどんでん返しは面白くなければなにも残りません、なぜならばそれらの物語ではどんでん返しが決して必要(必然)ではなく、構造の一部ではないからです。いわば構造という建築の、夢オチのそれは柱の1本ですが、状況説明型のそれは恣意的に屋根に乗せた金のしゃちほこなのです。もちろんそれで家のデザインが良くなることあるわけですが……。


では、どんでん返しという手法を物語に取入れることに必然性があり尚かつその面白さも味わえる1番のジャンルはなにか? といえばそれは詐欺を主題にした作品に他なりません。ここでいう詐欺ものとは犯罪的なもの……つまり金銭をだまし取る正しい意味での詐欺から、潜入調査やスパイなどの国家や政治に置ける重要な情報を盗み出す物語、詐欺と同じ犯罪であり尚かつ騙し騙される者の悲喜劇が描かれる泥棒ものの作品をも包括してます。有名な作品で古くはかの名作『スティング』から90年代の『ユージュアル・サスペクツ』近年では『アメリカンハッスル』と詐欺を主題にした物語でどんでん返しの結末を取入れたものは多数あります(それ以外にも、そこまで有名な作品でなくとも『コンフェデンス』『インサイドマン』『レイヤーケーキ』『スナッチ』『ソードフィッシュ』などなど枚挙に暇がなく、またそのうちのかなりの数が『スティング』のオマージュになっており、泥棒もの、というくくりの作品にはこちらも皆さんご存知の『オーシャンズ11』シリーズがあります)。

ここには夢オチよりも状況説明のどんでん返しよりも必然/適切があり遥かに強固な構造があります。というのは騙し騙される者たちの攻防である詐欺を主題にした映画を観に行くとき、観客はそこに娯楽として、観ていて楽しく興奮できるものとしてプロの詐欺師の仕事を求めます(と言い切るのに難しく。なぜ難しいかといえば詐欺ものには失敗を楽しむコメディも上手く行かないことの悲劇もあるからなのですが。ですが、騙し合いの攻防を描く正当な詐欺ものの映画ならば)、詐欺におけるプロの仕事とは騙していることを誰にも気がつかせずに目的のもの(金銭や情報)を得ることです。ということは最上級の詐欺なるものがあるとした、物語におけるそれは観客にも真実を気がつかせないものだというわけです。そしてその観客も気がついていない真実が物語に明るみに出た時に、どんでん返しとなるのです。詐欺ものが持つこの構造はさまざまな物語の構造のなかでももっとも優雅である、としか言いようがありません。

ということで、ついに本作に触れるわけですが、大っぴらに書いてしまいますがジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』は詐欺ものであり、尚かつ(これをお読みの皆さんは、映画の評を読んでいるのにネタバレが書いてあることを怒るような、愚鈍な方はおられないでしょうが)ネタバレを書くと騙されるのは主人公であります。

イタリアに暮らす老境にある、ベテランの美術品鑑定士は依頼人の女性に恋をするも、彼女は詐欺チームの一員であり、この老人はその人生のなかで長年かけて収集してきた大量の絵画コレクションを物語の最後ですべて盗まれる(ということで詐欺というよりも泥棒チームと言ったほうが正しく、端的に言えばこれは『ルパン三世』の不二子ちゃんに騙された男の話のようなものです)という物語の今作は、そこに行き着くまでの描写や絵が、派手でもなく、バッチバチに決まっているというわけでもなく、されとて過不足なく品があるという、まさに名匠の余裕綽々の仕事っぷり、と言っても過言ではない気品が画面を通して伝わってくるもので、それは大変心地よく(この作品はクライマックスの直前までは、見識も資産もある壮年の男と、屋敷に引きこもっている若い女性のラブストーリーなのです)軽やかな重厚さ(と書くと矛盾がありますが、こう表現するのが適切です。というのもこの映画は鑑定士の主人公と、屋敷を飾っていた調度品や家具や芸術作などの美術品を売り払おうとする女性の話だけあって、ヨーロッパの重厚な建物や美術品が終止画面に登場するわけですが、さりとてそれらを必要に重厚なものとして描くことが無く、つまりそれらにフェティシズムにも似た愛着がなく、古く、美しくいものだがそれ以上には描かないというバランスがこの映画にはあるのです(これはつまり、老人の主人公の描き方でもあります、なにせ演じているがジェフリー・ラッシュですし、彼が実年齢以上の老境を装って登場しますから、老人フェチならばヨダレを垂らしても良いところですが、監督は彼を古く美しくいものだがそれ以上ではないものとして描いています。同監督の理性が働いておりその理性が映像となり画面に表れているのです))が終止あります。

しかし、この大家の仕事は、映画のものであると同時に最上級の詐欺師の仕事でもあります。というのも本作を観た多くの人がこの映画のラストを勘違いしさらには(ほろ苦い)ハッピーエンドとさえ書いているからです。

絵画コレクションを盗まれたことに気がついた老人はその場で悲しみに暮れ、ここで映画は時間をスキップし、次には精神衰弱し、病院や保養所のようなところに入院/入所し、言葉も話さず、人に話しかけられても反応せず車椅子に座っている彼にフォーカスします、そして彼は絵画コレクションの盗難発覚後から入院までの経緯を振り返るわけです。これが本作のどんでん返し、詐欺が発覚した瞬間の衝撃、なわけですが、その後は主人公が療法を受けるまにまに彼が海外旅行をしている映像が挿入されるシーンが続きます。この旅行は(じつは泥棒だった)彼女と愛し合っている(と老人が思い込んでいた)ときに彼女が話していた想い出の地、チェコプラハであり、老人はそこに出向き想い出の喫茶店で彼女を待ち続ける。という場面で本作は終わります。このラストを多くの人が騙されど愛した女を待ち続ける(いうまでもなく彼は老人ですから、健康な若者よりも寿命は短く、故に死ぬまで女を待ち続けるのでしょう)ほろ苦いハッピーエンドと評しました。

たしかにこれならばハッピーエンドに間違いありません。愛を経験したことのない者には分からない話ですが、愛は人に雄弁さをよりも沈黙を与えます、赤子の時分であるイエス・キリストを胸に抱く聖母マリアの微笑み……などを例に出さずとも愛は言葉の使用を必要としない感情の状態を人に与えます。正確には愛に満たされている者には愛は雄弁さをよりも沈黙を与えると言ったほうがでしょう(興奮や欲情は多弁を人に与えます。フランスの精神科医/哲学者ラカンの弁を例に出すわけではないですが、欲情とは自分自身にそれがないから、それを追い求める行為です。乳を飲む赤子は満足しており、そのまま母の腕の中で寝てしまうほどですが。無理矢理乳房から話された赤子は泣き喚きます。また子供は物をねだる際にだだをこねます。満たされた愛の沈黙、追い求める欲情の多弁というわけです)。

この老人は騙されども彼女をいまだに愛しており、その愛の確実さ(この確実とは私のなかに(彼女への)愛がある、だからもはやすべてはもうよい、というものです)を抱いて、きっともう2度と合うことのない彼女を待ち続け生きていきます。これこそ愛が人に与える沈黙を表現した、淡い灰色の(老人の白髪塗れの髪の毛の色のような)エンディングであります。

しかしそうではないのです。というのもこの海外旅行、そして彼女を待ち続ける老人という場面への接続が一切描かれていないのです。この巨匠はそれまでの物語を、その各場面を、丁重に理論的に描いています、起承転結や時間の流れや画面に映る小物の象徴的な意味が誰にでも分るように、です。ですが絵画の盗難が発覚したあとで1度時間は飛び、衰弱した老人に療法が行われる傍らでそれまでのことを振り返る(フラッシュバックする)場面が続く、ということは既に書いてきました。そしてそのまにまに海外を旅行する老人の姿が描かれる、とも書いてきました。そして喫茶店で彼女を待つ老人の姿を映して終わる、とも書きました。

そう、文字にすればなんと容易いことでしょうか、それこそ当り前すぎて私がいまなにを言っているか分からない方もおられるでしょうが、老人は衰弱から回復すらしておらず、故にこの海外旅行は、そして喫茶店で彼女を待ち続ける彼の姿はすべて精神が衰弱した老人の妄想なのです。文字にすれば容易いのです、この映画では老人が回復していく姿などは1度も描かれていないわけです。老人は現実世界では身体を動かさず、声も出しませんが、妄想の世界では歩き回り健康だったときのように聡明な言葉を口にします。彼は妄想の世界に生きています。

ですが本作を観た多くの人々は、前述した勘違いをしました。老人は回復して彼女の想い出の地に向かいそこで彼女を待ち続けて映画が終わるという物語を観たのです。なぜでしょうか?これは観客による物語の創造/想像にして、それこそが本作の監督トルナトーレの名匠の技です。ですがそれは詐欺師としての名匠の一流の技です。

さきほど私は、最上級の詐欺とはそれが行われたことさえも気がつかせないものであり、物語においてはそれが明るみに出た時にどんでん返しとなる、と書きました。そうそれは正にどんでん返し、スリリングな真実の発覚であり、ジェットコースターのレーンの最後に設置された急降下の楽しみでもあります。騙されていたことに気がついた者は騙され続けている者ではなくそこから抜け出した者になります。その後には逃走なり落胆なりを行うわけですが、言葉の反復になってしまいますが、騙されていたことに気がつくことは騙されている状態から抜け出したことであります。たとえその偽装に関連する多くの出来事が悲惨であったとしてもこの者はもはや騙されていはいない者なのです。フランスの精神科医/哲学者のジャック・ラカンは自らが行った講義(いわゆるセミネールですが)の題名を「騙されない者はさまよう」と名付けました。これの裏を書くと「騙される者はさまよわない」です。真実に気がつくことは自分を放浪という不安定な立ち場におきますが、されどその者は騙されない者です。どんでん返しもそういったものであり、屋上から突き落とされるような衝撃を受けるわけですが(特に騙されていた者自身にとっては)、再三の繰り返しになりますがその者はもはや騙されている者ではありません。そこには騙されていた、という状態からの開放/開放感があります(場合によっては悲痛を伴う開放感ですが)。この開放感こそがどんでん返しに重要な部分であることは私が書くまでもないないことですが、どんでん返しで終わる映画には(登場人物にとっては)嘘からの開放→(観客にとっては)物語からの開放、という構造的な開放感があり、真実を知ったという知的な興奮さえあるのです。これは爽やかとさえ言っても良い(それが悲痛なものでも、です)どんでん返しというオチが持つ、物語の浄化作用です。

いま私は浄化作用という言葉を書きました。そうなのです、それは浄化作用なのです。どんでん返しがないまま、騙されていることに気がつかずに終わる映画を想像していただければ直ぐに分かることですが、そこには開放感や爽やかさが皆無であります。たとえそれが恋にまつわる騙し騙されであり、嘘を信じて恋の幻想の中で生き続けるという官能的な幻想的なものであって、いや官能的で幻想的であるからこそそこには開放も爽快もありません。それは騙されたままでその(精神的な)場所に生き続けることに他なりません。動きがないのです。まさにラカンの「騙されない者はさまよう」でありその裏の「騙される者はさまよわない」というわけです。些か乱暴な例えではありますが、それは放浪の厳しい生活と風通しの良さ、定住の安定と息苦しさ、という放浪と安定(その昔はスキゾとパラノという言葉もありあしたが、この言葉に近いもの)の一得一失です。

宗教、という言葉はいまでは簡単に使える言葉になってしまいました。プロスポーツのチームのファンや、特定のアニメのキャラクターを愛する人のことを指して(イロニーやジョークや宗教のパロディも含めて)宗教と言ってしまう現状ですが(例えばそれは巨人教や文月教などのことです)、宗教とは教義と戒律があり、組織として構成されたものです。それは教祖や(伝説や神話)と信者を含めた総体のことであり、個人に還元すればそれは信心になるわけです。宗教やその教義は嘘である、などとは決して言いませんが、何かを信じているという点でそれは、騙されない者はさまよう/騙される者はさまよわない、であります。信者というものは本質的にはさまよいません。故にこの騙されている人間のことを悪く言うことなどはできません。なぜならば無宗教の人などはいくらでもいるけれど、無信心な人は極めて少ないだろうから、という推測があるからでありそこから更に、無信心とは人生における究極の放浪生活であり、それに耐えられる者も極めて少ないだろうか、という推測が可能だからです。人は嘘を含めてなにかにすがりついていなければ生きていけません。そのことでどこかに定住しているわけです(そうではない、私はなにも信じていない。と言うのならば「私はなにも信じていない」と口にしてみてそこに気まずさがないか確認してみれば良いのです)。それを失うことである、詐欺もの映画における真実の暴露/騙されていたことの発覚であるどんでん返しは、やはり放浪の生活に駆り出される厳しさと風通しの良さを与える1つの浄化作用であります。肝心なことはそれは我々の実人生に起ることではなく、映画や小説などの物語として疑似体験しているということです。繰り返しますが人は信心を持ち生きており、それは信心の対象と自分自身とが(擬似的であっても)癒着してることでもあります(’癒着していないのならばそんなものは信心とはとても呼べません)。癒着は主観も客観もなくしてしまいます、端的言えば神の言葉は私の言葉であり私の言葉は神の言葉である、と言いえてしまうほどに対象とくっついてしまうものでもあり冷静さが欠けた風通しが悪いものです。故にどんでん返しの疑似体験は我々の人生に対して(密閉された部屋の窓を開けて空気を入れ替えるような)浄化として作用するものであるというわけです。もし私の信じているものがすべて嘘だったらどうしよう?というのは偉大な哲学者たち(デカルトニーチェサルトルレヴィナスなど)が行った根源的な問いでもあります。

詐欺の被害者はときとして自分は騙されていない、と言い張ります。私たちはメディアなどで解説/紹介されることで詐欺被害者(やカルトの信者)が自分は騙されていない/自分は被害者ではないと思い込もうとする、または証言さえするということを知っています。本作『鑑定士と顔のない依頼人』のラストを見間違えた人々はまさにこれなのです。現実逃避ですが、では現実逃避とはなんなのでしょうか? それはもちろん現実とは違う物語を作り上げることに他なりません。それは信心が形を変えて現れたものでもあります。ここではもうラカンの弁を再三あげる必要はないでしょう(これも再三の弁になりますが、物語を(無意識の意図的に)読み間違えることを悪くは言えません、むしろ物語の正解は1つだと言うことは貧しく、多数の間違いを産むのは多産な点で豊かなことです。それは無数のバリエーション/血脈の分派であります)

では本作のなかでこれを行ったものは誰か? 現実とは違う物語を作りそれを観ている者は誰か? 信心を持っている者は誰か? それはこの老人、本作の主人公であります。

文字にしてしまえばあまりにも容易く、皆さまにはつまらないことでしょうし、私にとっても簡単すぎてつまらないことなのですがこの評も佳境に入ったので今しばらくお付き合い下さい。ここであることが分かりやすすぎるほどに明確になりました。老人は女(不二子ちゃん、ですね・笑)を信じた/現実逃避した/信心を守った、多くの観客はこの映画がハッピーエンドだと信じた現実逃避した/信心を守った、わけです。主人公の精神状態と観客の心情が(騙されたと思いたくがない故に逃避をしている点で)完璧に一致しているわけです。

これこそこの名匠の恐るべき手腕、一流中の一流の詐欺師の手腕であります。トルナトーレ監督は、騙し→信じさせ→嘘が発覚する、という詐欺の構造(どんでん返し)を映画に見事に持ち込み、それだけではどんでん返し/騙されていたことの発覚というある種の壮快感で終わる(『ユージュアル・サスペクツ』などのこと)ところを、推進させ詐欺の続きを描くために一流の詐欺師の手腕をも映画に持ち込み、鑑賞者の心を操り老境で騙された哀れな主人公の精神と一致させたのです。故に本作/ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』は凄い(恐ろしい)映画なのです。もはやこの映画は詐欺ものというには生温く、この映画自体が詐欺である、といって差し支えないほどです。繰り返しますが、それは一流の詐欺師の手腕なのです。

 

散布する悪魔/ネオンデーモン

ニコラス・ウェンディング・レフン監督の『ネオンデーモン』を劇場で観賞したので以下はその評です。と言ってもこの映画が劇場公開されたのは数ヶ月前のことで、同じ日に観賞したのがドン・チードル『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』ですから、本作『ネオンデーモン』を知らない方にもこの評がもはや新鮮さがないことは明白でありますし(が評の鮮度などは山っけのある人のようにレビュー数を気にしたり、商業雑誌に載せる文章でなければ気にする必要はないものであります。なんせgrishommeで一番初め取り上げた映画は『愛の嵐』(1974年、イタリア)ですから(笑)。しかし本作はもはや劇場公開されておらず、更にDVDが出るまでにはまだしばらく掛かるので今は観賞することが出来ない、という点では鮮度を気にするべきです)、正月の出来事と『鑑定士と顔のない依頼人』の評が長くなったのでこちらは手短かに行います(という気はいっさいないのですが・笑)。

私はレフン監督のファンですし、同監督が撮った作品はすべて(10作なのでゴダールトリュフォーなど多作家であるヌーヴェルヴァーグに出自する監督に比べれば容易いことです)観ましたが、あの『ドライヴ』(主演のライアン・ゴズリングが『ブルーバレンタイン』(こちらはデレク・シアンフランス監督)で得た演技派という名声をさらに押し上げ色男/セクシーなスターとして確立させた)を観賞してからのファンという平々凡々としたものであります。

とはいえ私は自分が現在生きている意味(生きている意味、ではないですよ。現在生きている意味、です)の何十分の一をレフン監督の新作を見るためにあると定めております。私は同監督をシナリオも音楽も美術も映像も巧みな名匠だとは捉えていません。それらはすべて優秀ですが、格別というわけではなく、しかし1つだけ大いに優れているところがあります、それは私がいうまでもなく映像の異質な美しさです。レフン監督の先天的な色覚障害が理由の一部になっている(ということはこの障害は映画製作の上では才能になるわけですが)あの映像は、古今東西のさまざまな映画作品やCMのミックスであり、監督のセンスによって編集されるリミックスであり、グルスキー(写真家/ドイツ)やアイ・ウェイウェイ(芸術家/中国)の(作品の)ように始めは山師なのでは?と思わせるもきちんと見ると良い、しかしやはり山師では?とも思わせられる、これらはモダンアートの宿命ですが、されど良い、というつまり繰り返しなのですがモダンアートであります。

それで良いのです。極端な想像ですが、ストーリーが抜群に良くしかし映像は一切だめな映画と、ストーリーはまったく面白くないが映像は素晴らしい映画、が存在し両者を比べると映画としては後者のほうが良い、ということは私が書くまでもないことです。話はなんだが判らないけれどめちゃくちゃクールな映像が次から次に出てくるといえばゴダール(映画監督/フランス)ですが、その点ではレフン(映画監督/デンマーク)はその系統とも言えます。

さりとて、本作『ネオンデーモン』は話の筋がはっきりと読めるものでした(同監督の作品は処女作である『プッシャー』シリーズや『ドライヴ』のように話が明確なものと、『フィアーX』や『ヴァルハラ・ライジング』や『オンリーゴッド』のように一見すると話は分かるが本当は良く分からないもの、という分類をすることも可能です)。

ファッションモデルを目指す娘が都会にやって来てファッション業界で成り上がる、それに伴いライバルたちは彼女に嫉妬していく、という美/芸能界そしてそのゴシップに関連する典型の物語の本作は、美とそれへの同化の欲望の話です。さりとて決して美酷の話ではありません。『ネオンデーモン』にはいわゆるブスと呼ばれる人物は登場しません(とはいえ美酷は絶対的なものではないので、人によってはすべての登場人物をブサイクだと判断することもあるわけですが)。調べていませんが、登場する女性は現役のモデルばかりであると推測でき、というのもその体型を一目見れば誰でもそう判断するでしょうけれど、残りは女優のなかでも、その出演作品のなかでは美貌の人として扱われる人ばかりであります。本作にはフィニーフェイス(顔立ちが特徴的だが美人とも呼ばれる顔)な女性やコメディアンヌは登場せず、故に美酷の話ではなく、美と美との話でありますし、ここまで書けば明白なように美(人)のなかにも順位や嫉妬があるという話こそが主題です。しかしその序列から1人だけ外れている者がいます、それがエル・ファニング演じる本作の主人公なのです。

もう大ざっぱに書いてしまいますが、エル・ファニング蒼井優であります。綺麗ではあるけれど、ファニーフェイスに片脚を突っ込んでいる、されとて上野樹里多部未華子のようにファニーフェイスでもコメディアンヌでもない女優というわけです。そしてエル/蒼井、両人はともに少女性をその外見から発散させています(もっといえば妖精ですが・笑。蒼井優羽海野チカ著の漫画を原作とする実写映画『ハチミツとクローバー』で演じたもっとも漫画的なキャラクターであり妖精的(というか原作でも妖精扱いされる場面がありますが)な登場人物、花本はぐみのビジュアルと完璧に一致していたのは記憶に新しいことです)。端的に言えば美よりも可愛いなのです。

kawaiiという言葉で世界に発信されたこの価値観は、現在も世界を覆い……とは言いませんが世界の1/5くらい、欧米系の国々の少女/女性たちに日本産の漫画やアニメと共に浸透しておりファッション業界もそれを見過ごすことはできないという現状は、本作でエル・ファニングがトップモデルとして扱われて行くということに表れていますし、またインスタグラムやツイッターにファッションモデルが投稿した写真で披露する変顔、などで現実世界においても価値あるものとして扱われています。

その言葉があるように、美と可愛い(kawaii)はそれぞれ違うものである、ということは整った顔立ちの冷たさと可愛い顔立ちの非均一さなどを語らなくても誰もが実感していることです。故にその可愛いエル・ファニングは美と美の序列から抜け出しています。しかし序列の先には別の価値観が生まれました、それは輪とも言えるものです。元祖ファニーフェイス女優、といえばオードリー・ヘプバーンですが、彼女の出現によって美の概念は変化しました(あるいはその変化の象徴が彼女です)。

美(綺麗/均衡)には可愛いがなく、可愛いには美がない。と書いてしまうのは乱暴ですが、この2つの概念は対比し、そしてその中間層も生み出し美やファッションの歴史を作っています。これもまた端的に書くと、少女性と大人の女(妖艶/セクシー)という対比も含む(日本では現在より少し前に倖田來未をアイコンとするエロかわいい(中間層)という概念も生まれました)ヘプバーンとマリリン・モンローという同時代を生きた2人の女性の対決です。

それまでは美の序列であり、美(綺麗/均衡)→さらなる美→それを超えた美→……というものでしたがファニーフェイスあるいは可愛いという概念の価値が上がって以降は、美(綺麗/均衡)→可愛い(不均衡/特徴ある顔立ち)→美→可愛い→美……という輪になったわけです。故に本作『ネオンデーモン』で可愛いを有するエルが登場し、彼女が業界でのし上がる、つまり彼女の価値が上がることで美を有するモデルたちは恐ろしい嫉妬を抱きます。序列においてはそこに属している限りは優劣はあれども同じ属性(ここでは美)を持ちますが、輪においては優劣すらないのです、彼女たちは美を持つが故にかわいいを、均衡した顔立ち故に不均衡な顔立ちを持っていません。可愛い、はそこでは異物なのです。

異物が評価され、価値を得たとき、それ以外のものは尻を巻くって逃げるのが懸命な判断ですが、それでもその業界にしがみつきたいとき、もっと言えばその時代で評価される外見を持ちたちときにはどうすればいいのでしょうか?そうなったらもう対象と同化するしかありません、それを体内に取入れる/取入れられるしか自分が持たないもの→異物を手に入れる方法はありません。同化すれば良いのです。同化すれば自分も可愛いになれます。同化とは自分が対象と1つになることであります。これも乱暴な例えですが、黄色人種が白人になろうとしてもなれません。しかし白人とのあいだに子が生まれれば、その子は半分は自分で半分は白人です。がこのように子を生せる者つまり異性同士の話ならば同化は比較的容易いのですが、同性である場合はどのように同化することができるのでしょうか?これはレズビアンやゲイに関連するだけの話ではなく、交わっても子を生み出せないものすべてに関連する話です(念のために書きますが、逃げたり諦めるのが冷静な判断ですが、諦められなかったときの話ですし、欲望や渇望とはそういうものですし、子というのは概念というか端的な比喩です)。

そして本作のラストではその問いへの安易尚かつ悲劇の回答として、あのグロテスクで恐ろしい事件が起るというわけです。もちろんこれは美への批判ではありません、現在はkawaiiが価値を持つ時代ですが、美のほうが価値ある時代になったときに可愛い人々はどうするのか?特にファッションや「美」や芸能に関連する業界に関わる人々は、ということと同じことです。

本作は常に不穏な空気に包まれていますが、画面に映る、実際に作中で起る事件はこの同化のための殺人だけです。ファッション業界のゴシップ映画というと、大抵は権力を利用した男による女への欲望、そしてそれを上手く/悲劇的に利用する女性が描かれますが、本作にはそれらは登場しません。登場する男性は、道徳的だがうだつが上がらない若者、無口で不気味だが仕事はするカメラマン、つねに不機嫌なモーテルの管理人(なんとキアヌ・リーブスが演じている・笑)、深いことを言っているようでごく当り前なことしかいわないファッションデザイナー、と暴力を振るったり性欲を押しつける者は1人も登場しません。

しかし、つねに画面には不穏感が漂っています。これは女性が男性に対して不安を感じただけで(犯罪が行われなくても)女性を圧迫し不安にさせる理由としては十分すぎるほどだ、と言っているようでもありますし、(ファッション業界を舞台にしている、という前提があることを忘れてはいけませんが)女性はつねに男性から若いとか美しいとかいった価値で/価値を計られており(もう一度言いますが、この業界ではそれが彼らの仕事ですし、彼らの客も女性です。故に購買層である女性が商売人の男性を通して仕事人の女性を判断しているともいえ、しかしその購買層の女性たちの判断基準には男の価値観(男性の目線、社会的な性的な役割の固定など)も入っており……と無限の男女間の価値の押しつけに言及することも可能です)それだけで女性を(犯罪が行われなくても)圧迫し不安にさせる理由としては十分すぎるほどだ、とも言ってるようでもあります。が画面に映る、起こる事件は女性同士の同化のための殺人だけです。

なので本作はファッション業界/芸能の世界を舞台にした映画にありがちな、現実に起る男女間の問題を切り取った作品ではなく、美と可愛いの両方を包括する「美」というものが持つ恐ろしさを描いた映画なのです。

では題名の『ネオンデーモン』とは一体なにものなのでしょうか?本作には(黒い翼が生えて刺又や槍を持っているような・笑)悪魔や魔術は登場しません。ネオンデーモンとは「美」に魅せられた、「美」を見つめ続けた者の成れの果てのことなのです。作中では印象的なものとして眩い光を放つネオンやフラッシュや照明、夜空に浮かぶ月が描かれています、すべて光りに関連するものであり、狂人を意味する英語であるルナティックは月の女神ルナに由来しており、この女神は人を狂わすと信じられていた、というのは有名な故事ですが、暗闇のなかで自分に向けて(のみ)放たれる光は人をおかしくしていきます、それは神々しさから狂人までを含む日常ではないものへの変化という意味でのおかしさ、ですが。

エル演じる主人公は可愛さという「美」の力でファッション業界をのし上がり、クラブでフラッシュを浴びスタジオで照明を浴びそして極めつけのステージ上でネオンを浴び、デモニッシュなものに豹変します。彼女は可愛いの持ち主なので美を持つ者にとっては彼女は異質/異物のものであることは再三書いて来ましたが、その可愛さの力を高めていくことはより一層の異質/異物になることであり、異質/異物が故に彼女は人から羨望され恐怖される、それはこの世の通りの外におり(美の序列から外れて、その可愛さ(kawaii)で)人を誘惑し堕落される悪魔=デーモンのように、というわけです。

そして彼女と同化することを求め事件を起こした女たちもまたネオンデーモンであります。彼女たちは「美」について考えそれを実践し仕事にもして来た人々です。しかしその度合が(それまでの人生経験とエルの登場により)常軌を逸するにつれてデモニッシュなものに豹変し、最終的にはあの恐ろしい同化という事件を起こすデーモンとなります。

故に『ネオンデーモン』の悪魔とは、「美」を追い求めた者たちの成れの果ての姿の指しているとも書け、またネオンデーモンは空気のようにどこにでもあるものであり、誰でも触れることができるもので、さりとてそれを吸い過ぎると人をおかしくしてしまうものであるとも言え、つまり空気中に散布するヤバい物質として、窒素やガスのようなものであり、「美」に関するその空中に散布するヤバい物質の名称がネオンデーモンである、これを吸い過ぎれば誰でもデーモンになってしまう、という結論が可能というわけです。悪魔が悪魔を産み出しているのです。

さりとて人々を悪魔に変える空中に散布するこの「美」の悪魔は「美」に執着する人々にしか吸引不可能なものであり、故に「美」に奉仕する者たちは偉大な人々ではあります。がさりとて誰でもそうなる可能性はあるのです。「美」は人間にはあまりにも身近なものでありますし、「美」は常に人々を誘惑しています。なので誰にでもあの美の序列に並んだり、美と可愛いの輪で回る可能性があります(正確には回ることができないジレンマに落ちいる、ですが)。いや1度ならず美や可愛いに淫したり、追い求めたことがある我々はすでにそうなのでしょう。故にネオンデーモンを吸いすぎぬように/あの光を浴びすぎぬように注意しなくてはなりません。

 

と、また文章を長文にしてしまう私の悪癖が出てしまったので、今回はここで筆をおきます。前回の記事投稿から今回の更新までには期間が開いてしまいましたが、次回はここまでは期間を開けずに更新をいたします。それではまた『ラ・ラ・ランド』も『騎士団長殺し』もないウェブログでお会いしましょう。当ウェブログgris hommeは敬体と常体という2つの文体を使い分けて文章を書く、という趣旨があります。次回の更新ではそのどちらを使おうか考えながら技を磨いていきます。もはや新年度であります、みなさんの新しい春に多くの幸があるようお祈りいたします。

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