(流行っていないほうの)肺炎にかかって悲嘆するサキソフォニストが選ぶ美味しいお菓子トップ10!

 ない。そんなものはないんだ。このウェブログは僕が書いたエセーを日々掲載するつもりのものだったのだけれど、様々な理由(主にそんな暇があるならばテナーサキソフォン演奏の練習に時間を使いたいという理由)でその目的を阻んでいた。その根本的な原因を精神分析学に求め、フロイトに範を求めるならばすべては無意識の行いであり無意識は意識できないゆえにその答えは僕には分からず、ユングに範を取るならば集合的無意識に文章と音楽との組み合わせは悪いということを知ることになり、アドラーに求めるならばそれは僕がエセーを書きたくないからだ、となる(なぜ本邦では近年これだけアドラーの思想を広めんとする書物が売れているのにも関わらず、そのもっとも重要なテーゼである「不幸な者は不幸で居たいからこそ不幸なままなのだ。不幸な状態にこそ安堵しているからこそ不幸のままでいるのだ」というものが広まっていないのか。もちろんその理由は本を出す側がその点をオミットしているから、よしんば描いていてもそのハードさに耐えることが出来る読者が少ないからだ)。そして僕は体調を崩している時だけ、こうしてエセーを書くことができている。

 

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病弱と本と紅茶

 この場がこのまま病弱なときなだけ更新するウェブログとなれば、それはそれで文学的な行いにも思えるけれど、日本文学史においてそれはあまりにもありふれたものであることを僕は知っている。以前のエセーにも書いたのだけれど、各国の近代文学が特定の主題に寄ることは知られている。フランス文学の主題は金の話であり、ロシア文学は宗教の話であり、ドイツ文学は死と人生であり、日本のそれは病気だ。心身の病気を題材にした文学などは、日本では小説でも日記でもありふれている。僕の書くことはありふれている。

 


 2月のはじめ、僕は住処の模様替えを試みた。もともと、部屋は汚いほうではないけれども(そこを見た人には一度もそれについて呆れられたことも罵られたこともないから、これは僕の主観だけの感想ではないんだ)それでも、棚を動かしてはその裏で眠っていた埃を掃きだし、幾多の服を捨て、壊れてそのままになっていたオーディオ機器を捨て(その時までの僕にとっての音楽は、サキソフォンやギターや電子ピアノで自分で演奏するか、スマートフォンにイヤフォンを差して聴くか、たまに行くライブ(多くの音楽家が、人が開く音楽会に行くことは実は少ない。仕事や練習に忙しいからだ)で演奏家の奏でる音楽を目の前で聴くものだった)、多少の本と家具を捨てた。なかでも長年使っていたベッドにも変形するソファーを捨てたことは大きな出来事だった。このソファーの上で僕はいろいろなことを学んだんだ。自分の入眠と起床の感触を、如何に眠りが魅力的であるかを、自分が成人してから高熱にかかった時には滝のような汗を出すことを、人が快楽によって出す声の音高がどうやって変化していくのかを(人が快楽を感じることで発する声は緩やかな曲線を描くように上がっていくのではなく、段階的に上がり、最後は無声の、金切声も超えた、息を何とか吐きだすのがやっとのような、声にもならない声を出すのだった)。それを僕の住んでいる市に依頼して粗大ごみの回収に出した。かかった金はわずか1000円だけだった。

 

 そして新しいベッドと本棚を設置して、部屋の模様替えは無事に終わった。古いソファーにさようなら、新しい熟睡にこんばんは。ついでに細やかだけれど新たなオーディオ機器も手に入れた(これで家でもCDを再生できる。バイラルの再生機器は壊れていたので捨ててそのままだ)

 

 というところで体温39度を超える熱が出たんだ。この時は病院にも行けない状態で大変だったよ。いま世間を騒がせている新型のウィルスに罹患した心配はまったくしなかった。熱が出るのは体力がある証、と昔から言う。それから24時間が経過して体温が37度台にまで落ちてその通りだなぁと納得する僕をすぐに喘息のような症状が襲った。荒い呼吸と咳が何日も止まらない。もしや……と嫌な予想が頭をよぎり、その結果は肺炎だったのだが、流行のものではなかった。隔世の感がある。もともと、人に楽器の演奏や理論を教えたまに作曲をし、あるいは女性に奉仕をし、自由な時間は楽器の演奏の練習に使っている人生であり(と書くと、「優雅な生活だ」と思う人がたまに現れるのだが、僕の人生は畳の上では死ねないものだろう)それも僕はジャズのビバップが好きな者であり、僕の人生の多くを占めてきた音楽がそれであるという時点で、隔世の感があったのだけれど、僕の病気までもが流行とは離れている。そこにも隔世の感があることに深い納得を得るとともに、僕は一人で春の黄昏る空を見ながら笑ったのだった。フレイザーが『金枝篇』で唱えた感染魔術とその予防法のごとく混乱している社会からも僕の病気が離れている。そんな状態が一か月ほど続こうとしている。

 

 このときは、自分の音楽に関する技術も理論も大きく進んだ、といった最中であり、住処も新しくなり、次に進むという時期で……。というところで僕は大きな足止めを喰らっているのだった。この原因をフロイトに求めるのか、ユングに求めるのか、アドラーに求めるのかで答えは変わる。原因とはまず初めにあるものではないんだ。まず気に食わない結果(出来事とか事故とか病気とか)があってそれからその原因が生まれる。たとえば自動車のドライヴァーが無免許/飲酒運転をしていても、なにも起こらずに無事にその運転を終えていれば、その時点では無免許も飲酒運転も原因とは言わない(無事に運転を終えることが出来た原因は飲酒運転していたからだ、という想像力を持つ人は稀有な存在だ)。事故が起こった時に初めてそれらが原因として名指しされるというわけで、だからアドラーは「不幸な者は不幸な状態で居たいからこそ不幸なのだ」と言ったのだった。僕は”アドラー派”ではないのだけれど。

 

 日課としていた楽器の練習も運動もできないなかで、僕は気が付いたら多くの書物を購入していた(文章と音楽の関係性)。手に入れたのは以下の本たちだ、なかには学校や自治体の図書館で一度は完読したものもあるけれどまた手にすることを僕は選び、読み進めているのだった。

 

・『モードの体系』ロラン・バルト

・『エクリ』ジャック・ラカン

・『ものぐさ精神分析』『続 ものぐさ精神分析岸田秀

・『純粋理性批判(上中下)』『実践理性批判イマヌエル・カント

・『意味がない無意味』千葉雅也

・『哲学の教科書』中島義道

・『ヒッチコック映画術』フランソワ・トリュフォー

・『ジャズ・アクネドーツ』ビル・クロウ

・『大いなる眠り』レイモンド・チャンドラー(上のものと合わせて村上春樹翻訳版)

・『渚にて』ネヴィル・シュート

・『やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい(2)』芝村裕吏

・『指輪物語(計9巻)』ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン

・『アドヴェント・カレンダー』ヨースタイン・ゴルデル

 

 これらの本(ブルガーゴフの『巨匠とマルガリータ』やコジンスキーの『異端の鳥』や蓮實の『『ボヴァリー夫人』論』やバルトの『s/z』やノーマン・メイラー全集なども買いかけたが破産するのでやめた)と、オーディオ機器のおかげで退屈はしていない(もちろん嘘だ。退屈とはなにか1つに夢中になれればその気が全て紛れるものでもない)。音楽はアースウィンド&ファイア(彼らの音楽はダンスとはなにか?ということを教えてくれる。それはこの最高のファンク/ソウルバンドの奏でる楽曲自体が既に踊っているからで、だから、ダンスとはその踊りかたが華麗でなくとも上手くなくとも、体を動かすことが出来なくとも、まぶたしか動かせなくとも、音楽に合わせたつもりで動いていれば、それがダンスであることを、僕は以前罹患したノロウィルスとの戦いの最中に知ったのだった。ブラックスキンの人々への差別があふれ、アメリカという国内にも、ベトナムという戦地/海外にも居場所をなくし、ファンタジーか宇宙にまで居場所を求めた、差別溢れるなかで作られた、愛と多幸感に溢れた曲を聴きながら)とスティーブ・グロスマン(彼の吹くテナーサキソフォンの音色がいまの僕の呼吸器の状態と一致して聴いていて心地が良いのであった)の音楽を聴いていた。

 

 ダーティーな時はとことんダーティーに、ラギットな時はできる限りラギットに振る舞う。という左翼文化人性にまったく染まっていない僕は、自分の体を労わるひな鳥のような慎重さでこの時は飲酒も一切していない。その反動で、というか、日常はアルコールから摂取していた糖分を補うためにだろう、体が求めた甘い菓子をよく食べた。それもデパートの地下や、焼き菓子の専門店で買うものではなく、家の近所にあるスーパーマーケットで売っているものに限った(流行ではない、とはいえ肺炎なので人込みは避けている)。つまりそれはブルボン、だとか、ロッテ、だとか、明治、だとか、日清というもし、かの菓子のメーカーの名前だと知らなければ歴史上の名称が並んでいると思うだろう、スーパーマーケットの陳列棚に宝石箱のように並べられた、いつでも日本の菓子の王道にして郷愁の情も誘う(僕は東京生まれでいまも東京に住んでいるのだけれど、それでも)あの菓子たちを買うに限った。そこは味と食感との再会と新/再発見の喜びに満ちていた。コンビニで売っている自社ブランドの菓子も多く食べた。いまやコンビニが売る食品は食通も唸らすほどの出来であり(特にセブンイレブン)、自社ブランドの菓子も上にあげたメーカーが作っているという話も聞くけれど、それでも味も食感の良さも大差あった。この手の菓子を買うならば、スーパーマーケット(orドラッグストアーだ)。

 

 それに合わせるように久しぶりに紅茶をよく飲むようになった。僕は喫茶といえば、マテ茶から、コーヒー(家では直火式エスプレッソで入れたモカを飲み、外ではドリップで作られたものを飲む)、ウーロン茶、白茶、緑茶、ハーブティールイボスティーと多くのものが好きだが、なかでも紅茶が好きで、これはあるとき僕が、他人が運転する自動車に後ろから追突され跳ねられ、その苦しいリハビリ生活のなかで覚えた趣味で、それ以来僕の友人だったのだけれど、気が付いたらそれも熱心には飲まなくなっていた。ところにまた体調を崩した僕のもとにその友が現れたのだった。それからしばらくたって、いまになって、やっと僕の身体はもとにもどりつつあるのだった。フロイトユングアドラー。どれが正解なのだろうか。

  

(流行っていないほうの)肺炎にかかって悲嘆するサキソフォニストが選ぶ美味しいお菓子トップ10!

 

10、リーフィ

9、ホワイトチョコレート(明治)

8、バタークッキー(ブルボン)

7、チョコダイジェスティブビスケット

6、ココナッツサブレ トリプルナッツ

5、アルフォートミニチョコレートメープル

4、ガーナローストミルク

3、アルフォートミニチョコレートメープル

2、チョコ&コーヒービスケット

1、ココナッツサブレ 発酵バター

 

 

 

 この文章はボリス•ヴィアンの誕生日に書いた。