非常事態のプロポーズ

 「みんな数になんかなりたくないんだよ」と言う女の子の声が僕の耳に入って来ました。彼女の言う数が流行病にかかった感染者の数のことなのか、それともその死者の数のことなのかを僕は考えます。感染と死、という肉体の状態は違えども数えられ増加したり減少したりする数値というところは同じだな。と思う僕の耳には次いで、女の子と同じテーブルに着いている青年の「分かってる、分かってるよ」という押され気味の声が入ってきました。

 

 僕が居るのはどこにでもある都内のファミリーレストランの1つで、普段は家族や学生、会社員の昼食や夕食、夫婦や恋人や友人たちの、あるいは僕のような独り身のものたちの食堂や酒場として利用されている店で、僕の傍らのテーブルでは、話を盗み聞くに、保険外交員と思われる若い女性と顧客と思わしき男性が座っていて、黒い髪を結わき細身のスーツに身を包んだ彼女が「最近健康のためにジムに通いだしたんです、そこのプールで泳ぐんですけど、競泳水着ってけっこう小さくてモモとかに食い込んで痛いんですよね、わたし敏感肌で」と言い、男の鼻の穴が一瞬広がります。その声が耳に入った僕のように、他の男性客も彼女の容姿を一瞬の目視で確認しようとしています。エグいことをいうなぁ、保険の営業って大変な仕事だなぁと思い、それから、いや、ありとあらゆる職業に就いている者が戦っているのだなぁ。と思い直して、僕は目の前の皿の、トマトとクリームで作られたソースを和えたスパゲッティを銀色のフォークに巻きつけては口にしていました。うん、トマトとクリームとよく茹でた小麦粉の味がして美味しい。

 

 その食事も終盤に差し掛かり、ドリンクバーでノンアルコールのカクテル(材料:オレンジジュース、炭酸入りのカルピス飲料、極少量の烏龍茶)を作り帰ってきたところで、先ほどとは違う、別の席から、冒頭の、その声が聞こえてきたのです。

 

 「みんな数になんかなりたくないんだよ」と。

 

 その子が続いて「イイネとかフォロワーの数を気にするものいいけど、それだけじゃないんじゃない?」と言うので、僕は口に含んでいたカクテルを吹き出しそうになります。ああ、なんだSNSの話かそりゃそうだよお嬢さん。誰だって誰かの特別な人になりたいんだからさ。増加していく数の1つとして扱われるより顔や名前くらいは覚えられたいんじゃない?あぁそのミュウミュウのバッグは可愛いね。とみれば彼女と同じテーブルに着いている男の子は容姿もとても良く、アイドルさんだとか、人気のユーチューバーさんだとか言われればそのようにも見えてきます。

 

 芸能ごとや音楽産業、そしてそれ以外のビジネスも同じで、商いをし続けることと、数の増加はほぼ同じような意味を持っていることは園児でも知っていることです。と考えるとAKB48さんだったか(僕は女性アイドルさんの動向に疎いとさえもいえない無知さで、いま現役でかのグループに在籍しているかたの名前の1つも言えません)、CDを買うと握手券がついてくるというやりかたは上手い商売の仕方でした。CDも売れて(数の増加)、握手会に参加したファンさんは実際にアイドルさんと触れ合えるのだから個人の認識の欲望も満たされますから。あの商法は誰も損をしない善行だとも言えますなぁ。でも個人の認証の欲望はキリがないんですけどね。などとコンマ1秒で考える僕は、その若い男女を見て、あぁそういう話なのかな?とも推測したのですが、男の子のほうが恐縮している感じでもあります。それに更に彼女は言うのです。

 

 「だってさ、歌舞伎だって大入りとか言うわけじゃない?累計何万人入場とか言わないわけよ。それが昔から今まで続いている商売のやりかたで品があるってものでしょう。あのジャニーズだって公演で何万人とか、ファンクラブの人数が合計でどれだけ突破したとか言わないし、そういうのが嫌だから数が顕著になってしまうネットへの進出を、ジャニーさんが止めてたわけでしょう。ファンの子、1人1人のことを考えてるよね」

 

 と彼女の口から出た”ジャニーさん”のイントネーションが完璧で、僕はああこれはマネージャさんかスタッフさんとタレントさんの組み合わせなんだな、と思い直します。シーバイクロエの春用のジャケットの袖を捲りながら話を続ける彼女、と恐縮している男の子の声を耳に入れながら、僕は、彼女の語彙と迫力にその推定年齢をミュウミュウよりプラダ、シーバイクロエよりクロエをお召しになるのが似合う年齢なのではないか?と引き上げるのですが、着けているリップがサンローランやディオールのものなのか、トムフォードのものなのか、それともジルスチュアートのものなのかもわからない、でもアナスイではないだろうなぁ、程度のことしかわからない僕には彼女の実年齢はわかりませんし、僕はある種の精神的な症状として、尊敬と畏怖とそこから生まれる諸感情の均衡の結果として、幼女から老婦人までのありとあらゆる女性が遥かに年上にも感じられるので、さらに彼女の年齢は分からないのでありました。

 

 それにしてもこのノンアルコールのカクテルはオレンジジュースとカルピスと極少量の烏龍茶の味がして美味しいなぁ。などと思いながら、ファミリーレストランの店員氏に追加注文でチョコレートムースと生クリームのデザートを頼み、僕は彼女たちの話の盗み聴きを続け……いえ、もうどうしたって耳に入ってきてしまう。という感じなのですが。

 

 「それなのにあなたはインスタグラムやツイッターで数のことばかりを。そんなことをずっと言っていると、そうすると、女の子はしばらくしたら、あなたのことなんかどうでもよくなっちゃうでしょ。まぁSNSが、あなたをそうさせているところも、あるんでしょうけれど」

 

 そうそう、僕の先輩のバイオリニストも似たようなことを言っていました。1万人の女性を一時期夢中にさせるより、1人の女性をずっと夢中にさせるほうがはるかに難しい、と。しかし永遠に1人の人間の虜になることは、チョコレートフォンデュの大海にその身が落ちたような、体にまとわりついて離れない熱い甘さに身を浸す辛辣な官能であり、それを人に行わさせることは大罪に等しい行為であり、それだったら一時期夢中にさせるもやがてはそれが薄れて自然に2人は離れていく、というありふれた恋愛のもののようなほうが、善行と言えるほどの行いです。

 

 SNSが人を数にのみ機敏にさせる、という特性には僕も同意しつつも、僕だってSNSは嫌いではありません。僕もSNSで知り合った女性とデートをしたり、付き合うようになった女性もいるし、さらにはそのなかの1人が妻になって、しばらくは甘い生活が続いて、あんなにも愛し合ったのに、結局は1年ちょっとで離婚したのですから。だから恋愛や情愛や愛情や女性については人並み以上には知っているつもりではいます。……やはり1人の人をずっと夢中にさせるのも、1人の人にずっと夢中でいるのも、とても難しいものです。たとえその行いが大罪の悪行だとしても、悪行にも倫理も技術も、さらにはそれらによる救いすらもありましょう。それにしてもこのチョコレートムースは思っていたよりも苦いなぁ。苦くて甘くて美味しい、のだけれども。

 

 「そしてあなたは私のことも忘れてしまうんでしょう!!」

 

 うおーまじか。と次に彼女が発した言葉に僕は驚きます。恋人の関係だったのか、いやアイドルとマネージャーの関係であり同時に恋人の関係だったのかな。そんな彼氏へのヤキモチとか束縛とか約束とか不満とかそういう話だったのかな。彼女のそのセリフに、僕はスプーンを口にくわえたままイスごとひっくり返りそうになるところをふくらはぎの力でなんとか踏ん張ります。3日に1回くらいは10キロ走っていて良かった。いやというか、ああ、やはり彼女がつけているリップはアナスイのものなのかもしれない。いやまさか10代後半~20代前半使用コスメランキング1位のキャンメイクと2位のマジョマジョことマジョリカマジョルカのものではあるまいないやまてこの2つはプチプライスいわゆるプチプラコスメであり値段のお手頃感とクオリティそして知名度そしてパッケージデザインの可愛さを両立させたものとしていやあるいはKATEのものかもしれないがともかく化粧品と女性の年齢はいつになってもいくつになってもメイクの目指す方向とコストをかける費用が一致していればいいのであってそれゆえに比例関係が必ずしもあることではなく……。

 

 なにが、恋愛や情愛や愛情や女性については人並み以上には知っているつもりではいます。だ。僕はなにも知らないじゃないか。

 

 そこから涙声になった女の子は堰を切ったように、という言葉がふさわしく、自分の口が動くのが自分で制御できないことを自覚しながらも、そのままに、ヒステリックな王女のようにも見え、サディスティックな女王のようにも見える、美しさと興奮のままに、男の子への、二人のあいだに交わしている愛の不満の悲しみとその不安の弁を繰り出したのです。

 

 僕は自分の顔が自然に笑顔になっていくのを抑えます。僕のこの笑みはこの光景が可笑しいからとか、下世話な根性から生まれたのではありません。怒っている女性が大好きなのです。それはバブル期に新宿は御苑のまえで不動産屋をやっていた父親が不在がちな家で、小料理屋をやっていた祖母と、家を仕切っていた母と、8歳も歳が離れている姉に囲まれて育ったという環境から、むしろ女性が怒っていると安心するとか、幼少期を思い出すとか、女性が怒っている時だけはすべての女性が遥かに年上には感じられないから、という理由からかもしれません。反対に、怒らない女性、というのは僕にとっては怖くて怖くてしかたがありません。僕と別れた妻も……彼女もそういう人でした。ともかく怒る彼女の雰囲気に僕以外の客も2人に注目しだします。

 

 「あなたっていつもそうよね」
 「いつもそういう顔をするのよね」
 「なにか言ったら?」
 「わたしのことはどうでもいいんだよね」


 
 等々、彼女は言葉を続けます。その矛先を向ける男の子の正体が、有名なアイドルさんなのか無名のものなのかも僕にはわかりません(女性のアイドルさんと同じく、男性のアイドルさんのリテラシーも僕は持っていません。隔世の感この上なしです)。しかしどちらにせよ、そういう職業のものが人前で行っていいものではないでしょう。もはや僕以外の周りの人々も彼らに完全に注目しているのです。

 


 うわーどうなるんだろう。おっかない事態だなぁ。と僕が(笑顔をこらえながらも)震える最中、男の子が懐から小箱を取り出します。その箱は、多くの男女が見覚えがあるものです。僕にだって見覚えがありました。うおーまじか、と先ほどから驚いてばかりの僕の視線のなかで、勇気を奮い立たせたような彼が、彼女に向かって言葉を送ります。

 

 「こ、これあとで、ほんとうは言おうと思ったんだけど。こんなときだけどさ、一緒にやっていこうよ。僕も、君だけがいれば、良いんだ。いつもありがとう。こんなときだけれど、明るくしてさ、君のことを守るよ」

 

 彼はそういって小箱の中の、小さな小さな石が光るリングを、彼女に差し出します。ボリス・ヴィアンは、2つのことがあれば人生には満足する、それは可愛い女の子とデューク・エリントンの音楽。だと言ったなぁ。と僕は頭の傍らで思い出しつつ、視線の先の彼と、遠い昔に死んだフランスの作家の言葉に同意します。人生は1人の愛する人がいればそれで十分なのです。誰だって数になんかなりたくないのだから。

 

 そういえばいま、あの人はなにをしているのだろうか。不安に苛まれていないだろうか。と僕は目の前ではなく、遠くのどこかに居るであろう誰かのことを思います。

 

 視線の先の彼女は怒りを忘却して、涙を流しながら、彼から貰ったリングを左手の人差し指に身に着け幸福そうにしています。

 

 僕はそんな2人を見て自然に拍手をしていました。いえ僕だけではありません。周りの客も同じで、若い2人が起こした突発的なできごとに、店内は拍手喝采に包まれています。気を聴かせた店員氏がBGMをロマンティックな音楽に変え、キッチンからは特別なケーキのプレゼントが送られ、スポットライトが2人を包み、純白のバラの花束が手渡され、教会のベルが鳴り響き、空には白い鳩が飛びかい、天空には大きな虹が……

 

 と上記のことは僕の心象を描いたに過ぎませんが、こんな時だからこそ、離れていても、怖いことは言わず、暴力は振るわず、互いを守り、優しくし、戦い、明るく、笑い、泣くときは一緒に泣いて、誰も数などにはせず、気分よく生き抜いて、カタをつけたら、一緒に良い音楽なんかを聴きながら上手い紅茶か酒でも飲みましょう。どんなに離れていても。会うことがなくとも。知らない者同士でも。

 

 

 

 

 

紅茶の話でもしましょうか。  

 近頃、僕は紅茶をよく飲んでいます。もともとは(ドリップ)コーヒーを好んでいた僕が大英帝国が数多くの戦争の輸出と共に作り出したあの茶葉に手を出すようになったのは、自転車(クロスバイク)に乗っていたある日、ノーブレーキで来た自動車(建設関係の白バン)に後ろから撥ねられたのが切っ掛けでした。というのはすでに様々なところで書いてきたことです。体がバラバラになるような力によって投げ飛ばされ自転車から落下し(落ちてまず初めに地面と衝突したのが仙骨周りだったので、この骨が砕けてその下の神経を傷つければ下半身マヒもあった。と診断した女医氏に言われたのをよく覚えています。この事故のことは全部よく覚えているのですが(笑))、実際にはバラバラにはならなかったものの、神経がバラバラになったように身体をうまく動かすことが出来なくなり激しい痛みを肉体が襲い、数か月松葉杖をついて生活していた僕は、道を行きかう人々が障害を持つ者にあまり優しくない(リハビリには杖を突いてバスを使って通っていたのですが、老人も若者もほとんどの人が席を譲ってくれませんでした)その一方で対比的に無限とも思える優しさで接してくれる人もいることを知るとともに、紅茶の喫茶の意味も知ったのでした(ついでにパイプたばこ(シャーロック・ホームズとかマッカーサーとかが吸っていたあれです)の煙の楽しみも本格的に知ったのですが(いまではオランダの有名な作家が作ったパイプは手元にあります)。いまでは止めてしまいました)。具体的にいうとろくに身体が動かないから暇な時間が増えたのです。

 

 されとて僕は流れゆく雲をずっと眺めて居られるほどの情緒人でもないし。というところに紅茶が滑り込んだ……というか、赤くて透明で、優雅にカップの中で揺れるイメージの茶を飲み始めてみることを思いついたのです。僕の傷ついた心身にドリップコーヒーの暗く深く切実な苦味は似合いませんでした(いまでも僕はコーヒーは飲みますが、家では直火式の抽出機で入れるいわゆるモカエキスプレスしか飲んでいません。ドリップで入れたものの研ぎ澄まされた苦味ではなく、黒く、熱く、状況への似合う/似合わないの有無をいわさないあのやぼったさもある苦さ(ここがこれを基本的な飲み物の1つとしているイタリアという国の本質の1つであるようにも思えます。食を通してただの想像にすぎませんけれども)の、カフェインの少ないこれが好きなんです)。

 

 近所にあのルピシア伊藤園が展開している茶葉の専門店(この店も杖をついていた僕にも優しくしてくれた店の一つです。それとユニクロの店員諸氏にもよい接客をしてもらったのはいまでも覚えています)もあって、様々な紅茶(はもちろん、中国茶ハーブティーにも手を出したのですが、それはまた動機が別の話です)を試してみるにはぴったりだったのです。紅茶専門店、というそれまでの僕の人生の未踏破の場所に初めて足を踏み入れた時のあの緊張するような、少し不思議な気持ちになった感じを今でも覚えています。そして僕が選んだ紅茶葉を店員女史がパッキングする優雅な手つきを見た後で、帰宅し、僕の、紅茶との本格的な付き合いが始まったのでした。

 

 色々な茶葉にホットからアイス、ブラックにミルクにレモンに、砂糖入りとさまざま試しましたがこういうのは決まった飲みかたと作りかたに落ち着くもので(僕は基本的にはヌワラエリヤのブラックティーを好みますが、冬はアールグレイやイングリッシュ/アイルランドブレックファストブレンドやティンブラで入れたものにたかなしの低温殺菌牛乳を混ぜたものを、春はニルギリのレモンティーを、夏は一度沸かした湯で作った氷で割ったアイスティーも飲みます)すが、当時からそしてそのあと事故による怪我が完治したあとのある時期まではいろいろと試し、前出の専門店からスーパーで買えるもの、輸入食品店である『カルディ』にも紅茶はあるし、マリアージュフレールエディアールフォションも、日本橋三越にフォートナムアンドメイソンも飲みにいったし、帝国ホテルでアフタンヌーンティーも飲みに行きました(これは母への、母の日の細やかなプレゼントとして行ったものなのですが・笑)。とはいえ自分のことを紅茶に詳しい者だとは決して言えません。僕はあのシロニバリ茶園やスリランカにすら行ったことがないのですから(いわゆる聖地巡礼というやつですね。どんなものでもそれに魅入られた者(英語ではオブセッションなんて言って、映画や小説の大きな主題の一つになるほどの精神的な動きですが)の悪癖と言ってもぎりぎりで過言ではない行動力はすさまじく、ヒップホップ/ラップ音楽のリスナー自身がやがてはラッパーやトラックメイカーになる確率と同じような体感で、これの喫茶に魅入られた者は最後は自分でこの茶葉を輸入販売しだすのです。それに比べたら僕は牧歌的も牧歌的で、自分だけで楽しみような細やかな趣味レベルのものです)。

 

 とはいえこの紅茶という、大英帝国が戦地と植民地と独立戦争で流れる血と共に世界中に輸出した赤い液体が、自分の多くの時間の癒しになったことは興味深く付き合いながら、しかしいつしか別のものに癒しの品は変わっていったのです。アルコールという、カフェインではなく鎮静剤の、それも強烈なやつ(アルコールの本質は鎮静です。飲みすぎればどんな者も最後にはまぶたを閉じるのですから(ひどいとそのまま死んでしまいます))に。紅茶を飲む前から僕はアルコールの接種を嗜んでいたので、事故によって飲めなくなったそれが戻った形であり、これは精神的な事故からの完治でもありました(その後の僕自身の健康への良し悪しは別としてですが、心身の状態は”事故前”には戻ったわけです。僕も多くの人々と同じように、実際の事故にあう以前から、すでに事故にあったかのような人生ではあるわけですが)。

 

 そんな折に前回のエセーで書いたように僕は肺を病み(言を繰り返しますが、いま流行ではないほうの病みかたで。これも言を繰り返しますが、流行というもの自体への僕の人生の、隔世の感があります)、再び紅茶の喫茶が滑り込んできたのです(僕の私感では、すべては僕の無意識が行ったことであり、その無意識を意識のレベルに取り上げようと、アルコールとの付き合い方を改め(いまも摂取自体はしますが頻度/量の問題として、意識下に置いています)、楽器の演奏の仕方を変え(僕が演奏する楽器は概ね管楽器ですから、その多くは息の使いかたへの改革です)、ボディメイクと趣味にしていた運動の仕方を変えました(いまでは自宅での筋力トレーニングと外での軽いランニングも再開しています、なにせこの運動ならばしてもいいと自治体が言ってますからね・笑))

 

 多くの人々が今回の流行病のこと(故・志村けん氏のその死を今回の流行病への身を張った警句として語った者は小池百合子氏と同じ知性の在りかたを持つ者だと自覚しないといけません。僕は小池さんは政治家として嫌いではないのですが、多くの人々は嫌いでしょう)と共にオリンピックのことを語っています/語っていました。

 

 それが現在の社会状況に参加するための掛け金のようにしてです。あるいはそれをいま自分がいる場所からどこかほかの場所に行ける、あるいはほかの人に出会うためのチケットのようにしています。オリンピックを掛け金にできるのは本来的には参加する選手と現地で観戦する者だけでしたが、すぐに政治家が加わり、テレビジョンを通しての観戦者とセットになるようにビジネスに関わる者が加わりました。そして現在では誰もが(語ることで)オリンピックを自分の掛け金にしている状況です。いま僕が書いているのは税金の使いかたへの議論ではありません、人々の混乱に関する議論です。オリンピックのことを語っている人々のうちのどれだけが実際の観戦者になるのでしょうか。オリンピック反対派の中には、オリンピックだけが中止になると思って反対している人たちが多くいます/いました。そう思い込んだ混乱を抱いたままの議論はオリンピックを、現在の社会状況をどうにもしません。一度は冷静になるべきです。それからオリンピックの話題が自分の掛け金/チケットになるか考えて、語ればいいのです。ついでにパラリンピックのことも必ず忘れずに。

 

 紅茶は良いものです。紅茶の一番良いところを臆面もなく語ると、世界的に流通するどの茶よりも(現在では)安いところです。人はコスパが良い、といいます、現在ではコストパフォーマンスという概念は決して良いことばかりではない、という考えかたが広まってきました。なにせそれは剰余価値のたまものというか、どこかの誰かの給料を削っていることと同じですから。そして紅茶とは大英帝国の植民地支配こそが安定的な供給を作ったものであり、砂糖の歴史などと同じく、コストパフォーマンスここにあり、なものなのですが、安いことは安いです。同じような歴史を持つコーヒーよりも安いのだから驚くべきことです(現在では茶葉を生産する国の、主要な輸出品として、優れた商品としても機能しています)。

 

 言を繰り返しますが、紅茶は良いものです。紅茶は季節そのものの味がします。春の紅茶は菜の花のお浸しのようなうま味と苦味を持ち、夏のアイスティーは冷たさそのものを飲み味もそれを邪魔せず、秋はぬくもりを、冬はあの湯気の柔らかさを飲めるのです。

 

 最近の僕はリプトンの青缶ことセイロンブレンドを改めて評価したり、同社のアールグレイを飲むなどしながら、体力の回復期に伊藤園の茶葉販売店にも赴きました。そこで見つけたのは日本の静岡県は両河内で栽培されたもので、大英帝国の植民地にはならなかったどころか、ある時代は同盟関係であった日本の現代において紅茶が栽培されているということ自体は、植民地うんぬのパースペティクブでは語れず、紅茶というものは違う性質を帯び始めていることの証左です。と話が少々脱線しましたが、この両河内がとても美味しかったんです(笑) ヌワラエリア的なすがすがしさと渋みを持ちながらも暖かさがある落ち着いた気分になる味でした。

 

 かの国では紅茶は万人の飲み物であり、シティの投資家から、地方の資産家、労働者も飲むといいます(イギリスにも行ったことがない僕にとっての紅茶の海外とは、書物の中のパリのように、映画の中のアメリカのように、音楽の中のウィーンのように、創造の、空想のなかにしかありません)。

 

 言を再び繰り返しますが、紅茶は良いものです。僕は2月の初頭から3月の中ごろまで、熱く濃く紅茶を入れ、カップの底に氷砂糖を落とし、そこに紅茶を注ぎ、最後にカップの淵から落とすように生クリームを垂らす、北ドイツで行われているという飲みかたを良くしていました。生クリームを入れた後には決してかき回さないのが、星の林の隣には月の船が必ずあるように重要なことで、砂糖の塊が熱い茶で崩れる音を聴覚で楽しみ、雲のように広がる生クリームを視覚で楽しみながら、最後にやってくる砂糖の甘さをふくめて味の変化を味覚で楽しむのです。この楽しみかたをする紅茶が甘い、濃いのはもちろん、滋味を強く感じる飲み物であり、ドイツの北海に面する地域でこの飲みかたが昔から好まれているわけが分かったような気分にもなりました(山岳地帯の国では、コーヒーに山羊のバターを混ぜるように。です)。

 

 様々な人々が適当なことを言えることこそが自由である、とは人文主義が誕生して以降の半分くらいの人類のテーゼではありますが、大衆の加熱する舌は(デマなどの悪質なものがなくとも)大衆自身の未来を捻じ曲げてきました。冷静になってから、それが自分の掛け金になるかどうかを考えればいいのです。ならないならば捨てておけばいいし、掛け金とは切った張ったの上にある(勝敗が明確になる賭博である)ことを理解した上で、そのあとで、どこかに張ればいいのです。そして勝ち負けをきちんと受け取ればいいのです。古代の井戸端会議、という賭場が小さい時代ならば自身が博打を打っていることに無自覚でも良かったのですが(最悪でも飛ぶのは自分の指だけです)、賭場が中央競馬場の如く大きくなっている現代では、賭博を行っていることに全員が無自覚ではその影響が小さなものでは済まなくなっているのです。

 

 かの国では紅茶は、博打の場でも欠かせないものでした。

 

 

  以上の文章は在日スリランカ人が経営する会社の商品である、スリランカ産の茶葉をブラックティーにして飲みながら書いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

(流行っていないほうの)肺炎にかかって悲嘆するサキソフォニストが選ぶ美味しいお菓子トップ10!

 ない。そんなものはないんだ。このウェブログは僕が書いたエセーを日々掲載するつもりのものだったのだけれど、様々な理由(主にそんな暇があるならばテナーサキソフォン演奏の練習に時間を使いたいという理由)でその目的を阻んでいた。その根本的な原因を精神分析学に求め、フロイトに範を求めるならばすべては無意識の行いであり無意識は意識できないゆえにその答えは僕には分からず、ユングに範を取るならば集合的無意識に文章と音楽との組み合わせは悪いということを知ることになり、アドラーに求めるならばそれは僕がエセーを書きたくないからだ、となる(なぜ本邦では近年これだけアドラーの思想を広めんとする書物が売れているのにも関わらず、そのもっとも重要なテーゼである「不幸な者は不幸で居たいからこそ不幸なままなのだ。不幸な状態にこそ安堵しているからこそ不幸のままでいるのだ」というものが広まっていないのか。もちろんその理由は本を出す側がその点をオミットしているから、よしんば描いていてもそのハードさに耐えることが出来る読者が少ないからだ)。そして僕は体調を崩している時だけ、こうしてエセーを書くことができている。

 

f:id:motoki001:20200311025830j:plain

病弱と本と紅茶

 この場がこのまま病弱なときなだけ更新するウェブログとなれば、それはそれで文学的な行いにも思えるけれど、日本文学史においてそれはあまりにもありふれたものであることを僕は知っている。以前のエセーにも書いたのだけれど、各国の近代文学が特定の主題に寄ることは知られている。フランス文学の主題は金の話であり、ロシア文学は宗教の話であり、ドイツ文学は死と人生であり、日本のそれは病気だ。心身の病気を題材にした文学などは、日本では小説でも日記でもありふれている。僕の書くことはありふれている。

 


 2月のはじめ、僕は住処の模様替えを試みた。もともと、部屋は汚いほうではないけれども(そこを見た人には一度もそれについて呆れられたことも罵られたこともないから、これは僕の主観だけの感想ではないんだ)それでも、棚を動かしてはその裏で眠っていた埃を掃きだし、幾多の服を捨て、壊れてそのままになっていたオーディオ機器を捨て(その時までの僕にとっての音楽は、サキソフォンやギターや電子ピアノで自分で演奏するか、スマートフォンにイヤフォンを差して聴くか、たまに行くライブ(多くの音楽家が、人が開く音楽会に行くことは実は少ない。仕事や練習に忙しいからだ)で演奏家の奏でる音楽を目の前で聴くものだった)、多少の本と家具を捨てた。なかでも長年使っていたベッドにも変形するソファーを捨てたことは大きな出来事だった。このソファーの上で僕はいろいろなことを学んだんだ。自分の入眠と起床の感触を、如何に眠りが魅力的であるかを、自分が成人してから高熱にかかった時には滝のような汗を出すことを、人が快楽によって出す声の音高がどうやって変化していくのかを(人が快楽を感じることで発する声は緩やかな曲線を描くように上がっていくのではなく、段階的に上がり、最後は無声の、金切声も超えた、息を何とか吐きだすのがやっとのような、声にもならない声を出すのだった)。それを僕の住んでいる市に依頼して粗大ごみの回収に出した。かかった金はわずか1000円だけだった。

 

 そして新しいベッドと本棚を設置して、部屋の模様替えは無事に終わった。古いソファーにさようなら、新しい熟睡にこんばんは。ついでに細やかだけれど新たなオーディオ機器も手に入れた(これで家でもCDを再生できる。バイラルの再生機器は壊れていたので捨ててそのままだ)

 

 というところで体温39度を超える熱が出たんだ。この時は病院にも行けない状態で大変だったよ。いま世間を騒がせている新型のウィルスに罹患した心配はまったくしなかった。熱が出るのは体力がある証、と昔から言う。それから24時間が経過して体温が37度台にまで落ちてその通りだなぁと納得する僕をすぐに喘息のような症状が襲った。荒い呼吸と咳が何日も止まらない。もしや……と嫌な予想が頭をよぎり、その結果は肺炎だったのだが、流行のものではなかった。隔世の感がある。もともと、人に楽器の演奏や理論を教えたまに作曲をし、あるいは女性に奉仕をし、自由な時間は楽器の演奏の練習に使っている人生であり(と書くと、「優雅な生活だ」と思う人がたまに現れるのだが、僕の人生は畳の上では死ねないものだろう)それも僕はジャズのビバップが好きな者であり、僕の人生の多くを占めてきた音楽がそれであるという時点で、隔世の感があったのだけれど、僕の病気までもが流行とは離れている。そこにも隔世の感があることに深い納得を得るとともに、僕は一人で春の黄昏る空を見ながら笑ったのだった。フレイザーが『金枝篇』で唱えた感染魔術とその予防法のごとく混乱している社会からも僕の病気が離れている。そんな状態が一か月ほど続こうとしている。

 

 このときは、自分の音楽に関する技術も理論も大きく進んだ、といった最中であり、住処も新しくなり、次に進むという時期で……。というところで僕は大きな足止めを喰らっているのだった。この原因をフロイトに求めるのか、ユングに求めるのか、アドラーに求めるのかで答えは変わる。原因とはまず初めにあるものではないんだ。まず気に食わない結果(出来事とか事故とか病気とか)があってそれからその原因が生まれる。たとえば自動車のドライヴァーが無免許/飲酒運転をしていても、なにも起こらずに無事にその運転を終えていれば、その時点では無免許も飲酒運転も原因とは言わない(無事に運転を終えることが出来た原因は飲酒運転していたからだ、という想像力を持つ人は稀有な存在だ)。事故が起こった時に初めてそれらが原因として名指しされるというわけで、だからアドラーは「不幸な者は不幸な状態で居たいからこそ不幸なのだ」と言ったのだった。僕は”アドラー派”ではないのだけれど。

 

 日課としていた楽器の練習も運動もできないなかで、僕は気が付いたら多くの書物を購入していた(文章と音楽の関係性)。手に入れたのは以下の本たちだ、なかには学校や自治体の図書館で一度は完読したものもあるけれどまた手にすることを僕は選び、読み進めているのだった。

 

・『モードの体系』ロラン・バルト

・『エクリ』ジャック・ラカン

・『ものぐさ精神分析』『続 ものぐさ精神分析岸田秀

・『純粋理性批判(上中下)』『実践理性批判イマヌエル・カント

・『意味がない無意味』千葉雅也

・『哲学の教科書』中島義道

・『ヒッチコック映画術』フランソワ・トリュフォー

・『ジャズ・アクネドーツ』ビル・クロウ

・『大いなる眠り』レイモンド・チャンドラー(上のものと合わせて村上春樹翻訳版)

・『渚にて』ネヴィル・シュート

・『やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい(2)』芝村裕吏

・『指輪物語(計9巻)』ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン

・『アドヴェント・カレンダー』ヨースタイン・ゴルデル

 

 これらの本(ブルガーゴフの『巨匠とマルガリータ』やコジンスキーの『異端の鳥』や蓮實の『『ボヴァリー夫人』論』やバルトの『s/z』やノーマン・メイラー全集なども買いかけたが破産するのでやめた)と、オーディオ機器のおかげで退屈はしていない(もちろん嘘だ。退屈とはなにか1つに夢中になれればその気が全て紛れるものでもない)。音楽はアースウィンド&ファイア(彼らの音楽はダンスとはなにか?ということを教えてくれる。それはこの最高のファンク/ソウルバンドの奏でる楽曲自体が既に踊っているからで、だから、ダンスとはその踊りかたが華麗でなくとも上手くなくとも、体を動かすことが出来なくとも、まぶたしか動かせなくとも、音楽に合わせたつもりで動いていれば、それがダンスであることを、僕は以前罹患したノロウィルスとの戦いの最中に知ったのだった。ブラックスキンの人々への差別があふれ、アメリカという国内にも、ベトナムという戦地/海外にも居場所をなくし、ファンタジーか宇宙にまで居場所を求めた、差別溢れるなかで作られた、愛と多幸感に溢れた曲を聴きながら)とスティーブ・グロスマン(彼の吹くテナーサキソフォンの音色がいまの僕の呼吸器の状態と一致して聴いていて心地が良いのであった)の音楽を聴いていた。

 

 ダーティーな時はとことんダーティーに、ラギットな時はできる限りラギットに振る舞う。という左翼文化人性にまったく染まっていない僕は、自分の体を労わるひな鳥のような慎重さでこの時は飲酒も一切していない。その反動で、というか、日常はアルコールから摂取していた糖分を補うためにだろう、体が求めた甘い菓子をよく食べた。それもデパートの地下や、焼き菓子の専門店で買うものではなく、家の近所にあるスーパーマーケットで売っているものに限った(流行ではない、とはいえ肺炎なので人込みは避けている)。つまりそれはブルボン、だとか、ロッテ、だとか、明治、だとか、日清というもし、かの菓子のメーカーの名前だと知らなければ歴史上の名称が並んでいると思うだろう、スーパーマーケットの陳列棚に宝石箱のように並べられた、いつでも日本の菓子の王道にして郷愁の情も誘う(僕は東京生まれでいまも東京に住んでいるのだけれど、それでも)あの菓子たちを買うに限った。そこは味と食感との再会と新/再発見の喜びに満ちていた。コンビニで売っている自社ブランドの菓子も多く食べた。いまやコンビニが売る食品は食通も唸らすほどの出来であり(特にセブンイレブン)、自社ブランドの菓子も上にあげたメーカーが作っているという話も聞くけれど、それでも味も食感の良さも大差あった。この手の菓子を買うならば、スーパーマーケット(orドラッグストアーだ)。

 

 それに合わせるように久しぶりに紅茶をよく飲むようになった。僕は喫茶といえば、マテ茶から、コーヒー(家では直火式エスプレッソで入れたモカを飲み、外ではドリップで作られたものを飲む)、ウーロン茶、白茶、緑茶、ハーブティールイボスティーと多くのものが好きだが、なかでも紅茶が好きで、これはあるとき僕が、他人が運転する自動車に後ろから追突され跳ねられ、その苦しいリハビリ生活のなかで覚えた趣味で、それ以来僕の友人だったのだけれど、気が付いたらそれも熱心には飲まなくなっていた。ところにまた体調を崩した僕のもとにその友が現れたのだった。それからしばらくたって、いまになって、やっと僕の身体はもとにもどりつつあるのだった。フロイトユングアドラー。どれが正解なのだろうか。

  

(流行っていないほうの)肺炎にかかって悲嘆するサキソフォニストが選ぶ美味しいお菓子トップ10!

 

10、リーフィ

9、ホワイトチョコレート(明治)

8、バタークッキー(ブルボン)

7、チョコダイジェスティブビスケット

6、ココナッツサブレ トリプルナッツ

5、アルフォートミニチョコレートメープル

4、ガーナローストミルク

3、アルフォートミニチョコレートメープル

2、チョコ&コーヒービスケット

1、ココナッツサブレ 発酵バター

 

 

 

 この文章はボリス•ヴィアンの誕生日に書いた。

 

 

 

 

 

それはそうと再びウイルスに蝕まれている、ストロースとコンラッドそしてメシアンに癒しを求めて+胸の中身のかたち+ゲームで音楽/戦争と平和(常体)

前回のエセーの〆で次の更新までにはあまり時間がかからないだろう、と書いたもののもう既に4ヶ月弱の時が経っている。その言い訳をするためにこれから再生されたカセットテープやヴィデオテープやCDやDVDやブルーレイディスクのように以前と同じようなことを書くことになる。

grishommeに前回、前々回掲載した文章の内容にあるように、私がエセーを書けない理由はテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからであり(これはとてもダメなことだ)、エセーを書ける理由はそのときこの楽器の練習をしてないからなのだが、つまりこうして今回エセーを書いているのは後者の理由によるものであり、その理由は前回のエセーに書いたのと同じく私が体調を崩しているからだ。具体的には咳が止まらず夜も寝られない(日中も咳が頻繁に出るのだが、寝ようとすると身体が温まるのでその瞬間に咳がより出やすくなる。)。前回のエセーも体調を崩しているあいだに文章を書いて掲載した。今回のエセーも体調を崩しながら書いている。病気になった時だけ文章を書きそれを他者に公表しているようではまるで日本文学である。フランス文学の主題が概ね金銭であるように、日本文学の主題は概ね病気である、ということは文学を嗜む者たちの共通的な認識だろう。これでは私のこのエセーは日本文学である。ではどうせなのだから日本文学の真似事をしてみよう。私はいま病人である(大したことのないものだ)。

しかし本当は短編小説の『A soft machine with green and pink colors(緑色とピンク色のぶよぶよとした機械)』というもの(カフカの『審判』のようなもの)を書きたいのだが体調が原因でそんな気分ではない。先日観賞した横浜で行われたジャズのライブにまつわる一連の出来事をエセーとして書きたいのだがこれも気分ではない。自慰行為をしてもいいのだがあまりそんな気分でもない(これを古い言葉でマスをかくと言う。というのはいまでは筒井康隆のみに許されるジョークだろう)。すべては気分で行っているからダメなのだろう。気分でものを行わないほうが正しいが、とはいえそこには色気が皆無だ。

 

 ストロースとコンラッドそしてメシアンに癒しを求めて

すべては蓮實重彦が悪い。と書いても私の書いた文章を逐一読んでいる、という好事家のなかの好事家のかた以外には意味不明な文章だろう。正確には蓮實重彦が書いた2冊の著書が悪い。2冊の著書とはこのフランス文学現代思想研究者にして希代の映画評論家が書いた『表層批評宣言』『反=日本語論』という本のことだ。私が先日掲載したエセー(とはいえそれは今年の四月のことだが)では体調の悪化を書きその理由を(ウイルスにおける一般的な知識は有しているものの(つまりそれはほぼなにも知らない、ということだが・笑))『表層批評宣言』を読んだこととした。この本を読み始め具合が悪くなり、読み終わったところで回復の兆しが見える、という経験をした。あのときは咳と汗が膨大に出てベッドを水浸しにした。それを代償とすることでこの本を読み終たとき=体調が回復したとき私自身になんらかの変化があるだろうことを予想して書いたがそのとおりになった。変化とは思考や文章の書き方のことである。そんなのはただの(いつでもどこでも起る、ある本を読んだことによる)影響のことだろう、と言う者もいるだろうしそのとおりなのだが(特にいつでもどこでも起る、という部分は)、そう軽々しく言う者には恋愛から創作の分野においてまで影響と変化のことなどはなにも分からない。

そんな変化をしたあとの私は再び蓮見重彦の本を読んだ。『反=日本語論』である。その内容は書かないが(『野比』を書いた大岡昇平が書いた『萌野』に嫉妬した著者が書いたエセー、というのが正しい紹介だろうが)。読み始めた当初は具合はまあ普通だったのだが、終盤に差し掛かったところで具合が悪くなり、読み終えた頃には咳のせいで夜も眠れない、という状態になった。『表層批評宣言』のときとは逆の症状進行の仕方だ。そんな中でも癒しはあった。なぜならば癒しを求めたからである。求めた末に得た癒しなどは2流の癒しだが(本当の癒しは思いもよらぬ方法と仕方で与えられる)、無いよりは良い。

(ちなみに前回のときの癒しはアースウィンド&ファイヤーの音楽だった。あんなダンス/ディスコ/ファンクミュージックを具合が悪い時に聴いてどうするんだ?、と仰る方もいるかもしれないが1度試してみれば分かる。このバンドの音楽はそれ自体が踊っている。だから聴者が踊る必要はない。なんらかの理由で踊れない者は彼らの曲を聴けばいい、それはもはやあなたが踊っていることと同義である。からだ。このグループが他のバンドと一線を画すのは/彼らの音楽に愛が溢れているのはそれが理由だ)

今回癒しとして利用したのは、フランス人文化人類学クロード・レヴィ=ストロースが書いた旅行記『悲しき熱帯』とイギリス人作家ジョセフ・コンラッドが書いた小説『闇の奧』そしてフランス人作曲家オリヴィエ・メシアンが書いた『世の終わりのための四重奏曲』だった。日本人の病人である私はマスはあまりかかなかった(というのはいまでは筒井康隆のみに許されるジョークだろう)。

レヴィ=ストロースが書いた旅行記『悲しき熱帯』は私が今更ながら読んでいる本で(いまさらながら、というのが私の人生を貫くタームの気がしてならない。タームという言葉には"用語"という意味と"期間/期限"という意味がある。いまさら、という言葉はタームである)あり、より正しく語るならば、読む前は読むのが憧れの本で手に入れてはからはページが進まなかったが具合が悪くなることで再びページをめくることが出来た本、だ。

ここから話が少し複雑になる。

のだがその複雑さを正しく描くことが、文筆家として好事家のみなさんへの、そして読者としてレヴィ=ストロースの著書へのまっとうな行動になるので前もって許していただきたい。私が『悲しき熱帯』を読み進めることができなくなったのはこの本の内容が、レヴィ=ストロースが1930年に行ったブラジルへの教師としての着任と文化人類学の実践に関する旅行記でありブラジルの民族を対象とした文化人類学書物である、と言われているのにもかかわらず、実際のこの書物のなかではなかなか南米への旅が、そしてそこで行われる文化人類学の試みが登場しない、ほどに複雑な構造をしているからだ。

1941年、レヴィー=ストロースが欧州を襲う戦渦から逃れるためにマルセイユからマルティニーク島そしてそこからニューヨークへと赴く(正確には彼もまた兵士であったが、1940年のフランス敗戦により任を解かれたことと彼がユダヤ人であったこと、そして有能な学者であったことが重なり、ロックフェラー財団の計画によりアメリカの学校に招来されたのだ)船旅の道中、もはや神話かカフカの著書『城』のなかで主人公の身に降り掛かる事態のように、戦渦の直接的な影響、そしてある地域をべつの地域が所有すること(端的に言えば植民地のことだが)で生じる混乱の間接的な影響を受け、この船の進行が度々止められ、更にそれらのトラブルが語れる最中に1939年の開戦に際してレヴィ=ストロースがブラジルからフランスに帰国する話が挿入され、さらにその話のなかでその数ヶ月前にボリビアから飛行機に乗るはずだったがそれが空港にやってこないという話が挿入されるのだが、この2つの挿話の主題は旅行や大陸間の移動の進行がどれだけ不条理な理由で止められるかでということであり、つまり進行が止められている船(1941、フランス→アメリカ)の話の中で、過去に起った似たような船旅(1939、ブラジル→フランス)の話が挿入され、更にそこで過去を振り返り乗れなかった飛行機(1939、ボリビア)の話が挿入されるという、移動出来ない話、のオンパレードであり、この挿話が終わってもいまだに1941年のレヴィ=ストロースはアメリカに着いていないし、故に1930年代のブラジルの話は始まってすらもいない。『悲しき熱帯』のなかで彼は地理/時間を跋扈跳躍しているが、旅は進んでいない。この本は複雑な構造をしている。

そんななかで彼の乗る船舶(1941、フランス→アメリカ)のトイレが刻一刻と汚れていくことを描写している場面(繊細なかたを考慮して詳細は書かないが、臭いに関する描写が……おえっぷ、失礼。ともかくそれは人間の糞尿が放つ臭いに、照りつける太陽の光と潮風と海水が悪臭の発生にどれだけ寄与しているのか、ということに関する希代の文化人類学者の目を通した描写だ)あたりで、読者の私はページをあまり進まめることが出来なくなったのであった。のだが私はそのトイレの描写に嫌気がさして読書の速度を落としたのではない。トイレに関する酷い描写、ならば偉大なジャズベーシストのチャーリー・ミンガスの自伝『敗け犬の下で』で書かれている精神病院のトレイの描写(彼は自分が常に怒り狂っていることに嫌気が差し、自ら精神病院の門を叩いて(比喩ではなく、本当に門を叩いて)ここに入居したのだった)のほうが強烈だった。

『悲しき熱帯』は私がこの本を手に入れる前は読むことが憧れの本だったのに、手にしてページをめくる度に読み進める速度が落ちていったのは、この本の構造が読書を拒んでいるから、だろう。というか文化人類学者として赴いたブラジルでの出来事を恥じているかのように、その部分を書いた文章を読まれることを出来る限り延期しようとしているように、この本はその手前が饒舌なのだ。船舶のトイレの描写がなぜあれほどに詳細なのか、なぜ旅の進行は止められるということを何度も書いたのか、これを饒舌といい、嘘をつく男が饒舌になること(つまり真実を遠ざけようとすること)は幼児でも知っていることだ(念のために書くが、レヴィー=ストロースの著書の内容が嘘だと言っているのではない)。

イギリス人作家ジョセフ・コンラッドが書いたベルギー王レオポルド2世私有地時代のコンゴを描いた小説『闇の奧』はフランシス・フォード・コッポラ監督が撮ったインドシナ戦争を舞台とした映画『地獄の黙示録』の原作であり、この映画を下に2kゲームスが制作した近未来のドバイを舞台としたビデオゲームである『スペックオプス ザ・ライン』やジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督の映画『キングコング 髑髏島の巨神』の元ネタになっており、さらにはデヴィット・イェーツ監督の『ターザン:REBORN』の元ネタにもなっており、いやそもそもディズニーの『ターザン』では巧みに隠匿されているけれどエドガー・ライス・バローズが書いた原作の小説『ターザン』でも彼の生まれはコンゴなんだ、いやディズニーがアニメ化したのはキプリングの『ジャンングルブック』のほうだろう、いやディズニーは両方映画化しているんだよ世界二代アフリカ野生児物を両方映画化しているんだ、ああそれも手塚治虫の『ジャングル大帝』をおおっぴらにパクった『ライオンキング』もな、やつらはやっぱりアフリカにオリンタリズムを抱いているんだよだから一度エドワード・サイードに説教されたほうがいい、それを言うならディズニーがじゃなく白人がだろう、とか言ったことは既に世界中で5兆回は語られていることだろうから省くが、私は自らの咽喉が発する咳に責められながらこの本も読んだ。

主人公に話しかけるマーロウという男の語りが描写されているこの物語は(マーロウが主人公だと勘違いしている読者もいると記憶しているが本作の主人公はマーロウの(嘘か真か分からない)話を一晩中聴いている名も無き男だ)貿易会社に所属する船乗りのマーロウが具体的な目的も無くコンゴ川を上っていく場面が大半を占める(マーロウの目的(任務)がアフリカの奥地で白人酋長となり象牙の略奪を行っているクルツを連れ戻すことだと思っている読者もいると記憶しているが、マーロウはクルツの存在など物語の中盤まで知らず、また彼と合って自分がなにをすれば良いのかも最後まで分かっていない)のであり、大半を占める、と読者(私のことだ・笑)に書かされるのだからやはりこの船も様々な理由で目的地までなかなか辿り着けない。

『悲しき熱帯』と『闇の奧』は旅/旅行(それも両方とも仕事に関するもの)の進行は理不尽に阻まれる、という点を同じくしてそれが物語の1つの主題になっている、という点で同じであり、またその点で船は世界間を移動するための装置というよりも、世界間を移動することがいかに理不尽に難しくされてしまっているかを現す装置として機能している点でも似ている。違うところは『悲しき熱帯』のレヴィ=ストロースが父的なのに対して『闇の奧』のマーロウは息子的で、これは前者が教師であり後者には(狂った父親である(狂った父親とは、フロイトから始まる精神分析学では神のことである))クルツがいることの違いだろう。

メシアンに話を移す。メシアンはもっぱら『世の終わりのための四重奏曲』ばかりを聴いていた。この曲は第2次大戦中にフランス人のメシアンがドイツで捕虜となりその収容所のなかで作曲された、という逸話などはこの時はどうでもよく、本作がメシアンが作曲した作品のなかで1番気軽に聴けたから(物理的に、手の届く位置にあったので・笑)という理由があったに過ぎない、のだがつまりそれはメシアンの音というものがイメージとして確立されているということの証左であり(少なくとも私には、だが)、チャイコフスキーの『クルミ割り組曲』をカバーしてもスウィングしまくっていたデューク・エリントン楽団のようにその音楽家固有の音がある、ということには賛否両論あろうが、私はそれを、それが商売なのだからそれで良いだろうとしている。ともかく私はメシアンの音のイメージを欲したのだ、というほど立派なものではなく、バッハではポップすぎるしハイドンは爽やかだしモーツァルトやベートーベンでは甘過ぎるし、ミュジックコンクレートは聴きたくない、と来て丁度良い塩梅なのがメシアンの音だったという程度のものに過ぎない。私の行為に立派な理由があるものなど1つもない。

こうしてレヴィー=ストロース『悲しき熱帯』コンラッド『闇の奧』メシアン『世の終わりのための四重奏曲』という三題噺が終わった、というほど立派なものではない。私の行為に立派な理由があるものなど1つもない。ともかく私はこの3つのものを滂沱の咳が出る日常の癒しとして使い、それどころかその状態を利用して書物を読み進め音楽を聴いたと言っても良い。治り始めた時期にこのエセーを書き始めた私の容態はいまでは8割ほどは回復した(いまでも咳は出る)。コンラッドの著作は読み終えたが、『悲しき熱帯』は再び読めなくなり、メシアンの曲はいまでは聴く気分にもならない。私はいまでも病人である。

 

 胸の中身のかたち

(話題が話題なので、同じ病気になったことのあるかたや現在闘病中のかた(およびそのご家族や知人友人)に不必要な負担を与えないために、無駄なサスペンデッドを避け結論から書くが、闘病は無事に終わった。ことを始めに書いておく)

繊細な話題なので暈すところはあるが、私の家族である女性(以下、彼女と書く)が乳がんにかかった。(これから何度も繰り返す言葉になるが、1番辛いのは当の本人であることは書くまでもないことだが)私の体調不良の直接の要因は、彼女がこの病気と闘病するに際して家族として私が通院の付き添いから病院/医者への対応、入院中の面会などをしたことによる疲労だろう(闘病をした当の本人が1番疲労しただろう、ということは書くまでもないことだが)。

彼女が自身の胸にしこりがあることを見つけ、医者の診断により乳がんの可能性が大きいことを知らされ急遽私が呼ばれたときから、様々な検査をして治療に関する説明があり入院して手術が終わり退院するまでが二ヶ月ほどだった、当時もいま思い返してもあっという間の時間だった。私は乳がんを取り除く手術は順調に行けば僅かな期間で終わることを知った(とはいえ、当の本人にとっては長い時間だったかもしれない)。そして術後のケアが終わるまでに更に一ヶ月、現在は再発を防止するための薬物投与の方針を決定する段階の大詰めである、あと一回の通院で以降は経過観察となる。

手術前の検査で、彼女の子宮にもしこりがあることが見つかった。これが判明してちょっとした手術(これは彼女を担当する医者の弁だ)のような再検査を終了するまでが二ヶ月(乳がんの術後退院したあとに行った)。幸いなことにこちらは癌ではなかったので、経過観察をすることに決まった。

乳がんと子宮がんの治療に付き添うとは、病院で多くの同病の患者である女性をたちを目にすることだ(見る。ではない。そんな失礼なことはしない。のだが病院の待合室や、病室にその人々はいるのであり、それを無視することを私はしていない)。これはとても辛かった(闘病中のご本人が1番辛いだろう、ということは書くまでもないことだが)。

市川海老蔵という歌舞伎役者とその妻のことは時事ネタに疎い私でも知っている。市川海老蔵のことについても知っている(少しは知っているなどとは書かない。人の名前を知っているということに、あまり、とか詳しく、とかいう数量は存在しない)。なので彼が妻の闘病に付き添ったことも知っているが、彼のような生き方をしてきた男が、闘病中の妻を、そして病院の待合室に並ぶ/病室に居る人々を目にすることは、罰せられるかのごとく辛いことだっただろう(闘病をした当のご本人が1番辛かっただろう、ということは書くまでもないことだが(この部分のこの言葉は、同じ言を繰り返しているのではない。いままでとは意味が異なっている))。

私は術後に通された手術室前にある部屋(インフォームド・コンセントルームとかいう名前がついていたはずだ)にて執刀医と会い、乳がん摘出手術が完了した旨の説明を受る最中に、いま切除されたばかりの彼女の胸の中身を見た。癌(腫瘍)も触った。このエセーの始めにサスペンデッドな内容にしないことは書いたし、ショッキングなことを書きたいわけでもないので詳細を書くことはしないが、触った腫瘍は石のように堅かった。子宮に関しては大きな問題は今のところないという診断が出たわけだが、子宮も切除していたのならば、術後に私には同じようなことが起っただろう。

女性の乳房は母親のものから始めて、血のつながっていない複数の女性のものを見て触りしゃぶって来た。女性器の奧にある子宮の入り口には触れたことがある。この闘病に付き添ったことを体験とか経験という言葉にすることはできない(なぜならば、闘病をした当の本人においては、まだそれ(闘病)は続いていると想像できるし、体験した、とか経験した、とかいう言葉は過去形の言葉なのだからこれを使うことは出来ないし、そもそもこれを体験とか経験とか言ったら彼女に対して失礼だろう)ともかく私は、女性の胸や子宮(を通して女性器全体)に対するイメージを変えた。

イメージという言葉をいま使ったが、女性の胸や性器はいままではイメージだったが、それがより生々しい存在に変った。胸は、女性器は、臓器なのだ。と書いたほうがいまの私の心境に近い。いままで何人もの女性の胸や性器を指で舌で触ってきたのに。胸や子宮が臓器であることは女性にとってはきっとあたりまえのことだろう(それに対して、男性である私にとって男性器は玩具とか相棒とか言う、小学生でも喜ぶような下ネタの雰囲気とイメージと、いまでも感慨が近い。男性器に関連する病気になったら、それも変るかもしれない)。私にとって、女性は胸や女性器というイメージを持つ人々であったのだが、いまでは、女性は胸や女性器という臓器を持っている人々である。私はボンクラである。

 

ゲームで音楽

アイドレス、という大人数協力型のゲームがある。好事家のかたならば私がゲーマーであること(このエセーの4回目の記事で宣言した)や主催者の芝村裕吏さんと私の関係もご存知だろうし、初耳というかたはそのままでよい。ともかくこの200人ほどが参加するアナログなネットゲーム(おかしな書きかただが仕方がない。アイドレスは主に文章の交換とプレイヤー同士のコミュニケーションで進行するアナログなゲームだが、プレイにはインターネットを使用し、判定にはAIも利用されるからだ)に私も参加している。

このゲームと私のプレイングの詳細は省くが、アイドレスでは自作の音楽も提出しこれを利用してゲームの進行を有利に進めることが出来る。のでプレイヤーではあまりにも少ない(多くの者は文章と絵を書く/描く)音楽制作者としてそれを行い、1ヶ月ちょっとで10曲ほどを制作した。

アクション映画のテーマ曲を想像してこれを作り
希望世界のマニファクチュール
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/iyxrcv7axm5f

交響詩としてこれを作った
交響詩『イリューシア』/第一番 嬰ハ短調『希望』
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/quau1zetofo2

コミカルなものではこれを作り
蛇のおっちゃんのテーマ曲
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/3kx6fakmygll

ピアノ曲ではこれを作った
そのときの祈り
https://soundcloud.com/pytbtp3nujmt/uhu6scfli87v

ゲームにプレイヤーとして参加して音楽を作る、ということを経験したことのある者は世界を見ても少ないだろう。その経験者として言うがこれはとても音楽の制作が捗る環境だ。気楽、とも書くことができる。いまでは私は曲を書きマスを書き生きている(というのはいまでは筒井康隆のみに許されるジョークだろう)。

 


次のエセーはもっと早く書きたい(筒井康隆ジョークはもういれない・笑)。grishommeは常体と敬体という2つの文体を使い分けることを1つの掛け金としてエセーを書いている。次のエセーではそのどちらを使うかを考えながらその技を磨いていく。もはや季節は秋だ(と思ったら暑い日がやってくる。寒さ暑さも彼岸まで、という言葉はもう古い言葉なのか)、好事家の皆様はどうか季節の気まぐれにやられぬように、皆様の健康を祈りながら今回は筆をおく。

 

 

.

花見。料理をする男たちを眺める愉悦+それはそうとウイルスに蝕まれている/言葉(常態)と物

料理をする男たちを眺めること/紅茶

先日掲載したエセーの〆で宣言したとおり期間をあけずに記事を更新する。ここまでの短期間で次の記事を載せるのはエセーにしても小説にしても私にとっては珍しく、私の文章を逐次追っている、という大変な好事家の方にとっても驚くべきことだろう。その原因は非常に明確で、私がなかなかエセーを書けない理由は先日掲載したエセーに書いたとおりテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからなのだから、エセーをすぐに書ける、ということはその裏であり、つまりいまはテナーサキソフォンの練習をしていないからだ。その理由は後述するがまずは先日参加した花見の話をしよう。

4月になれば例年開催されるとある趣味人の集い(から時をへていまは友人たちの集い、なのだが)の花見に私は毎年参加している(開催される、と私は書いた。つまりこの花見の主催は私ではない。また私はできる限りこの花見に参加している。つまりこの花見は良い集いなのだ。だから私は主催者の某氏に感謝を重ねている。今年も1つ感謝を重ねた)。参加者皆が持ち寄る酒は東西南北の銘酒ばかりであり、私のあまり知らない人々や他人がtwitterInstagramに上げる花見に持ち込まれたアルコールのラインナップ(の写真)と比べると、この花見に並ぶ酒のほうが10倍から100倍くらい凄く(ただし日本酒に種類は寄っている。さらにはわざわざ名前を出さないが、プレミア価格がつく日本酒は飲み飽きている人々が多く、故にあえてそこを外した酒が並び、つまり彼/彼女らはその点は好事家なのだが、自身が酒に関しては好事家であることに無自覚な人が多いのも好ましい(念のために書くが、酒に関して好事家であることは悪いことではない。いや、悪癖ではあるが・笑))更には参加者の一部の料理の腕が高い人々が自宅で作ったシャルキュトリーや煮物などの和食も振舞われ、更に生ハムの原木がまるごと1本持ち込まれるのだが、この花見の主役はそれではない、雰囲気である。良い雰囲気はそこに集う人々が作り出すものである、ということは言うまでもないが、それでもあの花見でもっとも良いものはあの雰囲気であろう。あそこならば、酒を1滴も飲まずに始めからその終わりまで眠っていたとしても良いものになるだろう。それが雰囲気、という場の力が持つ人々への効力である。雰囲気とは(言を繰り返すが)そこに居る人間が作るものであり会話や行動の結果ではあろうが、雰囲気とはそれらの総和以上のものである。そんなことは愛する者同士が見つめあい言葉が不必要になりその途端なぜか眠くなることや(興奮する場合が多いだろうが)、セックスの最中、それこそ挿入のなかで互いに眠りについてしまう経験から誰でも知っていることだが、つまり良い雰囲気の効力とは安心や満足へも波及するものであり、あの場にさえ居ればそれだけで良いということだ(先の例えならば、2人一緒に居られるのならばそれだけで良い/互いの身体が1つになっているのならばそれだけで良いということだ。もちろんここに友情の例えや、母と子の例えなどを並ばせることもできるのだが、文章の簡略化のためにそれは避ける)。念のために書くがあの花見に存在した良い雰囲気とは性的なものではない、それは言うならば愛だろう。

例年は代々木公園の桜の下で開催されるこの花見だが、今年は雨雲のせいで室内での開催となった。とはいえ、そこは「せい」などと書かずに「おかげ」と書くべきだろう。新年度の始まりから悲観的な言葉を使うのは良くないという判断もあるのだが(なんせ花見とはただの飲み会ではなく、その年の前途に訪れる幸運や健やかな健康状態を互いに祈り合うものであるから、なのだが)、なによりも雨雲のおかげで室内開催となった今年は、そのことで面白いことを多く味わえたのだから。という理由からである。

室内と言えどもそこは飲み屋やビストロやトラットリアやバルの類いではなく、四ッ谷に構える貸しスタジオ、であり端的に言えばテレビ番組『テラスハウス』のリビングルームのようなもの、であり黒のフローリングに白を基調としたインテリア/システムキッチンに長テーブルと椅子/グレイのソファーである。この描写は決して洒落たこと、に関するものではない(そもそも貸しスタジオや飲食店や小売店の内装は洒落た空間の模倣である、故にそこに本当に洒落たものなどはないのだが(ではどこにあるのか?といえば個人の家やその自室、あるは個人経営の店やアトリエに、である)、それは悪いことではなく、それとは別に居心地の良さ/悪さはあり、あの場所にはその良さがあった)。このエセーで重要なのはそんななかで私がなにを観ていたのか、ということだ。

題名のとおりである。そこにシステムキッチンがあることはすでに書いた。そして花見に参加する多くの者が無自覚/自覚的なアルコールにおける好事家であることも書いた。シャルキュトリーや和食などの料理、そして生ハムの原木が1本持ち込まれることも書いた。然すればそこで(酒にあう)料理が作られることになるのである。生ハムを薄く薄く切り分ける者がいる、それをレシピに取入れた料理を作る者もいる、ペーストやパテを切り分けパンに盛りつけアミューズブーシュを作る者がいる、それとは別にガレットや和食を作る者もいる。

こういった場において(私が知っている限りでは)それをするのは男子の役割である。また私が知る限りにおいて、料理は女子の役割である、という古い価値観で性別を観るならば、既に日常的に男子/女子の役割は転倒している(だから料理をする/しないごときでは個人の人となりは言えても社会全般の男女のことなどはなにも語れない)。花見でもそうなのだ。というか、男子ならば、女子がいる場所で料理の腕を振るうのは自身の魅力を振るうことにもなるだろう。というのは今/現代の共通認識だろう。

もちろんあの花見でも料理をする女性(シャルキュトリーを質/数的に一番多くのものを持ち込んだのはとある女性であった)は居たのだが、多くは男性であった。私も男ではあるし、毎日料理を作る人間だが、私がこの花見の中でしたことといえば宴もたけなわという時で、紅茶(しかも友人が茶葉を持ってきたもの)を入れて配ったくらいで、それ以外の時間は別のことをしていた、それはなにか?といえば題名のとおりである。

料理を作る男たちを眺めるのは愉悦である。あの花見でもそうであった。勘違いして欲しくないので書くが、花見の参加者の男女比は3:2くらいで女性は皆可愛く、と言っては芸が無いというかただの世辞にもなりかねないのでもう少し詳細に書くが、参加された女性の彩りも美しく、(こう書けば皆さんが魅力的でまた色々な方がいた、ということが短的にわかるはずだが)カチューシャで品よく飾ったボブヘアーが似合う方から、普段は会社務めの制服を休日は春の身軽なシャツと細身のジーンズに着替えた凛々しさと軽やかさと親しみが似合う方、和装をお召しになりシックな着物と羽織りと帯に合わせた半衿がモダンな色の市松模様という粋で鯔背で艶っぽいと評しても偽りのない方、まだ赤ん坊と言ってよい子を育てている真っ最中の子連れの女性の色気、とこのあとにまだまだ十数人の女性への魅力への言及が続くわけだが、一部を描くだけでもこの様子であり、故にその可愛さ満開の桜にも優る華やかなることが伝わると確信している。なのでこちらも分かっては貰えるだろうが、彼女たちの魅力が料理をする男たちよりも劣るとかそういったものではないのだ。

だが、あの花見で私が一番楽しんだことは、題名のとおりである。

料理をする男たちを眺めることは愉悦である。大手チェーンの回転寿し屋が寿司屋からその値段の差し引きの代わりに置いて来たものはなにか?それは素材の質などではない、それもあるのだがもっともなものは客の目の前から寿司を握る職人を排除したことだ(回転寿し屋でも1皿の価格が上がると、再び彼らが客の眼前に表れるのはその上がった分の価格の価値である)。寿司屋のあの値段の大部分が、ネタの質ではなく目の前で寿司を握る職人を眺めることへの対価である。屋台から始まったとされる寿司の起原は既に過去の話、食品の衛生と調理の効率を考えれば職人の仕事はすべて裏でさせたほうが良い(それが回転寿司である)。だが多くの寿司屋がそうしていないのがその証拠である。これを商売の始めから大々的に調理過程と値段に組み込んでいるのがいわゆる鉄板焼き屋である。グリルやダイナーといわれるアメリカンタイプのレストランで、客席の奧にあるガラスの向こう側のキッチンで料理人が、網の上でロブスターやハンバーガーのパティを焼いている姿を見せるのもそれである。バーテンダーが轟音を響かせてでもカウンターの向こう側の静謐を旨とする客席に向けてシェイカーを振るうのもそれである。ラーメン屋も、クレープ屋もそうである。これらは皆、料理をする男たちを眺めることの愉悦を商売に取入れている。

あれはオープンキッチンと言って客の視線を調理者に意識させることで彼らの職務に対する怠慢や質の低下を防ぎ、また調理過程を客に公開することで衛生面における安心感を与えるのだ、と仰る方もいるだろうが、(厨房で調理をしたことがある者、特にオープンキッチンでしたことがある者ならば良く知っていることだが)調理をする姿を人から見られていても手抜きも不正も簡単に行える。料理の和洋問わず、鉄拳制裁が飛び交う厨房のシェフたち(が客の目線を避けるため)に足技を覚えさせたというこのシステム(もはや国民的にアニメとなって久しいアニメ/マンガの『ONE PIECE』に船舶料理士兼陸戦員のサンジがレギュラーで登場し、彼の持ち技は足技であるというのはこういった事情を汲んでいる。と書くのは狂人の戯れ言だが・笑)のその意味を徹底するならば、衛生の面でも厨房はホールと切り離し完全別室にして、その厨房に監視カメラを置いそれと連動するモニターをホールに置き彼らの仕事を客に監視させておけば良いのだ。そうしないのは、明らかに、このシステムには料理をする男たちを眺める愉悦を客に味合わせる意味もあるからだ。とここまで書けばどなたにでも分かるとおり、ここでは調理をするものが男でも女でも関係がない、料理をすることを商いとしている者の真剣な目線と剣呑さとシャイさと朗らかさがあればなんでも良いのだ。

だがしかし、これは明確な男女差別なのだが、あの花見では料理をする男たちを眺めることが愉悦だった、それが女性では愉悦にはならなかっただろう。数人の男たち(年齢の幅は下は20代中盤から上は40代までだ)がシステムキッチンに向かい包丁で肉を切りフライパンを振るい鍋の中の熱湯を注視している。私は立ったままでカウンターに背を預け彼らを眺めていた、気分が良かったのだ、だからついうっかりと誰かが持って来たジャック・ダニエルのボトルをいっぺんに半分ほどグラスに開けてしまい、チェイサーとしてビールを飲み、それを開けたら赤ワインをチェイサーにし、ミードを/日本酒をチェイサーにし、その次はまた別の赤ワインや日本酒をチェイサーにし、とキッチンで蠢く彼らを眺める、という愉悦に淫しているうちに酒は進み気がついたら花見が終わっていた、という次第だった。

料理をする男たちを眺めることは愉悦である。

その後は友人2人を誘い、日本橋三越に向かい、フォートナム&メイソンで紅茶を飲んだ。私の数少ない趣味のうちの1つが紅茶を飲みことである。私には金が無い。が金がない、ということを文章にすることほどつまらないことはない。これは食う食べ物がない、ということを文章にすることと同じである。だからつまらない。それに対する恨み辛みや苦しみや、それに対する(極左/極右を含む)政治的または宗教的な意見や思想があれば十分面白いのだが、それがなくただただ金が無いと言うだけの文章は、恨み辛みも政治も宗教も無い故に貧しさ(この貧しさとはその個人や自治体や国の経済状況の貧しさことではない(金持ちでさえ、なんらかの偶然で冷蔵庫の中に食べ物が無く、思わず「腹が減った」とだけつぶやくことはあるのだから)、文章が表す意味の貧しさのことだ)が際立つのでまずしくてつまらない(だから良い)。のだがいまそのつまらなさ(だから良い)を書く気の無い私は、金がないなどとはこれ以上は書かないのだが、端的に言って紅茶にならばすこしばかりの金を使っても良いとしている。それが趣味というものだろう。とはいえ、インドやスリランカに出向いて……という話でもないし、ホテルのアフタヌーンティーでもないので、その程度の話ではある(念のために書くが、F&Mの紅茶は美味い)。

これもまた明確な男女差別だが、紅茶はいま現在、男たちと飲むのが良い。私は紅茶が女性的な飲み物とされている由来(らしきもの)も知っているし、大昔のコーヒーハウスのように男たちによって喫茶の場を独占せよ、と言っているのでもない(現に私は、コーヒーは少しでも飲み過ぎれば女性から注意されるのに、紅茶はいくら飲み過ぎても女性からは注意されない、というその恩恵にあずかっている)。だがしかしやはり紅茶は男たちと飲むと良い、F&Mは満席で私たちの周りの客席はすべて女性同士のカップルまたはトリオだけであったのだが、もちろん、だから、である。

ちなみに私がこれを趣味として始めたのは、車にはねとばされる、という交通事故にあってからだ。事故で身体を痛めたことでしばらくのあいだは杖をついての生活になり、このことが色々な影響を私に与えたが、そのなかでも目に見えて変ったのが紅茶を飲み始めたことだった。それまでの私はコーヒー派だったのだから。

 

ウイルスに侵されている

私の身体はウイルスに侵されている。これがテナーサキソフォンの練習を行えない(つまりエセーを書くことが出来る)理由だ。微熱は出たが問題は喉の激しい痛みでこれでは管楽器が吹けない。(練習とは関係ないが)さらに問題なのは寝汗で、少し寝ると滝のような汗をかいて目を覚ます、皮膚に大きな水たまりが出来ており、頭を上げると汗の雨が私の身体に降る。起きているときは悪寒もあるし、少し動けば汗がしたたる(という状況であった。現在の私の体調は、こうして1本のエセーを書き上げた、という事実から推し量って欲しい)。

風邪も発熱も、頭痛や吐き気や腹痛や咽喉の痛みや寝汗が無ければこれほど楽しいものはないのだが、これがないただただ熱に浮かされているだけのような状態はそうそうやってはこない。今回も例に漏れずそんな楽しみはなかったのだが別の楽しみならばあった。それは咽喉の痛みを慰めるために色々なのど飴を舐め過ぎたことでちょっとしたのど飴ソムリエーのようになったことであり、それは新鮮なことだった。アルコールのマリアージュが料理との、ものよりもまずは体調とのもの、であるようにのど飴も体調により味が/美味しく感じるものが変るが、今回は龍角散入りののど飴が一番美味しかった。

この風邪の原因が、そのウイルスがなにかは分かっている。蓮實重彦だ。正確には蓮實重彦が1979年に書いた『表層批評宣言』という書物に書かれている文章だ。この些か古い書物を私は人文系界隈で脈々と読まれ続けている名著だと思っていたのだが絶版になって久しいことを知った。これを私が読んだのは偶然ではない。『表層批評宣言』を読む前に私は氏の別の本(蓮實が専門とするフーコーに関するものだ)を読んでいる。それに氏の前に、私には、菊地成孔が居り町山智浩が居り宇多丸が居たのだ、彼らが蓮實の息子にせよ(親殺しの)反逆の息子にせよ遠い孫にせよ、だから私がいつかは氏の著書を辿ることになるのは当り前のことだった。

そしてこの本を読むべく古本屋から取り寄せてそこに書かれているものを読み進めた私は、その文章によって咽喉の激しい痛みと悪寒と大量の寝汗をもたらす風邪にかかった。念のために書くが、私は風邪が実際にどういうものであるのか?ということは一般常識程度には知っているし、今回の風邪は私の身体が耐性を持っていなかったウイルスに身体が侵されたことが原因であることも分かっている。だからこのエセーのこの文章は、今回の風邪のそのウイルスと同じ位置に私が蓮實重彦の/『表層批評宣言』という書物に書かれている文章を置いている、ということなのだ。

『表層批評宣言』の内容を……詳説するつもりはないが、ここに書かれている批評やなんらかの物事を語る、ということを語る/その目線を語る文章(乱暴に書けばこの本は、批評本ではなくて、批評を批評する本なのだ)は始めは厳しく冷たいものなのだが、読み進めればこんなにも明るい文章はあるのかと驚かせられるものだ。端的言えばこの本は知/批評に関するスパイ養成学校であるのだが、しかしそれは敵組織の機密情報を盗み出す者としてのスパイの育成ではなく、敵組織に深く潜って(浸透しきって)しかしその日常をなんだがぎくしゃくしたものに/あのいつかあったスムースな日常を過去にし、そして敵組織がいざ大規模な作戦行動を起す時にはそれが失敗するように暗躍する者としてのスパイの育成である。ここで敵組織と呼んでいるものの正体とはなにか? それは。人々がすぐになにかを物語化したり、物語を特別視ししたり、すぐになにかを知と呼んだり、すぐになにかを分かった/理解したつもりになったり、作家(の人となりや歩んで来た人生)と(その作家が作った)作品を当たり前のように躊躇も無く一緒くたにして語ろうとする際の精神の動きや、それによる行動やそれにより書かれた文章のことだ。表層批評とはそういった(知の批評の)スパイ活動であり、表層批評とはなにか?という疑問に対しての回答として現在提出されがちな「作品から作者の存在を徹底的に無きものにして、映画ならば画面に映っているもののみを批評の対象にする、小説ならばそこに書かれている文字のみを批評の対象とする」という説明は見当違いなものだ。

言葉はなにも語れない、とか言葉は常になにかを取りこぼしている、とか言葉は死そのものを産み現すことである、とか言葉は語ることでなにかを殺してしまう、とか言葉は心の可能性を狭めてしまう、とか現実と象徴と想像の食い違い、とかそういった苦悩を抱いている(ことのある)言葉に対して非常にセンシティブで才能のある者(言葉に対して鈍感な者ほど、自分はいっぱしの論者であるかのように臆面も無くさまざまな物事を語るが、彼ら/彼女らの口から出るもので面白いものなどなに1つ無い(つまらない言葉自体の価値や、つまらないことを言う、という価値はもちろんこれとは別のことだ)、のだが故に彼らのつまらない言葉こそが世界を覆ってしまう。才能に対する責務、などというものがあるとすれば、言葉の場合はそれを(対立とか弾圧とか統制とかとは別の仕方で、つまりそれと踊るようにして)どうにかすることだろう)にとってはこの本に蓮實重彦が書いた文章は意味のあるものになっている(それ以外の者には、そこに書いてあることの意味が1つも分からないだろう)。

私はこの本を読み始めて体調を久しく崩し、症状が比較的穏やかなまにまに文章を読み進め、読み終わったところで回復の兆しが見えてきた。そして自宅のなかを少し歩いてもふらつき、身体から汗が噴き出す中でも私は毎日紅茶を自分でいれて飲んでいた。趣味とはそういうものだろう。


次のエセーをここに載せるまでにはあまり時間がかからないだろう(きっと・笑)。girshommeは敬体と常体という2つの文体を使い分けることを促進剤の1つとしてエセーを書いている。次のエセーではそのどちらを使うかを考えながら文章と戯れるための技を磨いていく。新年度の始まり、という1年のなかでもっとも荒波が(質、数ともに)押し寄せている季節だが好事家の皆様はご健康にはどうかお気をつけて、皆々様の健康を祈りながら今回は筆をおく。

正月。一流の詐欺師の手腕+散布する悪魔/夜戦(敬体)と永遠

もっとしろ/してはいけない、本質/罠
親愛なる好事家の皆さま、あけましておめでとうございます。2017年最初に書くこのエセーを新年のご挨拶として皆さまにお送りいたします。というのはもはや時期外れ、元旦は過ぎ去り三ヶ日も遥かな過去、七草粥も鏡開きの雑煮も食べ終え、気がついたら1月を超え、2月の旧正月、世界各国のチャイナタウンで超大量の爆竹が消費され、いまは3月、立春啓蟄、節気という古人の知恵、雅やかな歌に詠まれたものによれば季節はいまや春であります。

本来はこの新年に相応しいエセーを、1月中にお送りするつもりでした。しかし繰り返しになりますが季節は春であります。それなのに2017年に入ってからというもの私はエセーを1つも書いていません、それもこれも偏に私の筆無精がいたす所存であります。などとは申しません。なぜかというとその理由は私が自称ジャズメンとしてテナーサキソフォンの練習に打ち込んでいるからに他ならないからです(ジャズの演奏で金を得た経験も、教えたことで金を得た経験がある私が「自称」を自称するのにも理由があります。ジャズメンはやはり毎晩のようにステージの上で演奏しなくてはなりません。それはいわゆるセッションであっても良いし、生業つまり仕事でも路上でも良いのですが、演奏の腕前や作品の良し悪しは別として、それこそがジャズメンであることの最低限のラインでありましょう。これは実際に集計や調査したものではありせんが、プロアマ問わず平均的なロックバンドやクラシック奏者などの1年間の演奏回数と比較して平均的なジャズメンの演奏回数はそれらを上回っていることでしょう。それに及んでいない私はそれが故に自称を自称するのです。それでも私がジャズメンを自称しているのは、毎日テナーサキソフォンを練習しているからです。偉大なるジャズテナーサキソフォニストたち、ジョン・コルトレーンは毎日教会(キリスト教の黒人系の教会です)に籠って練習をしていた、ソニー・ロリズンは活動中に失踪しハドソン川に掛かる巨大な橋の上で毎日練習をしていた(のちに発見されて雑誌にスクープとして掲載されました)、オーネット・コールマンはデパートでのエレベーター操作員のバイトの途中で意図的にそれを停止させてその中でサキソフォンの練習をしていた(もちろんすぐにクビになりました)とジャズメンは毎晩ステージに立つのと同様に毎日(アメリカでさえその場所に困難しながらも)練習をしているのです。それをする私にとってもこの事実は妄言ギリギリの矜持を私に与えています)。

練習というのは特殊な事柄です。練習や努力や成長に関連する言説で散見するのは、練習は手段であり目的になってはいけない、練習の量を誇ってはいけない、成果こそが重要であるのだから努力したのなんだのと言ってはならない、というものですがこれだけでは練習という行為への言及としては画竜点睛を欠く、というか半分も解説していないというか、至極恐悦ですが言葉を荒くして言えばそんなことは馬鹿にでも分かる、であります。

伽藍、修道院、片眉を剃り落して山ごもり、象牙の塔、と練習に関連する言葉(これらの言葉は修業や研究に関連するものですが、それらは物事を極めんとする行為であり、練習と意味が近いかあるいはその精神の熱量的に練習の上位に位置する行為です)はなにかと一カ所に籠る、それも世俗を絶って籠るという印象がついて回ります。もちろんそれは事実でもあるわけですが、それは人は世俗を絶ってどこかに籠らなければ練習が出来ないからだ、だからその場所が必要なのだ、と言うのではこれもやはり画竜点睛を欠く言説であります。しかしこの言説も1つの事実ではあります、世俗を絶ち籠る場所がなくては練習出来ない怠け者にとっては、という意味ではありますが(そして自身がそんな怠け者であることを知っていてそれに対処する者にとってもこれは事実であります。ですがこの後者を賢人と言います。怠け者はただの怠け者ですが(トートロジー)自分がそれであると知る者は賢人です)。

画竜点睛を欠くという言葉を2回繰り返して来ましたが、ではその目玉はどこにあるのか?といえばそれは、人は本気で練習をし続けるとそれ以外のことがどうでも良くなってしまう、という事実にあります。伽藍も修道院も山ごもりも修業する場所として人が建設した建物(行為)ですが、その始まりは本気で練習をしていた人(たち)が生活を営んでいた場所であり、そこがのちに修業をする専門的な場になっていったのです(なんでもない場所が後に聖地化した、とも言えます)。のです、などと言いつつここには正確な根拠はありません、諸宗教の始まりの根源が各宗派ごとの聖典がありつつも実はぼやけているの同様に、その一番初めの場所に関する正確な記述はありません。ですが私にはそうとしか想像出来ません、本気で練習に打ち込んだことがある者の実感としてそれが真実なのだと確信しているわけです。とはいえ諸宗教の聖地の多くが、ただの木の下や川や山であるという事実を鑑みればこれが只の妄想ではないことも一目瞭然です。篭って練習する施設というものは後人が作り出したものです。

ともかく、人は本気で練習をし続けるとそれ以外のことがどうでも良くなってしまう。その結果としてどこかに籠り気味になりやがては世俗も絶ってしまう。籠り世俗を絶つから修業するのではないです。もちろんこれにも註釈として、本気で練習に励む者ならば、という言葉がつきますが。これこそが(練習や修業についての言説に)あまり書かれることがない龍の目玉であります。それ以外のことがどうでも良くなってしまう、のそれ以外とは練習に費やした時間や量そしてなにが手段でなにが目的なのかということも含まれます。つまり練習という行為には、練習をすればするほど練習だけをしたくなるというスパイラルが始めから含まれているのです。上記したように、量を誇ってはならない、手段が目的になってはいけない、という言説はよくあるのですがそこには、練習という行為はそれをすればするほどにそれだけをしたくなるという性質がある、という指摘も必要なのです。これが練習という行為の本質でもあり、練習という行為が持つ罠でもあります。本質が罠であり、罠こそが本質である。本質故にこれは回避出来ませんが、コントロールならばできるかもしれません(できる、と断定しないのは私がいまその真っただ中にいるからです)。それには相当なクレバーさが必要になってきます。ちなみに、なぜそれ以外のことがどうでも良くなってしまうのか?という疑問に関しては複数の回答があります、それは端的に成長が楽しいとか精神の先端化などですが、それらはたったの一言で表すことが出来ますし、正確でそれこそがもっとも真っ当で実直な答えです。人は練習をすることでオブセッション(憑依/取り憑かれる)されていくのです。オブセッションという英語は時には固定観念や強迫観念と和訳されます。

本質/罠→もっとしろ(したい)/(罠だから)してはいけない、という二律背反の命令めいたものを、練習という行為は常に人に投げかけています。

なぜ罠なのか?ということは書くまでもなく、それ以外のことがどうでも良くなってしまう(本質)からであり、世俗と切り離されて行く(これも本質)からなのですが、その結果として産まれるのはストイックの化け物、それがスポーツ選手ならばオーバーワークを繰り返す悪循環であり、芸ごとならば(世俗と切り離されているのだから)流行も社会状況も知らない、技術はあるがセンスは無い(アウトサイダーアーティストと言ってもやぶさかではない)アーティストです。たまにピアノのお化け(化身)のようなピアニストや、漫画のお化け(化身)のような漫画家が出現しますがああいう人々のことです’(もちろん彼/彼女らの作品が(人々を圧倒しながらも/時として圧迫しながらも)輝かしい(むしろ眩し過ぎる)ものになることはあるので、一概にそれが悪いことではないのは明白です)。例えばこれは寓話として、美しくスーツを纏うためのボディメイクとして筋力トレーニングをして肥大を目指したのに、気が付いたら美しくスーツを着ることが可能な体型を超えて筋肉のお化け(化身)のようになりスーツを着れなくなってしまった、というものを想像すればより分かりやすくなります。いわゆる筋トレというのも練習や修業の一環であり、当初目指していた体型を超えた筋肉量を追い求めてしまいやすいものであります。端的に言うとそれは鍛えても鍛えてもまだ自分の身体が小さく見える(完璧には見えない)からなのですが、私は毎日のテナーサキソフォンの練習のほかに日々筋トレをする者でもありまして、故にこのことを寓話ではなく実感として知っているわけです(いまは冷静さを保つことで、筋肉量を追い求めることには歯止めが利いていますが)。

ではこの本質と罠を生むものはなにか?といえば練習そのものです(本質なのだからそのものであるのは当り前ですが)、具体的に言うならば練習を人が行う際にその根本にあるものです。それは自分は練習をすれば上手くなる(はず)成長する(はず)という欲望です。もしこれ以上自分は上達しないのだという諦めがあるならば人は練習をしません。とはいえそれをする人もいます。能力が劣れていくことを知りながらそれを遅らせようとする者たちです。この者たちも自分が怠け者であることを知る賢人たちと同様の賢人であり、それ以外のことがどうでも良くなってしまう、ということから距離を置いています。しかし賢人といえでも、そこに成長の欲望がないのか?といえばそれは疑問です(疑問に止めておいているのは、私はこの段階を1度も経験していないからです)。こういった賢人はいわゆるベテラン、老境に居ると言ってもよい方々ですが、老人さえ成長を求めることを私はサキソフォンの演奏をお爺さま/お婆さま方にお教えするという仕事を通して知っています。

自分は練習をすれば上手くなる(はず)成長する(はず)というのは言い替えれば万能感です。万能感とは若者が持つ武器にしてこれも罠ですが、これを生むのは若者が未だになに者ではないという真実、これからどのようにも成長する可能性がある(だろう)という事実に根源があることは、かつて若者であった者ならばどなたでも体感として知っていることです。練習する者にもそこまでの万能感があるなどとは言いませんが、練習はそれをすれば上手くなる(はず)成長する(はず)から行うものであり、僅かな成長の可能性に賭けていると場合でさえも、そこには若者が持つ万能感と同じ、いま現在の自分(の能力/技術)とは違う未来の自分がある(だろう)ことへの欲動があります。この欲動を持った者は、これを根本的な動機として練習という行為をします。

私は先程、人は練習をすることでオブセッション(憑依/取り憑かれる)、と書きましたが、なにに取り憑かれるのか?といえばこれであります。人は未来の自分に賭けるから練習をするのであり、また練習をしていれば(そのうち)来るであろうと思う自分にオブセッションされるのです。この欲動が練習の本質であり、罠でもあるわけです。では罠に掛かった者に待ち受けているものはなんなのでしょうか?

それらは大雑把に言えば、(それ以外のことがどうでも良くなってしまう)練習するごとに世に疎くなり、(それ以外のことがどうでも良くなってしまうのだから)センスも無くなって行くということであります。これは私を含む、過去なんらかの形で誰かに楽器演奏の師事をしたり、練習に打ち込む同僚を観たことのある多くの演奏者ならば実感として知っていることです。技術は余るほどあるのになにもかもダサイという人々を我々は見聞きし、自分がそれになっていないか?という問いを常に自身にし、時にはそれになってしまうこともあるということを経験しているのです(これは私が(自称)ジャズメン/批評家/小説家として自分のアイデンティティーをそれらに置いているからこのように語っているまでで、きっと多種多様な趣味や仕事のなかで散見されるものだろうと想像します)。それは始めからセンスがないからそうなるのだろう、といえばそれまでですが、その通りであり、その言葉こそがセンスというものが重要であるということの証左でもあります。

故に著名な演奏者がその名を冠する各種楽器の入門書や教科書で、そして音楽大学や専門学校の講義やワークショップでの実際の発言として、練習のみをしてはいけない、休日を作りなさい、そして本を読み映画を観て絵を観賞して料理を作り散歩をし遊び恋をしなさいと書き言って来たのです。さらには暴言ギリギリのしかしある種の真実でもある、楽器を上手くなりたければ楽器を弾くな、という言葉まで産み出しました。これらの言葉はしたり顔で、練習が目的になってはいけない、などと言うよりも前もって練習という行為が持つ、もっとしろ/してはいけない、という二律背反の本質/罠を鑑みた遥かに蘊蓄のある言葉であります。

彼/彼女らは、技術とセンスという大地の上に張られた綱の上をどちらにも落ちずに現在も渡り続ける軽業師であります(もちろんこれは私が(自称)ジャズメン/批評家/小説家として……以下省略しますがしかし、軽業師という言葉の意味を辞書で引けばお判りの通り、やはり彼/彼女らこそがその綱を渡り続ける代表的な職業人であることに違いありません)。

この綱を渡り続けるためには、不安定な足場や吹き付ける風にも揺らぐことのない/揺らいでも落ちることのない冷静さと知性が必要になります、いわばクレバー、それが練習という行為に対当する際に必要なわけです。繰り返しになりますが練習という行為は我々に常に本質/罠→もっとしろ/してはいけない、という二律背反の命令をしてくるのです。実のところその無理難題に挑むことこそが、もっとしろ/してはいけない、というものを超えた練習の本当の本質であり、練習によって真に鍛えれているのは自身のクレバーさなのかもしれません。

例えば、成長をすることが動機となり人は練習を行うが、一方で練習することでいま現在の自分(の能力/技術)とは違う未来の自分(の能力/技術)がある(だろう)ことにオブセッションされる、と私は書きましたが、もしその万能感じみたものを失い、しかしそれでも行動をするとき人は練習とは違う(諦観の果てにある)ゲームじみたものを始めるでしょう(つまりこれはいま以上増えないし交換も出来ない手持ちのカードで勝負をするカードゲームのようなものです。これはレヴィ=ストロースが唱えたブリコラージュの……と書けば言い過ぎですが、つまり人は有り合わせのものでなにかを作ろうとするときにこそ知恵を働かせるものであり、それは未だに来ない未来の完成した自分を求める練習への没頭さとは違う、ある種、醒めてさえいる知恵を働かせているのですから、まさにクレバーです)。それに賢人ならば自身が持つ万能感を認めつつも練習をし、一方で(諦観の果てにある)そのゲームじみたものの中で行動をするでしょう(断定しないのは私がいまだに賢人ではなく……)。これは綱渡りをする者を別の言葉で言い替えたものでもありますし、そのような人にはクレバーという言葉を捧げるのが最適です。

練習という行為は悪い行いである、と捉える方はいらっしゃらないとは思いますが念のために書きますが練習は必要です。チャーリー・パーカー(通称バード)というアルトサキソフォン奏者、という範疇を超えジャズミュージシャン、またその範囲すら超えミュージシャンとして、それすらも超えてアーティストとして天才、神、アイドル(偶像/崇拝)という言葉を使うことに遜色のない人物がいましたが、彼でさえ多くの練習をしていました。それは生業としての夜中/明け方までの仕事(ビッグバンドでの下っ端としての演奏)を終えて、雪が降る中であっても2、3時間寝たあとでニューヨークの川に面する公園に演奏の練習をしに行く(なんせここならば騒音の苦情も来ませんから)というものでした。このように天才でさえ練習は必要なのです。しかしパーカーでさえこのように練習をすることで(未来の自分に/成長に)取り憑かれていたわけです。練習の本質は罠である、と私は何度も書いてきました(パーカーに関しては練習のし過ぎが遠巻きの原因になって若死にした、という論もあるほどです)。

とここまでお読みの好事家の皆さまならば既にお判りのとおり、これは皆さまに対する、テナーサキソフォンの演奏の練習のみに打ち込みがちな私の、girshomme に新しいエセーをなかなか掲載しないことの、長い言い訳でありました(笑)。では、そろそろエセーの本題に入りましょう。girshomme は私の日常や批評を掲載するために運営しているウェブログであります。

 

ある夜(大晦日)のできごと
元旦に寺院を詣る初詣という伝統的な慣行を私は毎年(少なくともこの10年は欠かさず)行っていますし、日本に数多くある慣習の中でも私がかなり好んでいる行事でもあります。そもそも私は宗教施設のなかでも神社仏閣とキリスト教カトリックの建築や雰囲気が好きであり、神社仏閣にはなにも理由がなくとも散歩などで通りがかった際に参拝し神社では「祓い給い清め給え……」と唱えているのですが(散歩道に上記の施設が全てあります、モスクもありますし、創価学会幸福の科学の施設も、あまりメジャーではない宗教の施設さえ散歩道にあります)しかし自身のことを信者と言うのは正式な信者の方に失礼であります、と言う程度の信心の持ち主であります。されど神はいると信じております、それは名も無き姿も無きなんらかの存在として、ですが。愚かでボンクラな私ですが、その程度には傲慢ではなく無知蒙昧でもなく世界や人に対する畏怖も愛も抱いていると自認しています。

正月の神社仏閣は神職の方の稼ぎ時、と書けば神はお怒りになるでしょうか?とはいえそこは神道の神や七福神ならば大いにお喜びになりそうですが、ともかくこの時期が1年でもっとも多くの参拝客が訪れ、普段は神職の方が駐在していない神社仏閣にもこの日のために人の手により清掃が入りその清らかさ増し、と賑やかに明るくなったところに参拝に行くのも楽しく、私にも例年参拝する近所の神社があります。除夜の鐘がなる夜道を歩き、一礼して鳥居を潜るところから始まり参拝をし、この日のために雇われた巫女さんにお神酒をいただき、おみくじを引きその神託に心を引き締め、有志の方が作った甘酒までいただき、しばらくして鳥居を抜けまた一礼し初詣を終えるのです。

しかし、これだげが私の初詣の楽しみではありません。この日に私が詣るのは一社だけではないのです。賑やかなのも良いが静謐なのも良いのが神社仏閣参りの楽しみであり、また宗教施設の役割でもあります。多くの宗教では祭りと休息、興奮と鎮静(ハレとケ、フェスティバルと断食、色欲と禁欲などなど)という対称的のものを取り入れており、諸宗教の寺院もその両極に使用しても違和感のないようにデザインされているということはいまさら私が書くまでもないことではありますが、故に賑やかな神社仏閣も良く、人気のない静かな神社仏閣も良いものです。賑やかな神社に参り、そのあと夜空に輝くオリオン座などを眺めながら、正月、という日本人の日常生活の巨大な空白地帯を徒然と歩くように、古びた寺社を回ることを含めて、それが私の正月の、初詣の楽しみであります。

例年ならば賑わう神社を出たあとは、猫の1匹にでも出会えば良いほうで、冬空の下で暮らす彼らに新年の挨拶をしては無視されたり膝に顔をなすりつけられたりしているわけですが、今年は違ったのです。まずその道中、酔っぱらいの2人組に会い、片方が地面に向かって歩き出そうとしていて(路上にうつ伏せに寝て額を道に擦りつけ地面のなかに行進するように手足を降っているのです)もう片方が心配しているという場面に遭遇したので彼らに声をかけて会話をし、寺社についたらいつもならば人っ子一人居ないはずなのに今年は甘酒を振舞うためのテントが建っている、それも詣でた寺社3軒全てに、という事態で、あの清らかで静謐な時間はどこへやらでありました。

しかし古びた神社は古びた神社です(トートロジー)参拝客は私しかいません。テントを立てて甘酒を鍋で温めているのはもう企業人としては引退されて、こうした地域の催しを維持し開くことに精を出されているお父様方でして、そんな人々が私のことを(親切心から)逃がすわけもなく、こういう人々は神の眷属のようなものですから、私もそのご好意に甘えて(最初に詣でた神社のものも合わせると)合計4杯の甘酒を飲み腹がたぷたぷになり、さらに行く先々でお父様方と立話をするという元旦でした。

おかしかったのは、皆さんが私を真っ当で堅気の人間と思っていることで(上記の通り私はサキソフォンの練習に精を出すボンクラです)それはきっと私が着ていた服と靴が全うなものであったことと、髪型が黒髪のオールバックだったことがあってでしょうが、私がしていることは仕事帰りの参拝であり、自宅では子供は寝ていること(この2つはお父様方が出した私への設定です)、最近の景気や嫌な上司のことなどすべてを即興で話し、互いの新年の幸福を願ってその場をあとにしたことです、これを3軒の神社仏閣全てで行ったのです。

例年は人気の一切ない寺社でなぜ今年に限り甘酒が振舞われていたのかその理由は分かりません、不景気のときは神を大切にするということなのか、各地域が連携してそういう気運を高めたのか、それ以外の理由なのか私にはわかりませんが、きっとすべては神のご意志だろうと思い(自分で分らないことや、知りたくないことなどは古人に倣いすべて神や季節のせいにしてしまえばよいのです。もちろんこれは宗教やオカルトめいた話ではありません、ですから知りたいことや戦いたいことなどは人や物質に原因を求めれば良いのです、ですがこの世のすべてのことを知ろうとしては脳の記憶容量が無限にあるなどの特異体質の人でもない限り精神がパンクしてしまいます。またいまは知らないことでも時が来て真実を知ることもあるでしょうし、その日まではどうでも良いことはどうでも良いままで、名も無き神にでも預けておけば良いのです)例年の習慣を終えたのでした。

 

最上級の詐欺師は誰か?それは監督である/鑑定士と顔のない依頼人
ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』を観賞しました。トルナトーレ監督といえば『ニュー・シネマ・パラダイス』や『海の上のピアニスト』を撮った巨匠であり……などと書きつつも私はそれらを観たことがありません(正確に書くならば『海の上のピアニスト』は5分間だけ観ました)し、本作が同監督の作品であることも知りませんでした。『鑑定士と顔のない依頼人』という題名とポスターなどのビジュアルイメージは知っており興味を惹かれて観賞し、作中の画が素晴らしいので観賞後に調べたら『ニュー・シネマ・パラダイス』の監督だと知ったわけです。

なので同監督のフィルモグラフィを鑑みることをしない同作品のみを言及対象にする評ですが、この映画は観終えたあとで面白い面白くないと感じるより以前に凄い(恐ろしい)映画だったと私に判断させる作品でした。なにが凄かったのかといえば、映画終了時の主人公の心境と、映画を観終えた鑑賞者の感想が一致していることであり、それが間違いなく監督の手腕によるものであることです。しかしその手腕は詐欺師の手腕であります。優れた奇術師や催眠術師のようにトルナトーレ監督は鑑賞者の心を操ったのです。

この映画は、日本での配給に際して良くある謳い文句であり"衝撃の結末"を掲げているとおり、物語の終盤でそれまでの展開がひっくり返される/真実が噴出します。どんでん返し、という歌舞伎の手法を語源とするこの物語は終えかたはそれ自体に賛否両論はあるものの、これを取入れた各作品の制作者たちの力により、玉石混合の結果を生み出してきました。それらの質を語ることは本批評の外にあることなので触れませんが、どんでん返しが似合う作品や、この手法を取入れることが適切である作品が存在することや、必然がある作品とはどうのようなものなのだろうか、ということに関しては語らなくてはなりません。なぜならば、それこそが本作品の要になっているからです。

例えばそれまでの物語はすべて(睡眠中の)夢だったとする夢落ちという手法がありますが、これもどんでん返しのうちの1つではあります。この夢落ちという手法はどんでん返しのなかでも特殊なものです、その特殊性とはこれを行うことでそれまで展開したきた物語が夢であると断定することです。なにを当り前のことを言っているのだ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、夢オチを行わなくては、物語や映像やその細部がどんなに夢のようなものであってもそれが夢であると断定することができないのです。夢は眠りから覚醒するからのちにそれが夢であったと分るものであり、(これは『マトリックス』のような話ですが)もし夢の中でこれが夢であると気がついても夢から延々と醒めることがないのならば主観的にはそこに現実との違いはありません。夢オチとは、それが夢であったと断定する最高裁判所の裁判長の判決のようなものであります。夢を描くのには夢オチが必要です、その点では夢落ちというどんでん返しには、必然性があります(もう一度書きますが、私はその質をここでは語りません。その手法が適切/必然かどうかということのみを語っています)。

またこれは映画、特に劇場で観賞する映画には顕著ですが、夢という非現実的な世界が終わること(あるは物語のなかで描かれる夢とは劇中劇であるとも言うことができ、故に夢が終わることは劇中劇の終わりと言い替えることもできます)と物語という架空の/空想の話が終わること、そして夢から醒めて朝日のなかで目を開けることと劇場で映画を観賞し終わり周囲に光が灯ることの親和性、夢が終わることと物語が終わることと劇場の暗闇が明るくなって行くことには相当の親和があり、この点でも、夢オチはどんでん返しのなかでも相当に必然/適切がある手法であると言えるのです。

それに対して、衝撃の事実が明かされるタイプのどんでん返しは必然性が弱くなります。例えば実は主人公こそば化け物だった『地球最後の男』や実はここは地球だったで同じみの『猿の惑星』のことなのです。これらのどんでん返しにはどんでん返しを楽しむという意味しかありません、それはネコ騙しでありショックな体験ではありますが、それだけです。それだけでも楽しければ良いじゃないか、という意見もあることは予想できますし、私もこれらの大オチを楽しみました。しかしただそれだけで、どんでん返しを物語に取入れることに必然や適切さはありません。

夢落ちという手法はそれがどんなに陳腐でつまらない作品に使われていたとしても必然があります。何度も書きますが夢は覚めなくては夢ではないのです。一方で主人公が化け物でなくても、舞台が実は地球ではなかっとしても彼らはそれまでと同じ行動(吸血鬼や猿と戦うこと)をします。なので前者(夢落ち)にはそれをやる必然がありますが、後者はただの状況説明にもならない状況の追加にしか過ぎません。これが滑ると観客はそれを本当にただの取ってつけた(驚きもしない)驚かしだと判断します。面白さも必然もないどうしようもないものになってしまうのです。対して夢落ちにはどんでん返しのを使う必然があります、必然とは、それよりほかになりようがないこと、ですから、夢を描く物語におけるどんでん返し(=夢落ち)とは構造の一部であるといっても良いでしょう。故に夢オチを取入れる物語には構造があり、面白くなかったとしても構造だけはキチンと残るのです。上記した状況説明型のどんでん返しは面白くなければなにも残りません、なぜならばそれらの物語ではどんでん返しが決して必要(必然)ではなく、構造の一部ではないからです。いわば構造という建築の、夢オチのそれは柱の1本ですが、状況説明型のそれは恣意的に屋根に乗せた金のしゃちほこなのです。もちろんそれで家のデザインが良くなることあるわけですが……。


では、どんでん返しという手法を物語に取入れることに必然性があり尚かつその面白さも味わえる1番のジャンルはなにか? といえばそれは詐欺を主題にした作品に他なりません。ここでいう詐欺ものとは犯罪的なもの……つまり金銭をだまし取る正しい意味での詐欺から、潜入調査やスパイなどの国家や政治に置ける重要な情報を盗み出す物語、詐欺と同じ犯罪であり尚かつ騙し騙される者の悲喜劇が描かれる泥棒ものの作品をも包括してます。有名な作品で古くはかの名作『スティング』から90年代の『ユージュアル・サスペクツ』近年では『アメリカンハッスル』と詐欺を主題にした物語でどんでん返しの結末を取入れたものは多数あります(それ以外にも、そこまで有名な作品でなくとも『コンフェデンス』『インサイドマン』『レイヤーケーキ』『スナッチ』『ソードフィッシュ』などなど枚挙に暇がなく、またそのうちのかなりの数が『スティング』のオマージュになっており、泥棒もの、というくくりの作品にはこちらも皆さんご存知の『オーシャンズ11』シリーズがあります)。

ここには夢オチよりも状況説明のどんでん返しよりも必然/適切があり遥かに強固な構造があります。というのは騙し騙される者たちの攻防である詐欺を主題にした映画を観に行くとき、観客はそこに娯楽として、観ていて楽しく興奮できるものとしてプロの詐欺師の仕事を求めます(と言い切るのに難しく。なぜ難しいかといえば詐欺ものには失敗を楽しむコメディも上手く行かないことの悲劇もあるからなのですが。ですが、騙し合いの攻防を描く正当な詐欺ものの映画ならば)、詐欺におけるプロの仕事とは騙していることを誰にも気がつかせずに目的のもの(金銭や情報)を得ることです。ということは最上級の詐欺なるものがあるとした、物語におけるそれは観客にも真実を気がつかせないものだというわけです。そしてその観客も気がついていない真実が物語に明るみに出た時に、どんでん返しとなるのです。詐欺ものが持つこの構造はさまざまな物語の構造のなかでももっとも優雅である、としか言いようがありません。

ということで、ついに本作に触れるわけですが、大っぴらに書いてしまいますがジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』は詐欺ものであり、尚かつ(これをお読みの皆さんは、映画の評を読んでいるのにネタバレが書いてあることを怒るような、愚鈍な方はおられないでしょうが)ネタバレを書くと騙されるのは主人公であります。

イタリアに暮らす老境にある、ベテランの美術品鑑定士は依頼人の女性に恋をするも、彼女は詐欺チームの一員であり、この老人はその人生のなかで長年かけて収集してきた大量の絵画コレクションを物語の最後ですべて盗まれる(ということで詐欺というよりも泥棒チームと言ったほうが正しく、端的に言えばこれは『ルパン三世』の不二子ちゃんに騙された男の話のようなものです)という物語の今作は、そこに行き着くまでの描写や絵が、派手でもなく、バッチバチに決まっているというわけでもなく、されとて過不足なく品があるという、まさに名匠の余裕綽々の仕事っぷり、と言っても過言ではない気品が画面を通して伝わってくるもので、それは大変心地よく(この作品はクライマックスの直前までは、見識も資産もある壮年の男と、屋敷に引きこもっている若い女性のラブストーリーなのです)軽やかな重厚さ(と書くと矛盾がありますが、こう表現するのが適切です。というのもこの映画は鑑定士の主人公と、屋敷を飾っていた調度品や家具や芸術作などの美術品を売り払おうとする女性の話だけあって、ヨーロッパの重厚な建物や美術品が終止画面に登場するわけですが、さりとてそれらを必要に重厚なものとして描くことが無く、つまりそれらにフェティシズムにも似た愛着がなく、古く、美しくいものだがそれ以上には描かないというバランスがこの映画にはあるのです(これはつまり、老人の主人公の描き方でもあります、なにせ演じているがジェフリー・ラッシュですし、彼が実年齢以上の老境を装って登場しますから、老人フェチならばヨダレを垂らしても良いところですが、監督は彼を古く美しくいものだがそれ以上ではないものとして描いています。同監督の理性が働いておりその理性が映像となり画面に表れているのです))が終止あります。

しかし、この大家の仕事は、映画のものであると同時に最上級の詐欺師の仕事でもあります。というのも本作を観た多くの人がこの映画のラストを勘違いしさらには(ほろ苦い)ハッピーエンドとさえ書いているからです。

絵画コレクションを盗まれたことに気がついた老人はその場で悲しみに暮れ、ここで映画は時間をスキップし、次には精神衰弱し、病院や保養所のようなところに入院/入所し、言葉も話さず、人に話しかけられても反応せず車椅子に座っている彼にフォーカスします、そして彼は絵画コレクションの盗難発覚後から入院までの経緯を振り返るわけです。これが本作のどんでん返し、詐欺が発覚した瞬間の衝撃、なわけですが、その後は主人公が療法を受けるまにまに彼が海外旅行をしている映像が挿入されるシーンが続きます。この旅行は(じつは泥棒だった)彼女と愛し合っている(と老人が思い込んでいた)ときに彼女が話していた想い出の地、チェコプラハであり、老人はそこに出向き想い出の喫茶店で彼女を待ち続ける。という場面で本作は終わります。このラストを多くの人が騙されど愛した女を待ち続ける(いうまでもなく彼は老人ですから、健康な若者よりも寿命は短く、故に死ぬまで女を待ち続けるのでしょう)ほろ苦いハッピーエンドと評しました。

たしかにこれならばハッピーエンドに間違いありません。愛を経験したことのない者には分からない話ですが、愛は人に雄弁さをよりも沈黙を与えます、赤子の時分であるイエス・キリストを胸に抱く聖母マリアの微笑み……などを例に出さずとも愛は言葉の使用を必要としない感情の状態を人に与えます。正確には愛に満たされている者には愛は雄弁さをよりも沈黙を与えると言ったほうがでしょう(興奮や欲情は多弁を人に与えます。フランスの精神科医/哲学者ラカンの弁を例に出すわけではないですが、欲情とは自分自身にそれがないから、それを追い求める行為です。乳を飲む赤子は満足しており、そのまま母の腕の中で寝てしまうほどですが。無理矢理乳房から話された赤子は泣き喚きます。また子供は物をねだる際にだだをこねます。満たされた愛の沈黙、追い求める欲情の多弁というわけです)。

この老人は騙されども彼女をいまだに愛しており、その愛の確実さ(この確実とは私のなかに(彼女への)愛がある、だからもはやすべてはもうよい、というものです)を抱いて、きっともう2度と合うことのない彼女を待ち続け生きていきます。これこそ愛が人に与える沈黙を表現した、淡い灰色の(老人の白髪塗れの髪の毛の色のような)エンディングであります。

しかしそうではないのです。というのもこの海外旅行、そして彼女を待ち続ける老人という場面への接続が一切描かれていないのです。この巨匠はそれまでの物語を、その各場面を、丁重に理論的に描いています、起承転結や時間の流れや画面に映る小物の象徴的な意味が誰にでも分るように、です。ですが絵画の盗難が発覚したあとで1度時間は飛び、衰弱した老人に療法が行われる傍らでそれまでのことを振り返る(フラッシュバックする)場面が続く、ということは既に書いてきました。そしてそのまにまに海外を旅行する老人の姿が描かれる、とも書いてきました。そして喫茶店で彼女を待つ老人の姿を映して終わる、とも書きました。

そう、文字にすればなんと容易いことでしょうか、それこそ当り前すぎて私がいまなにを言っているか分からない方もおられるでしょうが、老人は衰弱から回復すらしておらず、故にこの海外旅行は、そして喫茶店で彼女を待ち続ける彼の姿はすべて精神が衰弱した老人の妄想なのです。文字にすれば容易いのです、この映画では老人が回復していく姿などは1度も描かれていないわけです。老人は現実世界では身体を動かさず、声も出しませんが、妄想の世界では歩き回り健康だったときのように聡明な言葉を口にします。彼は妄想の世界に生きています。

ですが本作を観た多くの人々は、前述した勘違いをしました。老人は回復して彼女の想い出の地に向かいそこで彼女を待ち続けて映画が終わるという物語を観たのです。なぜでしょうか?これは観客による物語の創造/想像にして、それこそが本作の監督トルナトーレの名匠の技です。ですがそれは詐欺師としての名匠の一流の技です。

さきほど私は、最上級の詐欺とはそれが行われたことさえも気がつかせないものであり、物語においてはそれが明るみに出た時にどんでん返しとなる、と書きました。そうそれは正にどんでん返し、スリリングな真実の発覚であり、ジェットコースターのレーンの最後に設置された急降下の楽しみでもあります。騙されていたことに気がついた者は騙され続けている者ではなくそこから抜け出した者になります。その後には逃走なり落胆なりを行うわけですが、言葉の反復になってしまいますが、騙されていたことに気がつくことは騙されている状態から抜け出したことであります。たとえその偽装に関連する多くの出来事が悲惨であったとしてもこの者はもはや騙されていはいない者なのです。フランスの精神科医/哲学者のジャック・ラカンは自らが行った講義(いわゆるセミネールですが)の題名を「騙されない者はさまよう」と名付けました。これの裏を書くと「騙される者はさまよわない」です。真実に気がつくことは自分を放浪という不安定な立ち場におきますが、されどその者は騙されない者です。どんでん返しもそういったものであり、屋上から突き落とされるような衝撃を受けるわけですが(特に騙されていた者自身にとっては)、再三の繰り返しになりますがその者はもはや騙されている者ではありません。そこには騙されていた、という状態からの開放/開放感があります(場合によっては悲痛を伴う開放感ですが)。この開放感こそがどんでん返しに重要な部分であることは私が書くまでもないないことですが、どんでん返しで終わる映画には(登場人物にとっては)嘘からの開放→(観客にとっては)物語からの開放、という構造的な開放感があり、真実を知ったという知的な興奮さえあるのです。これは爽やかとさえ言っても良い(それが悲痛なものでも、です)どんでん返しというオチが持つ、物語の浄化作用です。

いま私は浄化作用という言葉を書きました。そうなのです、それは浄化作用なのです。どんでん返しがないまま、騙されていることに気がつかずに終わる映画を想像していただければ直ぐに分かることですが、そこには開放感や爽やかさが皆無であります。たとえそれが恋にまつわる騙し騙されであり、嘘を信じて恋の幻想の中で生き続けるという官能的な幻想的なものであって、いや官能的で幻想的であるからこそそこには開放も爽快もありません。それは騙されたままでその(精神的な)場所に生き続けることに他なりません。動きがないのです。まさにラカンの「騙されない者はさまよう」でありその裏の「騙される者はさまよわない」というわけです。些か乱暴な例えではありますが、それは放浪の厳しい生活と風通しの良さ、定住の安定と息苦しさ、という放浪と安定(その昔はスキゾとパラノという言葉もありあしたが、この言葉に近いもの)の一得一失です。

宗教、という言葉はいまでは簡単に使える言葉になってしまいました。プロスポーツのチームのファンや、特定のアニメのキャラクターを愛する人のことを指して(イロニーやジョークや宗教のパロディも含めて)宗教と言ってしまう現状ですが(例えばそれは巨人教や文月教などのことです)、宗教とは教義と戒律があり、組織として構成されたものです。それは教祖や(伝説や神話)と信者を含めた総体のことであり、個人に還元すればそれは信心になるわけです。宗教やその教義は嘘である、などとは決して言いませんが、何かを信じているという点でそれは、騙されない者はさまよう/騙される者はさまよわない、であります。信者というものは本質的にはさまよいません。故にこの騙されている人間のことを悪く言うことなどはできません。なぜならば無宗教の人などはいくらでもいるけれど、無信心な人は極めて少ないだろうから、という推測があるからでありそこから更に、無信心とは人生における究極の放浪生活であり、それに耐えられる者も極めて少ないだろうか、という推測が可能だからです。人は嘘を含めてなにかにすがりついていなければ生きていけません。そのことでどこかに定住しているわけです(そうではない、私はなにも信じていない。と言うのならば「私はなにも信じていない」と口にしてみてそこに気まずさがないか確認してみれば良いのです)。それを失うことである、詐欺もの映画における真実の暴露/騙されていたことの発覚であるどんでん返しは、やはり放浪の生活に駆り出される厳しさと風通しの良さを与える1つの浄化作用であります。肝心なことはそれは我々の実人生に起ることではなく、映画や小説などの物語として疑似体験しているということです。繰り返しますが人は信心を持ち生きており、それは信心の対象と自分自身とが(擬似的であっても)癒着してることでもあります(’癒着していないのならばそんなものは信心とはとても呼べません)。癒着は主観も客観もなくしてしまいます、端的言えば神の言葉は私の言葉であり私の言葉は神の言葉である、と言いえてしまうほどに対象とくっついてしまうものでもあり冷静さが欠けた風通しが悪いものです。故にどんでん返しの疑似体験は我々の人生に対して(密閉された部屋の窓を開けて空気を入れ替えるような)浄化として作用するものであるというわけです。もし私の信じているものがすべて嘘だったらどうしよう?というのは偉大な哲学者たち(デカルトニーチェサルトルレヴィナスなど)が行った根源的な問いでもあります。

詐欺の被害者はときとして自分は騙されていない、と言い張ります。私たちはメディアなどで解説/紹介されることで詐欺被害者(やカルトの信者)が自分は騙されていない/自分は被害者ではないと思い込もうとする、または証言さえするということを知っています。本作『鑑定士と顔のない依頼人』のラストを見間違えた人々はまさにこれなのです。現実逃避ですが、では現実逃避とはなんなのでしょうか? それはもちろん現実とは違う物語を作り上げることに他なりません。それは信心が形を変えて現れたものでもあります。ここではもうラカンの弁を再三あげる必要はないでしょう(これも再三の弁になりますが、物語を(無意識の意図的に)読み間違えることを悪くは言えません、むしろ物語の正解は1つだと言うことは貧しく、多数の間違いを産むのは多産な点で豊かなことです。それは無数のバリエーション/血脈の分派であります)

では本作のなかでこれを行ったものは誰か? 現実とは違う物語を作りそれを観ている者は誰か? 信心を持っている者は誰か? それはこの老人、本作の主人公であります。

文字にしてしまえばあまりにも容易く、皆さまにはつまらないことでしょうし、私にとっても簡単すぎてつまらないことなのですがこの評も佳境に入ったので今しばらくお付き合い下さい。ここであることが分かりやすすぎるほどに明確になりました。老人は女(不二子ちゃん、ですね・笑)を信じた/現実逃避した/信心を守った、多くの観客はこの映画がハッピーエンドだと信じた現実逃避した/信心を守った、わけです。主人公の精神状態と観客の心情が(騙されたと思いたくがない故に逃避をしている点で)完璧に一致しているわけです。

これこそこの名匠の恐るべき手腕、一流中の一流の詐欺師の手腕であります。トルナトーレ監督は、騙し→信じさせ→嘘が発覚する、という詐欺の構造(どんでん返し)を映画に見事に持ち込み、それだけではどんでん返し/騙されていたことの発覚というある種の壮快感で終わる(『ユージュアル・サスペクツ』などのこと)ところを、推進させ詐欺の続きを描くために一流の詐欺師の手腕をも映画に持ち込み、鑑賞者の心を操り老境で騙された哀れな主人公の精神と一致させたのです。故に本作/ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『鑑定士と顔のない依頼人』は凄い(恐ろしい)映画なのです。もはやこの映画は詐欺ものというには生温く、この映画自体が詐欺である、といって差し支えないほどです。繰り返しますが、それは一流の詐欺師の手腕なのです。

 

散布する悪魔/ネオンデーモン

ニコラス・ウェンディング・レフン監督の『ネオンデーモン』を劇場で観賞したので以下はその評です。と言ってもこの映画が劇場公開されたのは数ヶ月前のことで、同じ日に観賞したのがドン・チードル『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』ですから、本作『ネオンデーモン』を知らない方にもこの評がもはや新鮮さがないことは明白でありますし(が評の鮮度などは山っけのある人のようにレビュー数を気にしたり、商業雑誌に載せる文章でなければ気にする必要はないものであります。なんせgrishommeで一番初め取り上げた映画は『愛の嵐』(1974年、イタリア)ですから(笑)。しかし本作はもはや劇場公開されておらず、更にDVDが出るまでにはまだしばらく掛かるので今は観賞することが出来ない、という点では鮮度を気にするべきです)、正月の出来事と『鑑定士と顔のない依頼人』の評が長くなったのでこちらは手短かに行います(という気はいっさいないのですが・笑)。

私はレフン監督のファンですし、同監督が撮った作品はすべて(10作なのでゴダールトリュフォーなど多作家であるヌーヴェルヴァーグに出自する監督に比べれば容易いことです)観ましたが、あの『ドライヴ』(主演のライアン・ゴズリングが『ブルーバレンタイン』(こちらはデレク・シアンフランス監督)で得た演技派という名声をさらに押し上げ色男/セクシーなスターとして確立させた)を観賞してからのファンという平々凡々としたものであります。

とはいえ私は自分が現在生きている意味(生きている意味、ではないですよ。現在生きている意味、です)の何十分の一をレフン監督の新作を見るためにあると定めております。私は同監督をシナリオも音楽も美術も映像も巧みな名匠だとは捉えていません。それらはすべて優秀ですが、格別というわけではなく、しかし1つだけ大いに優れているところがあります、それは私がいうまでもなく映像の異質な美しさです。レフン監督の先天的な色覚障害が理由の一部になっている(ということはこの障害は映画製作の上では才能になるわけですが)あの映像は、古今東西のさまざまな映画作品やCMのミックスであり、監督のセンスによって編集されるリミックスであり、グルスキー(写真家/ドイツ)やアイ・ウェイウェイ(芸術家/中国)の(作品の)ように始めは山師なのでは?と思わせるもきちんと見ると良い、しかしやはり山師では?とも思わせられる、これらはモダンアートの宿命ですが、されど良い、というつまり繰り返しなのですがモダンアートであります。

それで良いのです。極端な想像ですが、ストーリーが抜群に良くしかし映像は一切だめな映画と、ストーリーはまったく面白くないが映像は素晴らしい映画、が存在し両者を比べると映画としては後者のほうが良い、ということは私が書くまでもないことです。話はなんだが判らないけれどめちゃくちゃクールな映像が次から次に出てくるといえばゴダール(映画監督/フランス)ですが、その点ではレフン(映画監督/デンマーク)はその系統とも言えます。

さりとて、本作『ネオンデーモン』は話の筋がはっきりと読めるものでした(同監督の作品は処女作である『プッシャー』シリーズや『ドライヴ』のように話が明確なものと、『フィアーX』や『ヴァルハラ・ライジング』や『オンリーゴッド』のように一見すると話は分かるが本当は良く分からないもの、という分類をすることも可能です)。

ファッションモデルを目指す娘が都会にやって来てファッション業界で成り上がる、それに伴いライバルたちは彼女に嫉妬していく、という美/芸能界そしてそのゴシップに関連する典型の物語の本作は、美とそれへの同化の欲望の話です。さりとて決して美酷の話ではありません。『ネオンデーモン』にはいわゆるブスと呼ばれる人物は登場しません(とはいえ美酷は絶対的なものではないので、人によってはすべての登場人物をブサイクだと判断することもあるわけですが)。調べていませんが、登場する女性は現役のモデルばかりであると推測でき、というのもその体型を一目見れば誰でもそう判断するでしょうけれど、残りは女優のなかでも、その出演作品のなかでは美貌の人として扱われる人ばかりであります。本作にはフィニーフェイス(顔立ちが特徴的だが美人とも呼ばれる顔)な女性やコメディアンヌは登場せず、故に美酷の話ではなく、美と美との話でありますし、ここまで書けば明白なように美(人)のなかにも順位や嫉妬があるという話こそが主題です。しかしその序列から1人だけ外れている者がいます、それがエル・ファニング演じる本作の主人公なのです。

もう大ざっぱに書いてしまいますが、エル・ファニング蒼井優であります。綺麗ではあるけれど、ファニーフェイスに片脚を突っ込んでいる、されとて上野樹里多部未華子のようにファニーフェイスでもコメディアンヌでもない女優というわけです。そしてエル/蒼井、両人はともに少女性をその外見から発散させています(もっといえば妖精ですが・笑。蒼井優羽海野チカ著の漫画を原作とする実写映画『ハチミツとクローバー』で演じたもっとも漫画的なキャラクターであり妖精的(というか原作でも妖精扱いされる場面がありますが)な登場人物、花本はぐみのビジュアルと完璧に一致していたのは記憶に新しいことです)。端的に言えば美よりも可愛いなのです。

kawaiiという言葉で世界に発信されたこの価値観は、現在も世界を覆い……とは言いませんが世界の1/5くらい、欧米系の国々の少女/女性たちに日本産の漫画やアニメと共に浸透しておりファッション業界もそれを見過ごすことはできないという現状は、本作でエル・ファニングがトップモデルとして扱われて行くということに表れていますし、またインスタグラムやツイッターにファッションモデルが投稿した写真で披露する変顔、などで現実世界においても価値あるものとして扱われています。

その言葉があるように、美と可愛い(kawaii)はそれぞれ違うものである、ということは整った顔立ちの冷たさと可愛い顔立ちの非均一さなどを語らなくても誰もが実感していることです。故にその可愛いエル・ファニングは美と美の序列から抜け出しています。しかし序列の先には別の価値観が生まれました、それは輪とも言えるものです。元祖ファニーフェイス女優、といえばオードリー・ヘプバーンですが、彼女の出現によって美の概念は変化しました(あるいはその変化の象徴が彼女です)。

美(綺麗/均衡)には可愛いがなく、可愛いには美がない。と書いてしまうのは乱暴ですが、この2つの概念は対比し、そしてその中間層も生み出し美やファッションの歴史を作っています。これもまた端的に書くと、少女性と大人の女(妖艶/セクシー)という対比も含む(日本では現在より少し前に倖田來未をアイコンとするエロかわいい(中間層)という概念も生まれました)ヘプバーンとマリリン・モンローという同時代を生きた2人の女性の対決です。

それまでは美の序列であり、美(綺麗/均衡)→さらなる美→それを超えた美→……というものでしたがファニーフェイスあるいは可愛いという概念の価値が上がって以降は、美(綺麗/均衡)→可愛い(不均衡/特徴ある顔立ち)→美→可愛い→美……という輪になったわけです。故に本作『ネオンデーモン』で可愛いを有するエルが登場し、彼女が業界でのし上がる、つまり彼女の価値が上がることで美を有するモデルたちは恐ろしい嫉妬を抱きます。序列においてはそこに属している限りは優劣はあれども同じ属性(ここでは美)を持ちますが、輪においては優劣すらないのです、彼女たちは美を持つが故にかわいいを、均衡した顔立ち故に不均衡な顔立ちを持っていません。可愛い、はそこでは異物なのです。

異物が評価され、価値を得たとき、それ以外のものは尻を巻くって逃げるのが懸命な判断ですが、それでもその業界にしがみつきたいとき、もっと言えばその時代で評価される外見を持ちたちときにはどうすればいいのでしょうか?そうなったらもう対象と同化するしかありません、それを体内に取入れる/取入れられるしか自分が持たないもの→異物を手に入れる方法はありません。同化すれば良いのです。同化すれば自分も可愛いになれます。同化とは自分が対象と1つになることであります。これも乱暴な例えですが、黄色人種が白人になろうとしてもなれません。しかし白人とのあいだに子が生まれれば、その子は半分は自分で半分は白人です。がこのように子を生せる者つまり異性同士の話ならば同化は比較的容易いのですが、同性である場合はどのように同化することができるのでしょうか?これはレズビアンやゲイに関連するだけの話ではなく、交わっても子を生み出せないものすべてに関連する話です(念のために書きますが、逃げたり諦めるのが冷静な判断ですが、諦められなかったときの話ですし、欲望や渇望とはそういうものですし、子というのは概念というか端的な比喩です)。

そして本作のラストではその問いへの安易尚かつ悲劇の回答として、あのグロテスクで恐ろしい事件が起るというわけです。もちろんこれは美への批判ではありません、現在はkawaiiが価値を持つ時代ですが、美のほうが価値ある時代になったときに可愛い人々はどうするのか?特にファッションや「美」や芸能に関連する業界に関わる人々は、ということと同じことです。

本作は常に不穏な空気に包まれていますが、画面に映る、実際に作中で起る事件はこの同化のための殺人だけです。ファッション業界のゴシップ映画というと、大抵は権力を利用した男による女への欲望、そしてそれを上手く/悲劇的に利用する女性が描かれますが、本作にはそれらは登場しません。登場する男性は、道徳的だがうだつが上がらない若者、無口で不気味だが仕事はするカメラマン、つねに不機嫌なモーテルの管理人(なんとキアヌ・リーブスが演じている・笑)、深いことを言っているようでごく当り前なことしかいわないファッションデザイナー、と暴力を振るったり性欲を押しつける者は1人も登場しません。

しかし、つねに画面には不穏感が漂っています。これは女性が男性に対して不安を感じただけで(犯罪が行われなくても)女性を圧迫し不安にさせる理由としては十分すぎるほどだ、と言っているようでもありますし、(ファッション業界を舞台にしている、という前提があることを忘れてはいけませんが)女性はつねに男性から若いとか美しいとかいった価値で/価値を計られており(もう一度言いますが、この業界ではそれが彼らの仕事ですし、彼らの客も女性です。故に購買層である女性が商売人の男性を通して仕事人の女性を判断しているともいえ、しかしその購買層の女性たちの判断基準には男の価値観(男性の目線、社会的な性的な役割の固定など)も入っており……と無限の男女間の価値の押しつけに言及することも可能です)それだけで女性を(犯罪が行われなくても)圧迫し不安にさせる理由としては十分すぎるほどだ、とも言ってるようでもあります。が画面に映る、起こる事件は女性同士の同化のための殺人だけです。

なので本作はファッション業界/芸能の世界を舞台にした映画にありがちな、現実に起る男女間の問題を切り取った作品ではなく、美と可愛いの両方を包括する「美」というものが持つ恐ろしさを描いた映画なのです。

では題名の『ネオンデーモン』とは一体なにものなのでしょうか?本作には(黒い翼が生えて刺又や槍を持っているような・笑)悪魔や魔術は登場しません。ネオンデーモンとは「美」に魅せられた、「美」を見つめ続けた者の成れの果てのことなのです。作中では印象的なものとして眩い光を放つネオンやフラッシュや照明、夜空に浮かぶ月が描かれています、すべて光りに関連するものであり、狂人を意味する英語であるルナティックは月の女神ルナに由来しており、この女神は人を狂わすと信じられていた、というのは有名な故事ですが、暗闇のなかで自分に向けて(のみ)放たれる光は人をおかしくしていきます、それは神々しさから狂人までを含む日常ではないものへの変化という意味でのおかしさ、ですが。

エル演じる主人公は可愛さという「美」の力でファッション業界をのし上がり、クラブでフラッシュを浴びスタジオで照明を浴びそして極めつけのステージ上でネオンを浴び、デモニッシュなものに豹変します。彼女は可愛いの持ち主なので美を持つ者にとっては彼女は異質/異物のものであることは再三書いて来ましたが、その可愛さの力を高めていくことはより一層の異質/異物になることであり、異質/異物が故に彼女は人から羨望され恐怖される、それはこの世の通りの外におり(美の序列から外れて、その可愛さ(kawaii)で)人を誘惑し堕落される悪魔=デーモンのように、というわけです。

そして彼女と同化することを求め事件を起こした女たちもまたネオンデーモンであります。彼女たちは「美」について考えそれを実践し仕事にもして来た人々です。しかしその度合が(それまでの人生経験とエルの登場により)常軌を逸するにつれてデモニッシュなものに豹変し、最終的にはあの恐ろしい同化という事件を起こすデーモンとなります。

故に『ネオンデーモン』の悪魔とは、「美」を追い求めた者たちの成れの果ての姿の指しているとも書け、またネオンデーモンは空気のようにどこにでもあるものであり、誰でも触れることができるもので、さりとてそれを吸い過ぎると人をおかしくしてしまうものであるとも言え、つまり空気中に散布するヤバい物質として、窒素やガスのようなものであり、「美」に関するその空中に散布するヤバい物質の名称がネオンデーモンである、これを吸い過ぎれば誰でもデーモンになってしまう、という結論が可能というわけです。悪魔が悪魔を産み出しているのです。

さりとて人々を悪魔に変える空中に散布するこの「美」の悪魔は「美」に執着する人々にしか吸引不可能なものであり、故に「美」に奉仕する者たちは偉大な人々ではあります。がさりとて誰でもそうなる可能性はあるのです。「美」は人間にはあまりにも身近なものでありますし、「美」は常に人々を誘惑しています。なので誰にでもあの美の序列に並んだり、美と可愛いの輪で回る可能性があります(正確には回ることができないジレンマに落ちいる、ですが)。いや1度ならず美や可愛いに淫したり、追い求めたことがある我々はすでにそうなのでしょう。故にネオンデーモンを吸いすぎぬように/あの光を浴びすぎぬように注意しなくてはなりません。

 

と、また文章を長文にしてしまう私の悪癖が出てしまったので、今回はここで筆をおきます。前回の記事投稿から今回の更新までには期間が開いてしまいましたが、次回はここまでは期間を開けずに更新をいたします。それではまた『ラ・ラ・ランド』も『騎士団長殺し』もないウェブログでお会いしましょう。当ウェブログgris hommeは敬体と常体という2つの文体を使い分けて文章を書く、という趣旨があります。次回の更新ではそのどちらを使おうか考えながら技を磨いていきます。もはや新年度であります、みなさんの新しい春に多くの幸があるようお祈りいたします。

「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!おい!」「分裂してんだよ」/重力(敬体)と恩寵



親愛なる読者の皆様、「シンゴジラ」も「君の名は。」も「逃げ恥 」も無いブログにようこそおいで下さいました、再びお目に掛かれ光栄です(念のために書きますが、それらのことを悪く言っているわけではありません。それらしかない文章は悪いと思いますが・笑)。日記や批評を掲載するgris hommeに先立ち、私は小説を掲載するブログcalmant doux pour la dépression.(旧名:インヴィジブル・ポエム・クラブ)を運営していますが、前々からこんなネットの片隅の片隅で掲載する小説をどなたが読んでいるのだろうと思いながら、しかし回転しているカウンターを見て確実に読者がいることを感じ(そしてたまに女友達などからお酒の席で感想をいただき)、いまこの文章をお読みの皆様も含めて(ほとんどの場合で)名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々に奉仕するつもりで小説を、批評を、書いて来ました。

ここに来て実感しているのですが、どうやら私の文章は感想を言い難いもののようです。文章のクオリティーや面白さと感想(の数)は別のものであることは私が書くまでも無いことですが、素晴らしい小説を書いた作者に感想が沢山届くというの は言わずもなが分かりやすい話ですが、その一方でインターネット上では多くの人々が駄作や拙いものを作る人間を潰すのが大好きだということも忘れてはならない事実です。ネット社会は素晴らしいものを褒めそれを伝搬するのは得意ですし、それにともなって大物に媚びへつらうもの得意です、が弱いものを育てるという機能はほとんどもっていません(ネット社会ではそれは良心として表れます、良心を発揮/施すことは賞賛すべき良き行いであっても機能ではないのです。良心と少年野球からプロ野球そしてメジャーへ……という構造や、サッカーJリーグのJ1、J2、J3……という構造を比較すると分かりやすく、後者にはその構造(野球界、サッカー界)に育てるという機能が組み込まれていますが、前者 にはそれがないのです。スポーツとメディア/インフラを一緒に語るなという言葉もあるかもしれませんが、両者共に社会ではあるのです。もちろん両方に一長一短があり、システムとは盤石なものですから、そうそうに崩れることはなく、また循環的なものです。循環がスムーズでありその度合は多いほどそのシステムは強固と言えるでしょう。例えば資本主義というシステムはそもそも物(貨幣と物の)交換に基盤を置いているわけですから、まさに循環そのものであり、とても強固なシステムです。これは交換頻度の少ない共産主義の失敗や、不景気の原因が人々が持つ貨幣が少なくなることではなく貨幣を使わなくなることにあることを考えればより明白になります。野球界は少年野球からプロ野球へのレー ルがシステムとしてあり、プロ野球選手が少年たちに憧れをあたえ、または彼らが引退後、少年野球チームを含む様々なチームの指導者になるというレールをその構造に含んでいます。つまり低から高へ、そして高から低へという循環があるのです。これがシステムです。しかし一方でシステムとは冷たいものでもありますから、資本主義下ではそれらはショー化/エンターテインメント化し悲喜劇を呼び資本/金銭というプレッシャーの下にドロップアウトしたはぐれ者やアウトサイダーを生み出します、共産主義社会主義下では国への奉仕という名目がその肩にのしかかります(例えばかの国では音楽家はみなコンテストに掛けられ、その実力は国家への奉仕であり、その度合により見返りとして社会的な地位と 待遇が決まります)。そこにあるのはエリート主義/成果主義の一見すると熱くもその中心はとても冷たいシステムです。一方のネット社会は教育/成長のシステムを持っていませんが、良心はあります。良心とは各々(良心を送るほうと受け取るほう)の性質により決まり、故に多くの場合で発揮されず、それどころか成長さえ拒むことがありますが、一度良心は発揮されれば大規模なブームや、質の良い作品を生むことがあります(前者はPPAP、後者はクラウドファンディングに代表される趣味の世界です。両方共に、非エリート主義であり、ドロップアウトした者や、アウトサイダーが活躍する世界です)。そういった弱いものに届く酷評や侮辱も感想といえば感想ではあります。

しかし私には毀誉褒貶含む感想がほとんど届きません(まったくないわけではありませんが)、もうこうなると私の作品全般に、感想を言い難いという特徴があるとしか判断出来ません。可能性として、皆さんからは私がそよ風が吹けば吹き飛ばされる藁の家の如くか弱く見えていて、その弱さは酷評が大好きな人々さえもがたじろぎ気を使ってしまうほどだ、だから感想を届けないのだという説も提示することができますが、当人の実感としてしっくりこず、また可能性としても前者のほうが遥かに高いでしょう(万が一、もし後者であるのならば、私はいま以上に皆さんの優しさに感謝し、そしてあえて厳しさを発揮する人にもいままで以上の感謝を捧げます)。

私はなにも感想を寄越せと言っているのではありません(いただけるのならば、よろこんで頂戴いたしますが・笑)、私が言いたいのはそういった私の性質故に、上記した”名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々”の名も顔も知らぬ度合が上がってしまっている、しかし感謝を捧げたいということなのです。ありがとうございます、この文章をお読みの皆様も含めて(ほとんどの場合で)名も顔も知らぬ、どこかにいる好事家の方々に感謝をこめてアレー(フレー)をお送りいたします。



というわけで、今回のエセーの本題に入ります。虎山元紀というのは私が半年ほど前から名乗っている芸名/ペンネームです。私には本名があり、ネット上での名乗りであるハンドルネームもあります。音楽の演奏と小説や批評を書くことにアインデンティティーを置いている私は、演 奏家として実際(リアル)の現場のステージに上がった時から本名を使い、活動する場所がウェブ上のログである小説/批評のほうにはハンルドネームを使用していました。後者は"とらさん"という名前です。これはそもそも、私がインターネットに手を出した数年後(電話回線を使ったネットへの接続が終わりに差し掛かろうとしていた時期です)のある日の深夜に入室したチャットルームで名乗った名前でした。当時のハンドルネームというものは現代よりも遥かに偽名の意味合いが強く(フェイスブックが日本に上陸していないその時代、本名で活動する人は有名人/芸能人(タレント、俳優、音楽家、芸人)かちょっと気の違った人のどちらかでした。前者の人々の名乗りが芸名というすでに本名ではない名 前であることが多くの場合であることも忘れてはならないことです)愛称ですらも無い、特殊なコードのようなものでした。私は前述したようヴィデオゲームを嗜みます、そこで名乗る名前(プレイヤーネーム/キャラクターへの命名)は決まったものでした、それをハンドルネームとして使用しようかとも思ったのですが、前述したように偽名という意味合いが強いハンドルネームという特殊なコードには相応しくないと判断し、とらさんを名乗り入室したのです。

正確には"虎さん"という文字だったと記憶しています。そもそもこれは"寅さん"であり、日本映画界屈指の人気/長期シリーズである、東京は葛飾柴又生まれの博徒の流れ者の主人公が登場する山田洋次監督、渥美清主演の映画「男はつらいよ」 から取ったものでした。渥美清が演じるこのセリーの主人公の名前は車寅次郎、作中、彼は人々から寅さんという愛称で呼ばます。そう彼こそが"とらさん"なのです。この映画が、私がこの名前を名乗ることになる当日の夜にテレビで放映していたのです。と、あまりにも昔話が過ぎるというか、若い皆様は付いて行けない話ではありますが(昭和という年号の時代を2年しか生きていない私にとってもこれはマージナリーな話ではあります)あと少しだけお付き合いください。私と同年代+αの皆様は当時の空気を思い出しながらお読みいただければ幸いです。

映画の登場人物の名前ほど偽名に相応しいものはありません。なにせ当時のインターネット社会というのは今よりも遥かにサブカルチャーの度合が強 いものでしたから、この名前には亡国者やDV被害者の妻子が名乗るような真面目な偽名性がなく、また実写映画は役者が演じ、そもそも多くの役者が芸名(渥美清は芸名であり、氏の本名は田所康雄です)を使っているということからも、映画の登場人物の名前は偽名の者が名乗る偽名という2重の偽名性が〜というややこしさ(笑)もちょうど良く、当時の私そして当時のネット社会の気分に適合したものだったのです。しかしただそれを名乗っては芸が無いと寅の字を虎に変えて(これも単純な話ですが・笑)"虎さん"として入室し、すでに入室していた皆さんの一笑と共に私はそのコミュニティに迎えられたのです(この方々とはのちに実際にお会いし、現在では食事やアルコールなどを一緒に楽しむ大切な友人 になりました)。このハンドルネームはのちに耳障りならぬ目障りが良いという私の判断の下で虎の字をひらがなの"とら"にして"とらさん"にしました。そしてこの名前でmixiに登録し、のちにツイッターに登録し……とネット上に敷かれたレールの上に乗っかるようにして現在に至るわけです。

自分で"さん"という敬称を名乗ることには若干の後悔と大きな恥ずかしさがありますが、これが”様”などではなくと良かったと安心しています。名前の効力というのは太古における呪術的な意味合いや中国の字と諱などを説明せずとも、万人が知っていることです。車寅次郎という博徒の瘋癲の、家族思いで人情家で涙もろく親しみやすい人間の愛称をハンドルネームに使用していなかったのならば、私はいまよりも (いまでも自分のことをボンクラのチンピラと認識していますが、それよりも)もっと遥かに悪い人間になっていたことでしょう。"とらさん"という名前の響きが持つ意味合いにそしてその魔力的な力に私は多くの場面で救われて来ました。このハンドルネームを知っている友人知人からは、とら、を初めとして、とらくん、とらちゃんとも呼ばれますが、その度に、この名前を選んだのはファインプレーであったと思っているわけです。それは渥美清の、彼が演じた寅さんの、そのイメージが持つ、守護者的な力の賜物でしょう。

さて、ここで私はまず第1の分裂を迎えるわけです。本名とハンドルネームの分裂です。私はと書きましたが、当時のネット上でハンドルネームを名乗っていた人間の多くがこの分 裂を迎えたわけですが、そこにはスパイ映画/小説の登場人物にでもなったような面白みもありました。いうまでもなくスパイは偽名を名乗りますし(ジェームズ・ボンドは別として・笑)、そこにも喜劇と苦悩があります。この喜劇と苦悩は私の場合、本名でもネット上で活動し始めたことで倍増していきました。先程私は自分のアイデンティティーを音楽と小説/批評に置いていると書きました。次はその音楽の話です。

本名でWEB活動を始めたのは当時師事していたジャズの先生に勧められたからでした。当時の私はジャズギタリストでしたから、その活動を宣伝するウェブログを解説したのです。芸事には芸名というものがありますが、偽名という色合いの強いハンドルネームとは違い、それはドレスア ップのようなものです(実生活とは異なる自分を創作するという点は共通していますが、芸名を持つことはそれ(芸名)を演じるという意味合いが強く、芸事と神事の関わり、シャーマンや巫女、司祭や神職/僧侶の改名など持ち出して、本名とは異なる名前を使うことは舞台の上/聴衆の目前で動作つまり儀式/儀式めいたものをすること→演じることや演奏するために必要な行為だと語ることが可能でしょう。そして私はいま"実生活とは異なる”という言葉を使いましたが、その通り当時のネット社会は現在よりも遥かに現実(リアル)と分離していた→故にハンドルネームは偽名、だったのです)。具体的にはアイドルが歌う場所には、アイドルに似合う服装が相応しいのと同じように、蒲池法子という名前よ り松田聖子のほうが相応しく(いうまでもなく、後者は前者の芸名であり、前者はその本名です)、戦後のダンスホールを飾るジャズバンド/シンガーとしては三根徳一よりディック・ミネのほうが相応しいのです。当時のダンスホール/キャバレーには現在のクラブやフェスのように成文律/不文律のドレスコードがありました。板(ステージのことです)の上に立つ演者には名前にもそれが適用されます、それをドレスコードと言わずなにと言うのでしょうか(もちろん、常にどの時代/シーンにも(以前の私のように)本名で活動する方は居られ、本名と芸名は対立しているのかどうか、本名を芸名として使用することの日常生活への影響力はあるのかどうかなどは、名前が持つ力を語る上では外せないことで はありますが、今回のエセーは名前の分裂を主題にしているので、混乱を(そして冗長になることを)避けるためにオミットします)。

しかし私は本名で活動をしました。端的に言うと当時はそっちのほうが格好よいと思っていたのです(笑)。しかしそのことで分裂が起こります。現実の生活を本名で送り、仮想現実を偽名(ハンドルネーム)で過すだけならば良かったのです。それは当時としては常識/マナーともいうべき真っ当で普遍的なことでした。しかしネット上にでも本名で活動し始めたことで問題が起こります。"ネット上"で活動した時点でそこで本名を名乗っていても、演じるという行為が発生してしまうのです。これはフェイスブックなどの本名の使用を推奨するSNSの現状を見れば誰にでも理 解できることです。そして当時の私に待ち受けていたのは現実(本名)ネット(偽名)ネット(本名)という3重の生活でした。先程私はスパイの例えを出しましたがこれでは3重スパイ、そして演じるという点では1人3役です。3重スパイのスパイ小説、1人の役者が3役を演じる映画を想像して頂ければ分かりやすいのですが、それらは相当に練られたプロット/ストーリーテリング、そして役者の演技力が無ければ、読者を/観客を混乱させるだけのものになってしまいます。名前も、それを演じるもの同じで、つまり端的に言うと、とっ散らかってしまったわけです。1人の人間がとっちらかる。それこそが分裂というものです。

名前におけるストーリーテリング力も演技力もない私は常々、これは 良く無い事態だと思っていましたが、それを統合することができませんでした、3つの名前によって分裂させた実生活を/ネット社会を生きて来たのです。しかしそういうものはあるときふと解決するものです(以前のエセーに書いた、自分がスウェットを着用して外出する許可をあるときふと自分の心が自分に対して出したのと同じように、です)。

その答えの前に"分裂"というものについてもう少しだけ言及しなければいけません。分裂とは1つのものが2つ以上のものに別れること、とは字義のとおりですが、現実には我々人間は分裂すれど1つの肉体に納まっている故に完璧には分裂しきれません、ジキルとハイドのようにある種の(創作上の)多重人格者でさえ、それは1つの肉体の範疇に納まってい ます。とここまで語っているように私が話している分裂とは精神の、人の状態の分裂のことを指しています。心が引き裂かれたとき肉体も分裂するならば我々は多くのことに悩まずには済むでしょう。とはいえそれは思考実験を含むSF小説の世界であり、その物語の最後を想像すると肝が冷えるような気分になります。故にこう言い直すべきでしょう。我々は心が引き裂かれても、肉体のおかげで個体/個人を保てている、と。もちろんここで語る分裂とは、精神疾患に及ぶようなものではなく、誰の身にも現在進行形で起っている程度のもののことです。

再三の繰り返しになりますが私は、ジャズメンと小説家/批評家にアイデンティティーを(その実力や実績はまた別として)置いています。そういったもの が人々の心に呼び起すイメージ、特に前者のジャズが連想させるものであるBarやファッション(スーツ)、アートと私は関連して(友人たちからも)捉えられることが多く、もちろん私は私に、とくに本名で活動している私(現実/ネット上)にそういったイメージを意図的にコミットさせてきましたし、実際にそれらを愛し、僭越ながらもそのように発言/発信して来ました。しかし一方で私はオタクでもあります。オタクの意味は今ではアニメ愛好家程度のものになり、その中には昔ながらのくさい人(もちろんそれは悪いわけではありません)から洗練された美しい人も居るという事実を多くの人が認識しながらも、しかしある種の差別の対象であるという状況ですが、私はその意味/定義を精神科医斎藤環 さんが仰ったアニメーションのキャラクターで自慰行為を出来る人、つまりその程度はアニメやマンガに精神的な壁が無い人としています。私はオタクであると上記したとおり、私はアニメーションで漫画で絵でマスターベーションをすることが出来ますし、オタク界(キャラクターで自慰行為が出来る人々)のあいだには平面の絵(アニメ、漫画)では自慰が出来るが3D(CGなど)では出来ない人がおりますが(私の知人にハードコアなオタク(と書くと皆さんがどのような人を想像されるのか。氏のことを誤解させないように書きますが、彼はインターネットを嗜む方ならば誰でも知っているほどに有名な会社に勤めている有能で、人当たりの良い人、つまり病的な変態などではない表面上はとても普通の人であ ります)がおり、氏はハードコアなもの(いわゆるパソコンでプレイするエロゲなど)でオナニーができるが、3Dだけはダメだと仰っていました)私はそれも余裕で出来ます(しかし絵柄によってはまったくもえ(萌え/燃え)ません。知人と私のこの癖(へき)をオタクの一般的なものと拡大すれば、2Dと3Dはアニメーション作品制作上の方法論はべつとしても、観る側としては対立している概念と語ることもできるでしょう。最近"超リアルなCG"としてSayaという女子高生のキャラクターが話題を呼びましたが、私はあれには全然もえませんでした。2Dも3Dもその範疇に収め、私は現実の女性ともセックス出来ますが、あのキャラクターには(可愛い/美しいという感想や、性欲を滾らせるようなことがなく)ま ったく興味が涌きませんでした)。故に私はオタクを自認しています。

それが私の分裂なのです。もちろんジャズメンの、特に日本人のジャズメンのなかにはオタクも多くいますし、ジャズミュージシャンがアニメ音楽の現場に関わり、またジャズミュージシャンはアニメ音楽に限定せずポップスやディスコミュージック、ロックや童謡や民謡さえジャズ風にアレンジしCDなどにして来ましたが、後者は生業のためはもちろんそれをすることのできる技術を持っている故の行為であることは言うまでもありません。では前者はどうしているのかということに関しては、私の観察によれば、という非常に限定された範囲での言及になりますが、それは多くの人が予想しているように、適度に隠しているというのが実 情です。しかし私自身のことに関してはそれでは納得出来ないのです。実際のところ、アニメ好きのジャズメンと私のアニメ好き度合を比較すると、私のほうが勝ってしまうということがあるのかもしれません(とはいえ、テレビで放映されるアニメ番組を録画してまで観ることはありませんし、アニメのDVDやフィギュアやキャラクターを演じる声優のライブなどには手を出していない程度のオタクではあるのですが)。それは想像の範疇を出ませんが、その真偽はまた別としても、適度に隠すことに私は納得出来ません、というか隠してもいづれはドロドロのマグマのように噴出すると思っているわけです。そしてそれでは面白く無いとも思っているわけです。

と、ここで種明かしのようなものなのですが、 私のハンドルネーム”とらさん”が産まれたチャットルームはあるテレビゲームの同好者の人々が集まるものだったのです、そして私も含む彼らはそのゲームへも参加するようになります。つまり”とらさん”はそのはじめからオタクであり、その後はゲームキャラクターとしての振る舞いもすることになるのです。

そしてジャズメンとしての本名、オタクとしての偽名がネット上の活動でさえ私を分裂させます。ジャズメンとしての私は”とらさん”を出せませんし、”とらさん”は本名を出せません。具体的に言うとそれをするとそれぞれの場に居る人々が引いてしまうわけです(笑)。それで良い、使い分ければ良いのだ、と思っていた時期もありました。これに対して演じ分けという言葉を使い、それ はつまり名前に関わらず誰もしていることなのだ、例えばネット上であっても人々はフェイスブックの私とツイッターの私を使い分けることがある、そして現の社会でも家庭と会社、友人の前と恋人の前でそれぞれの私を演じ分ける。と語ることも可能ですが、ただの演技と、偽名や芸名を纏っての演技ではやはりその度合が違います、というよりも演技は演技だが、別名を纏うことは別人になること(ここで再び、役者の例えを出すことも可能です。異なる自分を演じるのではなく、別人を演じるのです)であり、それらは違うものであると言ったほうが適切でしょう。故に本名を芸名にしている人々は芸名を使う者よりも人々にそして自分に誠実であると言うこともできます。

話を戻します。大半の時を分 裂に苦しめられて生きて来た私は、それをこのたび解消したのです。方法は、ハンドルネームと本名の連結/合成というしごく単純な方法です(苦笑)。別れていたものを繋ぐには連結させてしまえばいいのです、そこには一新した名前などは必要ありません。

虎山元紀という名前がその答えです。

私は"とらさん"の字を虎山や寅山と書く場合もあり、とこれでは無限に偽名の偽名の説明がつづくことになってしまうので、その詳しい説明は省きますがとにかく偽名の中でもっとも姓/苗字らしく見えるものを選択したわけです。一方の元紀というのは私の生まれながらの本名の名であります。この2つを繋ぎ合わせ虎山元紀としたのです。

読みは"とらさん もとき"です。これでは姓/苗字がなく名 が2つ連続しているようですが(正に2つの名が連結しているわけですが)、私は人々から"とらさん"や"とら"と呼ばれることに親しみ、また気にもいっており、本名の名に対しても同じですので仕方が無いことなのです。虎山と書いて"こざん"と読ませる、まるで茶人や俳人のような名前では私の心が納得しません(言うまでもなく、茶人や俳人が悪いと言っているわけではありません、念のため)。いささか不格好な名前ではありますが、それは連結/合成されたものの宿命というか、キマイラ的な存在の魅力でもあるので、そういったものの利害得失を享受します。
 
ここで私は大きな間違いに気が付きました。今回のエセーのタイトルは「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!お い!」「分裂してんだよ」/重力(敬体)と恩寵、ですが正式には「虎山元紀ってなんだよおい!その名前なんだよ!おい!」「分裂していたんだよ」/重力(敬体)と恩寵、と過去形にしなくてはなりませんでした。名前による分裂は過去のことなのですから。
 
と、また私の文筆上の悪癖である、手を広げ過ぎる/長文になり過ぎることを発揮して、文章が長くなってしまったので今回はここで文を閉じます。要約ではありますが、物書きは成長すると悪い部分もまた成長させる。例えば下手な文章を書く小説家が成長すると、より面白い下手な文章を書くようになる。と言ったのは村上春樹氏です。私のこの悪癖により、皆さんが(幾ばくかの)面白さを感じていただけたのならば幸いです。 次のエセーには日記、そして最近観賞した映画「鑑定士と顔のない依頼人」の批評を掲載します。それまでにその力/技術を磨いていきます。それではまた「シンゴジラ」も「君の名は。」も「逃げ恥 」も無いブログでお会いしましょう、御贔屓にしてくださる皆様のご健康を祈りながら、筆をおきます。