花見。料理をする男たちを眺める愉悦+それはそうとウイルスに蝕まれている/言葉(常態)と物

料理をする男たちを眺めること/紅茶

先日掲載したエセーの〆で宣言したとおり期間をあけずに記事を更新する。ここまでの短期間で次の記事を載せるのはエセーにしても小説にしても私にとっては珍しく、私の文章を逐次追っている、という大変な好事家の方にとっても驚くべきことだろう。その原因は非常に明確で、私がなかなかエセーを書けない理由は先日掲載したエセーに書いたとおりテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからなのだから、エセーをすぐに書ける、ということはその裏であり、つまりいまはテナーサキソフォンの練習をしていないからだ。その理由は後述するがまずは先日参加した花見の話をしよう。

4月になれば例年開催されるとある趣味人の集い(から時をへていまは友人たちの集い、なのだが)の花見に私は毎年参加している(開催される、と私は書いた。つまりこの花見の主催は私ではない。また私はできる限りこの花見に参加している。つまりこの花見は良い集いなのだ。だから私は主催者の某氏に感謝を重ねている。今年も1つ感謝を重ねた)。参加者皆が持ち寄る酒は東西南北の銘酒ばかりであり、私のあまり知らない人々や他人がtwitterInstagramに上げる花見に持ち込まれたアルコールのラインナップ(の写真)と比べると、この花見に並ぶ酒のほうが10倍から100倍くらい凄く(ただし日本酒に種類は寄っている。さらにはわざわざ名前を出さないが、プレミア価格がつく日本酒は飲み飽きている人々が多く、故にあえてそこを外した酒が並び、つまり彼/彼女らはその点は好事家なのだが、自身が酒に関しては好事家であることに無自覚な人が多いのも好ましい(念のために書くが、酒に関して好事家であることは悪いことではない。いや、悪癖ではあるが・笑))更には参加者の一部の料理の腕が高い人々が自宅で作ったシャルキュトリーや煮物などの和食も振舞われ、更に生ハムの原木がまるごと1本持ち込まれるのだが、この花見の主役はそれではない、雰囲気である。良い雰囲気はそこに集う人々が作り出すものである、ということは言うまでもないが、それでもあの花見でもっとも良いものはあの雰囲気であろう。あそこならば、酒を1滴も飲まずに始めからその終わりまで眠っていたとしても良いものになるだろう。それが雰囲気、という場の力が持つ人々への効力である。雰囲気とは(言を繰り返すが)そこに居る人間が作るものであり会話や行動の結果ではあろうが、雰囲気とはそれらの総和以上のものである。そんなことは愛する者同士が見つめあい言葉が不必要になりその途端なぜか眠くなることや(興奮する場合が多いだろうが)、セックスの最中、それこそ挿入のなかで互いに眠りについてしまう経験から誰でも知っていることだが、つまり良い雰囲気の効力とは安心や満足へも波及するものであり、あの場にさえ居ればそれだけで良いということだ(先の例えならば、2人一緒に居られるのならばそれだけで良い/互いの身体が1つになっているのならばそれだけで良いということだ。もちろんここに友情の例えや、母と子の例えなどを並ばせることもできるのだが、文章の簡略化のためにそれは避ける)。念のために書くがあの花見に存在した良い雰囲気とは性的なものではない、それは言うならば愛だろう。

例年は代々木公園の桜の下で開催されるこの花見だが、今年は雨雲のせいで室内での開催となった。とはいえ、そこは「せい」などと書かずに「おかげ」と書くべきだろう。新年度の始まりから悲観的な言葉を使うのは良くないという判断もあるのだが(なんせ花見とはただの飲み会ではなく、その年の前途に訪れる幸運や健やかな健康状態を互いに祈り合うものであるから、なのだが)、なによりも雨雲のおかげで室内開催となった今年は、そのことで面白いことを多く味わえたのだから。という理由からである。

室内と言えどもそこは飲み屋やビストロやトラットリアやバルの類いではなく、四ッ谷に構える貸しスタジオ、であり端的に言えばテレビ番組『テラスハウス』のリビングルームのようなもの、であり黒のフローリングに白を基調としたインテリア/システムキッチンに長テーブルと椅子/グレイのソファーである。この描写は決して洒落たこと、に関するものではない(そもそも貸しスタジオや飲食店や小売店の内装は洒落た空間の模倣である、故にそこに本当に洒落たものなどはないのだが(ではどこにあるのか?といえば個人の家やその自室、あるは個人経営の店やアトリエに、である)、それは悪いことではなく、それとは別に居心地の良さ/悪さはあり、あの場所にはその良さがあった)。このエセーで重要なのはそんななかで私がなにを観ていたのか、ということだ。

題名のとおりである。そこにシステムキッチンがあることはすでに書いた。そして花見に参加する多くの者が無自覚/自覚的なアルコールにおける好事家であることも書いた。シャルキュトリーや和食などの料理、そして生ハムの原木が1本持ち込まれることも書いた。然すればそこで(酒にあう)料理が作られることになるのである。生ハムを薄く薄く切り分ける者がいる、それをレシピに取入れた料理を作る者もいる、ペーストやパテを切り分けパンに盛りつけアミューズブーシュを作る者がいる、それとは別にガレットや和食を作る者もいる。

こういった場において(私が知っている限りでは)それをするのは男子の役割である。また私が知る限りにおいて、料理は女子の役割である、という古い価値観で性別を観るならば、既に日常的に男子/女子の役割は転倒している(だから料理をする/しないごときでは個人の人となりは言えても社会全般の男女のことなどはなにも語れない)。花見でもそうなのだ。というか、男子ならば、女子がいる場所で料理の腕を振るうのは自身の魅力を振るうことにもなるだろう。というのは今/現代の共通認識だろう。

もちろんあの花見でも料理をする女性(シャルキュトリーを質/数的に一番多くのものを持ち込んだのはとある女性であった)は居たのだが、多くは男性であった。私も男ではあるし、毎日料理を作る人間だが、私がこの花見の中でしたことといえば宴もたけなわという時で、紅茶(しかも友人が茶葉を持ってきたもの)を入れて配ったくらいで、それ以外の時間は別のことをしていた、それはなにか?といえば題名のとおりである。

料理を作る男たちを眺めるのは愉悦である。あの花見でもそうであった。勘違いして欲しくないので書くが、花見の参加者の男女比は3:2くらいで女性は皆可愛く、と言っては芸が無いというかただの世辞にもなりかねないのでもう少し詳細に書くが、参加された女性の彩りも美しく、(こう書けば皆さんが魅力的でまた色々な方がいた、ということが短的にわかるはずだが)カチューシャで品よく飾ったボブヘアーが似合う方から、普段は会社務めの制服を休日は春の身軽なシャツと細身のジーンズに着替えた凛々しさと軽やかさと親しみが似合う方、和装をお召しになりシックな着物と羽織りと帯に合わせた半衿がモダンな色の市松模様という粋で鯔背で艶っぽいと評しても偽りのない方、まだ赤ん坊と言ってよい子を育てている真っ最中の子連れの女性の色気、とこのあとにまだまだ十数人の女性への魅力への言及が続くわけだが、一部を描くだけでもこの様子であり、故にその可愛さ満開の桜にも優る華やかなることが伝わると確信している。なのでこちらも分かっては貰えるだろうが、彼女たちの魅力が料理をする男たちよりも劣るとかそういったものではないのだ。

だが、あの花見で私が一番楽しんだことは、題名のとおりである。

料理をする男たちを眺めることは愉悦である。大手チェーンの回転寿し屋が寿司屋からその値段の差し引きの代わりに置いて来たものはなにか?それは素材の質などではない、それもあるのだがもっともなものは客の目の前から寿司を握る職人を排除したことだ(回転寿し屋でも1皿の価格が上がると、再び彼らが客の眼前に表れるのはその上がった分の価格の価値である)。寿司屋のあの値段の大部分が、ネタの質ではなく目の前で寿司を握る職人を眺めることへの対価である。屋台から始まったとされる寿司の起原は既に過去の話、食品の衛生と調理の効率を考えれば職人の仕事はすべて裏でさせたほうが良い(それが回転寿司である)。だが多くの寿司屋がそうしていないのがその証拠である。これを商売の始めから大々的に調理過程と値段に組み込んでいるのがいわゆる鉄板焼き屋である。グリルやダイナーといわれるアメリカンタイプのレストランで、客席の奧にあるガラスの向こう側のキッチンで料理人が、網の上でロブスターやハンバーガーのパティを焼いている姿を見せるのもそれである。バーテンダーが轟音を響かせてでもカウンターの向こう側の静謐を旨とする客席に向けてシェイカーを振るうのもそれである。ラーメン屋も、クレープ屋もそうである。これらは皆、料理をする男たちを眺めることの愉悦を商売に取入れている。

あれはオープンキッチンと言って客の視線を調理者に意識させることで彼らの職務に対する怠慢や質の低下を防ぎ、また調理過程を客に公開することで衛生面における安心感を与えるのだ、と仰る方もいるだろうが、(厨房で調理をしたことがある者、特にオープンキッチンでしたことがある者ならば良く知っていることだが)調理をする姿を人から見られていても手抜きも不正も簡単に行える。料理の和洋問わず、鉄拳制裁が飛び交う厨房のシェフたち(が客の目線を避けるため)に足技を覚えさせたというこのシステム(もはや国民的にアニメとなって久しいアニメ/マンガの『ONE PIECE』に船舶料理士兼陸戦員のサンジがレギュラーで登場し、彼の持ち技は足技であるというのはこういった事情を汲んでいる。と書くのは狂人の戯れ言だが・笑)のその意味を徹底するならば、衛生の面でも厨房はホールと切り離し完全別室にして、その厨房に監視カメラを置いそれと連動するモニターをホールに置き彼らの仕事を客に監視させておけば良いのだ。そうしないのは、明らかに、このシステムには料理をする男たちを眺める愉悦を客に味合わせる意味もあるからだ。とここまで書けばどなたにでも分かるとおり、ここでは調理をするものが男でも女でも関係がない、料理をすることを商いとしている者の真剣な目線と剣呑さとシャイさと朗らかさがあればなんでも良いのだ。

だがしかし、これは明確な男女差別なのだが、あの花見では料理をする男たちを眺めることが愉悦だった、それが女性では愉悦にはならなかっただろう。数人の男たち(年齢の幅は下は20代中盤から上は40代までだ)がシステムキッチンに向かい包丁で肉を切りフライパンを振るい鍋の中の熱湯を注視している。私は立ったままでカウンターに背を預け彼らを眺めていた、気分が良かったのだ、だからついうっかりと誰かが持って来たジャック・ダニエルのボトルをいっぺんに半分ほどグラスに開けてしまい、チェイサーとしてビールを飲み、それを開けたら赤ワインをチェイサーにし、ミードを/日本酒をチェイサーにし、その次はまた別の赤ワインや日本酒をチェイサーにし、とキッチンで蠢く彼らを眺める、という愉悦に淫しているうちに酒は進み気がついたら花見が終わっていた、という次第だった。

料理をする男たちを眺めることは愉悦である。

その後は友人2人を誘い、日本橋三越に向かい、フォートナム&メイソンで紅茶を飲んだ。私の数少ない趣味のうちの1つが紅茶を飲みことである。私には金が無い。が金がない、ということを文章にすることほどつまらないことはない。これは食う食べ物がない、ということを文章にすることと同じである。だからつまらない。それに対する恨み辛みや苦しみや、それに対する(極左/極右を含む)政治的または宗教的な意見や思想があれば十分面白いのだが、それがなくただただ金が無いと言うだけの文章は、恨み辛みも政治も宗教も無い故に貧しさ(この貧しさとはその個人や自治体や国の経済状況の貧しさことではない(金持ちでさえ、なんらかの偶然で冷蔵庫の中に食べ物が無く、思わず「腹が減った」とだけつぶやくことはあるのだから)、文章が表す意味の貧しさのことだ)が際立つのでまずしくてつまらない(だから良い)。のだがいまそのつまらなさ(だから良い)を書く気の無い私は、金がないなどとはこれ以上は書かないのだが、端的に言って紅茶にならばすこしばかりの金を使っても良いとしている。それが趣味というものだろう。とはいえ、インドやスリランカに出向いて……という話でもないし、ホテルのアフタヌーンティーでもないので、その程度の話ではある(念のために書くが、F&Mの紅茶は美味い)。

これもまた明確な男女差別だが、紅茶はいま現在、男たちと飲むのが良い。私は紅茶が女性的な飲み物とされている由来(らしきもの)も知っているし、大昔のコーヒーハウスのように男たちによって喫茶の場を独占せよ、と言っているのでもない(現に私は、コーヒーは少しでも飲み過ぎれば女性から注意されるのに、紅茶はいくら飲み過ぎても女性からは注意されない、というその恩恵にあずかっている)。だがしかしやはり紅茶は男たちと飲むと良い、F&Mは満席で私たちの周りの客席はすべて女性同士のカップルまたはトリオだけであったのだが、もちろん、だから、である。

ちなみに私がこれを趣味として始めたのは、車にはねとばされる、という交通事故にあってからだ。事故で身体を痛めたことでしばらくのあいだは杖をついての生活になり、このことが色々な影響を私に与えたが、そのなかでも目に見えて変ったのが紅茶を飲み始めたことだった。それまでの私はコーヒー派だったのだから。

 

ウイルスに侵されている

私の身体はウイルスに侵されている。これがテナーサキソフォンの練習を行えない(つまりエセーを書くことが出来る)理由だ。微熱は出たが問題は喉の激しい痛みでこれでは管楽器が吹けない。(練習とは関係ないが)さらに問題なのは寝汗で、少し寝ると滝のような汗をかいて目を覚ます、皮膚に大きな水たまりが出来ており、頭を上げると汗の雨が私の身体に降る。起きているときは悪寒もあるし、少し動けば汗がしたたる(という状況であった。現在の私の体調は、こうして1本のエセーを書き上げた、という事実から推し量って欲しい)。

風邪も発熱も、頭痛や吐き気や腹痛や咽喉の痛みや寝汗が無ければこれほど楽しいものはないのだが、これがないただただ熱に浮かされているだけのような状態はそうそうやってはこない。今回も例に漏れずそんな楽しみはなかったのだが別の楽しみならばあった。それは咽喉の痛みを慰めるために色々なのど飴を舐め過ぎたことでちょっとしたのど飴ソムリエーのようになったことであり、それは新鮮なことだった。アルコールのマリアージュが料理との、ものよりもまずは体調とのもの、であるようにのど飴も体調により味が/美味しく感じるものが変るが、今回は龍角散入りののど飴が一番美味しかった。

この風邪の原因が、そのウイルスがなにかは分かっている。蓮實重彦だ。正確には蓮實重彦が1979年に書いた『表層批評宣言』という書物に書かれている文章だ。この些か古い書物を私は人文系界隈で脈々と読まれ続けている名著だと思っていたのだが絶版になって久しいことを知った。これを私が読んだのは偶然ではない。『表層批評宣言』を読む前に私は氏の別の本(蓮實が専門とするフーコーに関するものだ)を読んでいる。それに氏の前に、私には、菊地成孔が居り町山智浩が居り宇多丸が居たのだ、彼らが蓮實の息子にせよ(親殺しの)反逆の息子にせよ遠い孫にせよ、だから私がいつかは氏の著書を辿ることになるのは当り前のことだった。

そしてこの本を読むべく古本屋から取り寄せてそこに書かれているものを読み進めた私は、その文章によって咽喉の激しい痛みと悪寒と大量の寝汗をもたらす風邪にかかった。念のために書くが、私は風邪が実際にどういうものであるのか?ということは一般常識程度には知っているし、今回の風邪は私の身体が耐性を持っていなかったウイルスに身体が侵されたことが原因であることも分かっている。だからこのエセーのこの文章は、今回の風邪のそのウイルスと同じ位置に私が蓮實重彦の/『表層批評宣言』という書物に書かれている文章を置いている、ということなのだ。

『表層批評宣言』の内容を……詳説するつもりはないが、ここに書かれている批評やなんらかの物事を語る、ということを語る/その目線を語る文章(乱暴に書けばこの本は、批評本ではなくて、批評を批評する本なのだ)は始めは厳しく冷たいものなのだが、読み進めればこんなにも明るい文章はあるのかと驚かせられるものだ。端的言えばこの本は知/批評に関するスパイ養成学校であるのだが、しかしそれは敵組織の機密情報を盗み出す者としてのスパイの育成ではなく、敵組織に深く潜って(浸透しきって)しかしその日常をなんだがぎくしゃくしたものに/あのいつかあったスムースな日常を過去にし、そして敵組織がいざ大規模な作戦行動を起す時にはそれが失敗するように暗躍する者としてのスパイの育成である。ここで敵組織と呼んでいるものの正体とはなにか? それは。人々がすぐになにかを物語化したり、物語を特別視ししたり、すぐになにかを知と呼んだり、すぐになにかを分かった/理解したつもりになったり、作家(の人となりや歩んで来た人生)と(その作家が作った)作品を当たり前のように躊躇も無く一緒くたにして語ろうとする際の精神の動きや、それによる行動やそれにより書かれた文章のことだ。表層批評とはそういった(知の批評の)スパイ活動であり、表層批評とはなにか?という疑問に対しての回答として現在提出されがちな「作品から作者の存在を徹底的に無きものにして、映画ならば画面に映っているもののみを批評の対象にする、小説ならばそこに書かれている文字のみを批評の対象とする」という説明は見当違いなものだ。

言葉はなにも語れない、とか言葉は常になにかを取りこぼしている、とか言葉は死そのものを産み現すことである、とか言葉は語ることでなにかを殺してしまう、とか言葉は心の可能性を狭めてしまう、とか現実と象徴と想像の食い違い、とかそういった苦悩を抱いている(ことのある)言葉に対して非常にセンシティブで才能のある者(言葉に対して鈍感な者ほど、自分はいっぱしの論者であるかのように臆面も無くさまざまな物事を語るが、彼ら/彼女らの口から出るもので面白いものなどなに1つ無い(つまらない言葉自体の価値や、つまらないことを言う、という価値はもちろんこれとは別のことだ)、のだが故に彼らのつまらない言葉こそが世界を覆ってしまう。才能に対する責務、などというものがあるとすれば、言葉の場合はそれを(対立とか弾圧とか統制とかとは別の仕方で、つまりそれと踊るようにして)どうにかすることだろう)にとってはこの本に蓮實重彦が書いた文章は意味のあるものになっている(それ以外の者には、そこに書いてあることの意味が1つも分からないだろう)。

私はこの本を読み始めて体調を久しく崩し、症状が比較的穏やかなまにまに文章を読み進め、読み終わったところで回復の兆しが見えてきた。そして自宅のなかを少し歩いてもふらつき、身体から汗が噴き出す中でも私は毎日紅茶を自分でいれて飲んでいた。趣味とはそういうものだろう。


次のエセーをここに載せるまでにはあまり時間がかからないだろう(きっと・笑)。girshommeは敬体と常体という2つの文体を使い分けることを促進剤の1つとしてエセーを書いている。次のエセーではそのどちらを使うかを考えながら文章と戯れるための技を磨いていく。新年度の始まり、という1年のなかでもっとも荒波が(質、数ともに)押し寄せている季節だが好事家の皆様はご健康にはどうかお気をつけて、皆々様の健康を祈りながら今回は筆をおく。