それはそうと再びウイルスに蝕まれている、ストロースとコンラッドそしてメシアンに癒しを求めて+胸の中身のかたち+ゲームで音楽/戦争と平和(常体)

前回のエセーの〆で次の更新までにはあまり時間がかからないだろう、と書いたもののもう既に4ヶ月弱の時が経っている。その言い訳をするためにこれから再生されたカセットテープやヴィデオテープやCDやDVDやブルーレイディスクのように以前と同じようなことを書くことになる。

grishommeに前回、前々回掲載した文章の内容にあるように、私がエセーを書けない理由はテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからであり(これはとてもダメなことだ)、エセーを書ける理由はそのときこの楽器の練習をしてないからなのだが、つまりこうして今回エセーを書いているのは後者の理由によるものであり、その理由は前回のエセーに書いたのと同じく私が体調を崩しているからだ。具体的には咳が止まらず夜も寝られない(日中も咳が頻繁に出るのだが、寝ようとすると身体が温まるのでその瞬間に咳がより出やすくなる。)。前回のエセーも体調を崩しているあいだに文章を書いて掲載した。今回のエセーも体調を崩しながら書いている。病気になった時だけ文章を書きそれを他者に公表しているようではまるで日本文学である。フランス文学の主題が概ね金銭であるように、日本文学の主題は概ね病気である、ということは文学を嗜む者たちの共通的な認識だろう。これでは私のこのエセーは日本文学である。ではどうせなのだから日本文学の真似事をしてみよう。私はいま病人である(大したことのないものだ)。

しかし本当は短編小説の『A soft machine with green and pink colors(緑色とピンク色のぶよぶよとした機械)』というもの(カフカの『審判』のようなもの)を書きたいのだが体調が原因でそんな気分ではない。先日観賞した横浜で行われたジャズのライブにまつわる一連の出来事をエセーとして書きたいのだがこれも気分ではない。自慰行為をしてもいいのだがあまりそんな気分でもない(これを古い言葉でマスをかくと言う。というのはいまでは筒井康隆のみに許されるジョークだろう)。すべては気分で行っているからダメなのだろう。気分でものを行わないほうが正しいが、とはいえそこには色気が皆無だ。

 

 ストロースとコンラッドそしてメシアンに癒しを求めて

すべては蓮實重彦が悪い。と書いても私の書いた文章を逐一読んでいる、という好事家のなかの好事家のかた以外には意味不明な文章だろう。正確には蓮實重彦が書いた2冊の著書が悪い。2冊の著書とはこのフランス文学現代思想研究者にして希代の映画評論家が書いた『表層批評宣言』『反=日本語論』という本のことだ。私が先日掲載したエセー(とはいえそれは今年の四月のことだが)では体調の悪化を書きその理由を(ウイルスにおける一般的な知識は有しているものの(つまりそれはほぼなにも知らない、ということだが・笑))『表層批評宣言』を読んだこととした。この本を読み始め具合が悪くなり、読み終わったところで回復の兆しが見える、という経験をした。あのときは咳と汗が膨大に出てベッドを水浸しにした。それを代償とすることでこの本を読み終たとき=体調が回復したとき私自身になんらかの変化があるだろうことを予想して書いたがそのとおりになった。変化とは思考や文章の書き方のことである。そんなのはただの(いつでもどこでも起る、ある本を読んだことによる)影響のことだろう、と言う者もいるだろうしそのとおりなのだが(特にいつでもどこでも起る、という部分は)、そう軽々しく言う者には恋愛から創作の分野においてまで影響と変化のことなどはなにも分からない。

そんな変化をしたあとの私は再び蓮見重彦の本を読んだ。『反=日本語論』である。その内容は書かないが(『野比』を書いた大岡昇平が書いた『萌野』に嫉妬した著者が書いたエセー、というのが正しい紹介だろうが)。読み始めた当初は具合はまあ普通だったのだが、終盤に差し掛かったところで具合が悪くなり、読み終えた頃には咳のせいで夜も眠れない、という状態になった。『表層批評宣言』のときとは逆の症状進行の仕方だ。そんな中でも癒しはあった。なぜならば癒しを求めたからである。求めた末に得た癒しなどは2流の癒しだが(本当の癒しは思いもよらぬ方法と仕方で与えられる)、無いよりは良い。

(ちなみに前回のときの癒しはアースウィンド&ファイヤーの音楽だった。あんなダンス/ディスコ/ファンクミュージックを具合が悪い時に聴いてどうするんだ?、と仰る方もいるかもしれないが1度試してみれば分かる。このバンドの音楽はそれ自体が踊っている。だから聴者が踊る必要はない。なんらかの理由で踊れない者は彼らの曲を聴けばいい、それはもはやあなたが踊っていることと同義である。からだ。このグループが他のバンドと一線を画すのは/彼らの音楽に愛が溢れているのはそれが理由だ)

今回癒しとして利用したのは、フランス人文化人類学クロード・レヴィ=ストロースが書いた旅行記『悲しき熱帯』とイギリス人作家ジョセフ・コンラッドが書いた小説『闇の奧』そしてフランス人作曲家オリヴィエ・メシアンが書いた『世の終わりのための四重奏曲』だった。日本人の病人である私はマスはあまりかかなかった(というのはいまでは筒井康隆のみに許されるジョークだろう)。

レヴィ=ストロースが書いた旅行記『悲しき熱帯』は私が今更ながら読んでいる本で(いまさらながら、というのが私の人生を貫くタームの気がしてならない。タームという言葉には"用語"という意味と"期間/期限"という意味がある。いまさら、という言葉はタームである)あり、より正しく語るならば、読む前は読むのが憧れの本で手に入れてはからはページが進まなかったが具合が悪くなることで再びページをめくることが出来た本、だ。

ここから話が少し複雑になる。

のだがその複雑さを正しく描くことが、文筆家として好事家のみなさんへの、そして読者としてレヴィ=ストロースの著書へのまっとうな行動になるので前もって許していただきたい。私が『悲しき熱帯』を読み進めることができなくなったのはこの本の内容が、レヴィ=ストロースが1930年に行ったブラジルへの教師としての着任と文化人類学の実践に関する旅行記でありブラジルの民族を対象とした文化人類学書物である、と言われているのにもかかわらず、実際のこの書物のなかではなかなか南米への旅が、そしてそこで行われる文化人類学の試みが登場しない、ほどに複雑な構造をしているからだ。

1941年、レヴィー=ストロースが欧州を襲う戦渦から逃れるためにマルセイユからマルティニーク島そしてそこからニューヨークへと赴く(正確には彼もまた兵士であったが、1940年のフランス敗戦により任を解かれたことと彼がユダヤ人であったこと、そして有能な学者であったことが重なり、ロックフェラー財団の計画によりアメリカの学校に招来されたのだ)船旅の道中、もはや神話かカフカの著書『城』のなかで主人公の身に降り掛かる事態のように、戦渦の直接的な影響、そしてある地域をべつの地域が所有すること(端的に言えば植民地のことだが)で生じる混乱の間接的な影響を受け、この船の進行が度々止められ、更にそれらのトラブルが語れる最中に1939年の開戦に際してレヴィ=ストロースがブラジルからフランスに帰国する話が挿入され、さらにその話のなかでその数ヶ月前にボリビアから飛行機に乗るはずだったがそれが空港にやってこないという話が挿入されるのだが、この2つの挿話の主題は旅行や大陸間の移動の進行がどれだけ不条理な理由で止められるかでということであり、つまり進行が止められている船(1941、フランス→アメリカ)の話の中で、過去に起った似たような船旅(1939、ブラジル→フランス)の話が挿入され、更にそこで過去を振り返り乗れなかった飛行機(1939、ボリビア)の話が挿入されるという、移動出来ない話、のオンパレードであり、この挿話が終わってもいまだに1941年のレヴィ=ストロースはアメリカに着いていないし、故に1930年代のブラジルの話は始まってすらもいない。『悲しき熱帯』のなかで彼は地理/時間を跋扈跳躍しているが、旅は進んでいない。この本は複雑な構造をしている。

そんななかで彼の乗る船舶(1941、フランス→アメリカ)のトイレが刻一刻と汚れていくことを描写している場面(繊細なかたを考慮して詳細は書かないが、臭いに関する描写が……おえっぷ、失礼。ともかくそれは人間の糞尿が放つ臭いに、照りつける太陽の光と潮風と海水が悪臭の発生にどれだけ寄与しているのか、ということに関する希代の文化人類学者の目を通した描写だ)あたりで、読者の私はページをあまり進まめることが出来なくなったのであった。のだが私はそのトイレの描写に嫌気がさして読書の速度を落としたのではない。トイレに関する酷い描写、ならば偉大なジャズベーシストのチャーリー・ミンガスの自伝『敗け犬の下で』で書かれている精神病院のトレイの描写(彼は自分が常に怒り狂っていることに嫌気が差し、自ら精神病院の門を叩いて(比喩ではなく、本当に門を叩いて)ここに入居したのだった)のほうが強烈だった。

『悲しき熱帯』は私がこの本を手に入れる前は読むことが憧れの本だったのに、手にしてページをめくる度に読み進める速度が落ちていったのは、この本の構造が読書を拒んでいるから、だろう。というか文化人類学者として赴いたブラジルでの出来事を恥じているかのように、その部分を書いた文章を読まれることを出来る限り延期しようとしているように、この本はその手前が饒舌なのだ。船舶のトイレの描写がなぜあれほどに詳細なのか、なぜ旅の進行は止められるということを何度も書いたのか、これを饒舌といい、嘘をつく男が饒舌になること(つまり真実を遠ざけようとすること)は幼児でも知っていることだ(念のために書くが、レヴィー=ストロースの著書の内容が嘘だと言っているのではない)。

イギリス人作家ジョセフ・コンラッドが書いたベルギー王レオポルド2世私有地時代のコンゴを描いた小説『闇の奧』はフランシス・フォード・コッポラ監督が撮ったインドシナ戦争を舞台とした映画『地獄の黙示録』の原作であり、この映画を下に2kゲームスが制作した近未来のドバイを舞台としたビデオゲームである『スペックオプス ザ・ライン』やジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督の映画『キングコング 髑髏島の巨神』の元ネタになっており、さらにはデヴィット・イェーツ監督の『ターザン:REBORN』の元ネタにもなっており、いやそもそもディズニーの『ターザン』では巧みに隠匿されているけれどエドガー・ライス・バローズが書いた原作の小説『ターザン』でも彼の生まれはコンゴなんだ、いやディズニーがアニメ化したのはキプリングの『ジャンングルブック』のほうだろう、いやディズニーは両方映画化しているんだよ世界二代アフリカ野生児物を両方映画化しているんだ、ああそれも手塚治虫の『ジャングル大帝』をおおっぴらにパクった『ライオンキング』もな、やつらはやっぱりアフリカにオリンタリズムを抱いているんだよだから一度エドワード・サイードに説教されたほうがいい、それを言うならディズニーがじゃなく白人がだろう、とか言ったことは既に世界中で5兆回は語られていることだろうから省くが、私は自らの咽喉が発する咳に責められながらこの本も読んだ。

主人公に話しかけるマーロウという男の語りが描写されているこの物語は(マーロウが主人公だと勘違いしている読者もいると記憶しているが本作の主人公はマーロウの(嘘か真か分からない)話を一晩中聴いている名も無き男だ)貿易会社に所属する船乗りのマーロウが具体的な目的も無くコンゴ川を上っていく場面が大半を占める(マーロウの目的(任務)がアフリカの奥地で白人酋長となり象牙の略奪を行っているクルツを連れ戻すことだと思っている読者もいると記憶しているが、マーロウはクルツの存在など物語の中盤まで知らず、また彼と合って自分がなにをすれば良いのかも最後まで分かっていない)のであり、大半を占める、と読者(私のことだ・笑)に書かされるのだからやはりこの船も様々な理由で目的地までなかなか辿り着けない。

『悲しき熱帯』と『闇の奧』は旅/旅行(それも両方とも仕事に関するもの)の進行は理不尽に阻まれる、という点を同じくしてそれが物語の1つの主題になっている、という点で同じであり、またその点で船は世界間を移動するための装置というよりも、世界間を移動することがいかに理不尽に難しくされてしまっているかを現す装置として機能している点でも似ている。違うところは『悲しき熱帯』のレヴィ=ストロースが父的なのに対して『闇の奧』のマーロウは息子的で、これは前者が教師であり後者には(狂った父親である(狂った父親とは、フロイトから始まる精神分析学では神のことである))クルツがいることの違いだろう。

メシアンに話を移す。メシアンはもっぱら『世の終わりのための四重奏曲』ばかりを聴いていた。この曲は第2次大戦中にフランス人のメシアンがドイツで捕虜となりその収容所のなかで作曲された、という逸話などはこの時はどうでもよく、本作がメシアンが作曲した作品のなかで1番気軽に聴けたから(物理的に、手の届く位置にあったので・笑)という理由があったに過ぎない、のだがつまりそれはメシアンの音というものがイメージとして確立されているということの証左であり(少なくとも私には、だが)、チャイコフスキーの『クルミ割り組曲』をカバーしてもスウィングしまくっていたデューク・エリントン楽団のようにその音楽家固有の音がある、ということには賛否両論あろうが、私はそれを、それが商売なのだからそれで良いだろうとしている。ともかく私はメシアンの音のイメージを欲したのだ、というほど立派なものではなく、バッハではポップすぎるしハイドンは爽やかだしモーツァルトやベートーベンでは甘過ぎるし、ミュジックコンクレートは聴きたくない、と来て丁度良い塩梅なのがメシアンの音だったという程度のものに過ぎない。私の行為に立派な理由があるものなど1つもない。

こうしてレヴィー=ストロース『悲しき熱帯』コンラッド『闇の奧』メシアン『世の終わりのための四重奏曲』という三題噺が終わった、というほど立派なものではない。私の行為に立派な理由があるものなど1つもない。ともかく私はこの3つのものを滂沱の咳が出る日常の癒しとして使い、それどころかその状態を利用して書物を読み進め音楽を聴いたと言っても良い。治り始めた時期にこのエセーを書き始めた私の容態はいまでは8割ほどは回復した(いまでも咳は出る)。コンラッドの著作は読み終えたが、『悲しき熱帯』は再び読めなくなり、メシアンの曲はいまでは聴く気分にもならない。私はいまでも病人である。

 

 胸の中身のかたち

(話題が話題なので、同じ病気になったことのあるかたや現在闘病中のかた(およびそのご家族や知人友人)に不必要な負担を与えないために、無駄なサスペンデッドを避け結論から書くが、闘病は無事に終わった。ことを始めに書いておく)

繊細な話題なので暈すところはあるが、私の家族である女性(以下、彼女と書く)が乳がんにかかった。(これから何度も繰り返す言葉になるが、1番辛いのは当の本人であることは書くまでもないことだが)私の体調不良の直接の要因は、彼女がこの病気と闘病するに際して家族として私が通院の付き添いから病院/医者への対応、入院中の面会などをしたことによる疲労だろう(闘病をした当の本人が1番疲労しただろう、ということは書くまでもないことだが)。

彼女が自身の胸にしこりがあることを見つけ、医者の診断により乳がんの可能性が大きいことを知らされ急遽私が呼ばれたときから、様々な検査をして治療に関する説明があり入院して手術が終わり退院するまでが二ヶ月ほどだった、当時もいま思い返してもあっという間の時間だった。私は乳がんを取り除く手術は順調に行けば僅かな期間で終わることを知った(とはいえ、当の本人にとっては長い時間だったかもしれない)。そして術後のケアが終わるまでに更に一ヶ月、現在は再発を防止するための薬物投与の方針を決定する段階の大詰めである、あと一回の通院で以降は経過観察となる。

手術前の検査で、彼女の子宮にもしこりがあることが見つかった。これが判明してちょっとした手術(これは彼女を担当する医者の弁だ)のような再検査を終了するまでが二ヶ月(乳がんの術後退院したあとに行った)。幸いなことにこちらは癌ではなかったので、経過観察をすることに決まった。

乳がんと子宮がんの治療に付き添うとは、病院で多くの同病の患者である女性をたちを目にすることだ(見る。ではない。そんな失礼なことはしない。のだが病院の待合室や、病室にその人々はいるのであり、それを無視することを私はしていない)。これはとても辛かった(闘病中のご本人が1番辛いだろう、ということは書くまでもないことだが)。

市川海老蔵という歌舞伎役者とその妻のことは時事ネタに疎い私でも知っている。市川海老蔵のことについても知っている(少しは知っているなどとは書かない。人の名前を知っているということに、あまり、とか詳しく、とかいう数量は存在しない)。なので彼が妻の闘病に付き添ったことも知っているが、彼のような生き方をしてきた男が、闘病中の妻を、そして病院の待合室に並ぶ/病室に居る人々を目にすることは、罰せられるかのごとく辛いことだっただろう(闘病をした当のご本人が1番辛かっただろう、ということは書くまでもないことだが(この部分のこの言葉は、同じ言を繰り返しているのではない。いままでとは意味が異なっている))。

私は術後に通された手術室前にある部屋(インフォームド・コンセントルームとかいう名前がついていたはずだ)にて執刀医と会い、乳がん摘出手術が完了した旨の説明を受る最中に、いま切除されたばかりの彼女の胸の中身を見た。癌(腫瘍)も触った。このエセーの始めにサスペンデッドな内容にしないことは書いたし、ショッキングなことを書きたいわけでもないので詳細を書くことはしないが、触った腫瘍は石のように堅かった。子宮に関しては大きな問題は今のところないという診断が出たわけだが、子宮も切除していたのならば、術後に私には同じようなことが起っただろう。

女性の乳房は母親のものから始めて、血のつながっていない複数の女性のものを見て触りしゃぶって来た。女性器の奧にある子宮の入り口には触れたことがある。この闘病に付き添ったことを体験とか経験という言葉にすることはできない(なぜならば、闘病をした当の本人においては、まだそれ(闘病)は続いていると想像できるし、体験した、とか経験した、とかいう言葉は過去形の言葉なのだからこれを使うことは出来ないし、そもそもこれを体験とか経験とか言ったら彼女に対して失礼だろう)ともかく私は、女性の胸や子宮(を通して女性器全体)に対するイメージを変えた。

イメージという言葉をいま使ったが、女性の胸や性器はいままではイメージだったが、それがより生々しい存在に変った。胸は、女性器は、臓器なのだ。と書いたほうがいまの私の心境に近い。いままで何人もの女性の胸や性器を指で舌で触ってきたのに。胸や子宮が臓器であることは女性にとってはきっとあたりまえのことだろう(それに対して、男性である私にとって男性器は玩具とか相棒とか言う、小学生でも喜ぶような下ネタの雰囲気とイメージと、いまでも感慨が近い。男性器に関連する病気になったら、それも変るかもしれない)。私にとって、女性は胸や女性器というイメージを持つ人々であったのだが、いまでは、女性は胸や女性器という臓器を持っている人々である。私はボンクラである。

 

ゲームで音楽

アイドレス、という大人数協力型のゲームがある。好事家のかたならば私がゲーマーであること(このエセーの4回目の記事で宣言した)や主催者の芝村裕吏さんと私の関係もご存知だろうし、初耳というかたはそのままでよい。ともかくこの200人ほどが参加するアナログなネットゲーム(おかしな書きかただが仕方がない。アイドレスは主に文章の交換とプレイヤー同士のコミュニケーションで進行するアナログなゲームだが、プレイにはインターネットを使用し、判定にはAIも利用されるからだ)に私も参加している。

このゲームと私のプレイングの詳細は省くが、アイドレスでは自作の音楽も提出しこれを利用してゲームの進行を有利に進めることが出来る。のでプレイヤーではあまりにも少ない(多くの者は文章と絵を書く/描く)音楽制作者としてそれを行い、1ヶ月ちょっとで10曲ほどを制作した。

アクション映画のテーマ曲を想像してこれを作り
希望世界のマニファクチュール
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/iyxrcv7axm5f

交響詩としてこれを作った
交響詩『イリューシア』/第一番 嬰ハ短調『希望』
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/quau1zetofo2

コミカルなものではこれを作り
蛇のおっちゃんのテーマ曲
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/3kx6fakmygll

ピアノ曲ではこれを作った
そのときの祈り
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/uhu6scfli87v

ゲームにプレイヤーとして参加して音楽を作る、ということを経験したことのある者は世界を見ても少ないだろう。その経験者として言うがこれはとても音楽の制作が捗る環境だ。気楽、とも書くことができる。いまでは私は曲を書きマスを書き生きている(というのはいまでは筒井康隆のみに許されるジョークだろう)。

 


次のエセーはもっと早く書きたい(筒井康隆ジョークはもういれない・笑)。grishommeは常体と敬体という2つの文体を使い分けることを1つの掛け金としてエセーを書いている。次のエセーではそのどちらを使うかを考えながらその技を磨いていく。もはや季節は秋だ(と思ったら暑い日がやってくる。寒さ暑さも彼岸まで、という言葉はもう古い言葉なのか)、好事家の皆様はどうか季節の気まぐれにやられぬように、皆様の健康を祈りながら今回は筆をおく。

 

 

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