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テスト投稿しろと言われたのでテスト氏のことでも書こう(なんてことはもう世界中の多くの人がやっている)

ブログを新設した。私は以前からインヴィジブルポエムクラブという題名のブログを運営している。小説や詩や批評を載せるためのものだ。それも含めて今回のものでブログを4つ作ったことになる。このブログはインヴィジブルポエムクラブをリニューアルするにあたって批評のページを分離させるために誕生した。小説も批評も根源は同じものだと思うが、同じ場所に置くのは食い合わせが悪い(それは例えるならば1つのスポーツに関わる者たちのようなものだ、ボクシングの選手はリングの上に登り拳を握り、実況者は実況席で叫びながら拳を握り、観客は客席に座りながら拳を握る。しかし選手が観客席に座ることはない、もちろん観客がリングに上がることもない)当ブログ新設 の挨拶は後日きちんと書くとして、とりあえずの記事を書くことにした。はてなブログから最初の記事を投稿してみろと言われているし(そんな五月蝿い編集者のようなこと(五月蝿く無い編集者が存在しているのか知らないけれど・笑))をしなくても良いのに(苦笑)。なによりも一度記事の投稿をして画面のレイアウトがどうなるのか眺めたい。


この記事の内容はタイトルのとおりなのだが、ほんとうに世界中の人々が同じことをしたことがあるはずだ。フランス人のヴァレリーは知の巨人と呼ばれた人で、青年の頃から才気にあふれる人だったようだが、若い頃に少しばかりの詩を発表したあとでとある老人の個人秘書となり文壇からは遠ざかり、その一方で、その生活の中で貯えた知識と才能と発 酵させていた。彼には知性があった。それはなによりも、沈黙の生活のなかで才能と知性を腐食させなかったことによって証明されている、冷蔵庫のなかに食品を貯えるだけ貯えてそれを腐らせてしまう人(あるいは親族さえもがその存在を老人の死後に知ったタンス預金)ではなかったわけだ。ヴァレリーはその時期にカイエ(日記/手記/手帳)を書き知識の整理と未来の知性の根源としていた。一般的に知られるようになったのは彼が46歳の頃だが、彼は(沈黙の時代も含む)生涯を通してテスト氏なる人物を物語の中心に据えた話を何作も書いている。テスト氏なる名前はもちろんテストのことで(フランス語ではmonsieur Teste )その内容は本作を読んでいただくとして(精神分析医のジークムント・フロイトはその著書、夢診断の中で評論家に向かってこう言っている、しっかりと読んだのか?いやこう言いたい、1度は読みたまえ、と)私がこの記事で取り上げるのはその思想だ。

ヴァレリーは自分の思考を人に対して告げたり、話したり、書かない人、つまり物言わない人の中にこそ本当の知性ある者(テスト氏)が居るのだと書いている。何故ならば(それが話されたものによせ、書かれたものにせよ)言葉は放たれた時点で自分が本当に思っていたことや伝えたかったことからは遠ざかっていってしまうからであり(あるいはこういうべきか、物事を正確に伝える言葉など存在しない)自分が放った言葉によって自分の思考 が絡めとられ知識と思考と思想は硬直し、最初の考えはどこかに行ってしまう。言語学者のソシュールや哲学者/精神科医ラカンのことをここでは例に出さないが、きっと言葉とはそういうものだろう。言葉が万能だと思ってしまうのはインターネット文化(掲示版とかSNS)が育ったことの弊害の1つだが、それは多くの人が誰かがネット上に発信した言葉で1度は心をエグられた経験があるからだろうと私は思っているのだが(ニーチェの言葉ではないが、人は自分を傷つけた凶器こそを評価する、そしてそれを手に持ってしまい、うっかりと使ってしまう)、ここではそれは主題ではない。

音楽家/文筆家の菊地成孔さんがテレビ番組でアウトサイダーアートと分類された芸術家たちを紹介した際に、出演 者が(確か真木蔵人さんだと記憶しているが)彼らは誰にも見せずに自分一人で絵を描いていたから偉いのですか?(評価されているのですが?)と言った。ヴァレリーの思想に則ればそのとおりだ。番組で紹介されたのはヘンリー・ダーガーだ。彼は死後有名になった画家だが、ゴッホやモリディアーニと違うのは、彼は自分のためだけに絵を描き、生涯のなかで誰にもそれを公表せず、死ぬ間際に全ての作品を燃やせと言ったところだ。彼は自分の為だけに絵を描いていた。自分のためだけに絵を描いている、人のことは気にしないという類いの発言があるが、ヴァレリーならばその言葉を言った時点で君は人の目に晒された、そしてそれを意識していることで、君の真の自由や表現が失われたのだと言うだろう 。一方でダーガーは自分の為だけに絵を描いていたのだから本当の自由を得ていた。そこには自由な想像力(ダーガーのそれはデモニッシュなものだが)があった。趣味の悪いことを言えば、それは空想実験だった。多くの者が一度は本当に自分のためだけに作品を作ることは可能なのだろうか?ということやそうなったらどんなものが出来るのかを考えたことがあるはずだった。だから彼の存在は現実となった空想実験だった。

私ははじめブログの題名を「知性を喪失しながら踊るエセー」「エスプリッソ」(これはエスプリとエスプレッソの合成語、造語)などにしようと思っていた(しなくて良かった・笑。言葉として座りがとても悪いのだもの)。題名に知性とエスプリが入っているのは、それを私が持っているという自惚れの表明ではなくて、それを呼び込みたかったからだ。ブログの題名は、小説や映画の題名とは違う、それらは完成品に付けられた名称だが、ブログとは日記(カイエ)であり延々と完成しないものだ。ブログの題名を考えることは中身が詰ま っているものに名を与えることではない、いまだに空のものに名前をつけることだ、人名を考えることに近い。人名には子供の未来に対する親の願いが込められている場合が多い。ブログのタイトルも同じだ。私は知性やエスプリを得たかったからそれらの言葉を題名に使用しようと目論んだ。
 
だが結果私がブログに与えたのは「gris homme」(グリソム)という名前だ。意味は灰色の男。全てのものを灰色にしてしまう(正常にレイアウトが表示されていれば)画面の右端に居る男(私が描きました、すごい下手だけれど・笑)のことだ。しかし恐ろしいことに私は「知性を喪失しながら踊るエセー」という題名を考えた時にはヴァレリーのことなど毛頭なかったのだが、ブログを開設/解説したことで(ヴァレリー流に言えば)私の本当の知性は失われることになる。考えていた題名のとおりになってしまった。

しかし踊ろう。
誰が私の手を取るのかは分からないが
素敵なダンスをできるようにしておく。
そこで流れる音楽はエリントンのビッグバンドだ。
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